脳が羅列モードの理由

(「ぶっくれっと巻頭エッセイ」NO.153号 2002 MARCH)

米原万里

 以前、この頁で「○×モードの言語中枢」と題した文章を書いたことがある。日本人が欧米人に較べて、情報を非論理的に羅列する傾向が強いこと。同時通訳をしていると、スピーカーの脳のモード差がモロに体感できること。それは、学校教育において、欧米では口頭試問と論文という能動的な知識の試し方を多用するのに対して、日本では○×式と選択式という受け身の知識の試し方が圧倒的に多いせいではないか、という愚見を披露した。単なる教育法の違いに原因を見ていたのだが、その背景にまで思い及ばずにいた。

 突然話は飛ぶが、某誌に連載中の下着に関する考察で、日本人抑留者がシベリアで便所の紙が無いことに悩まされたが、当時のロシアの庶民がそもそも落とし紙を用いていなかったという調査結果を記したところ、比較文学者の平川祐弘先生が、「せれね」という新聞の本年1月1日号に掲載されたエッセイを送って下さった。非常に面白い内容なので紹介する。

 日本人を含めてなべて東洋人が口下手なのは、「昔から科挙などで筆記試験に慣れてきたせいだろう。それに反し、西欧人は口頭試問で鍛えられてきた」と、ここまではわたしと同じ論旨なのだが、平川先生は、「それは紙が少なかったからだ」という。西洋では紙が非常な貴重品で、「第二次大戦中の米国兵は1日1回四片の割り当て」「18世紀に来日した西洋人は日本人が和紙で鼻をかんで捨てるという贅沢に一驚している」。

「ケンブリッジ大学で筆記試験が始まったのは、数学は1747年、古典は1821年、法律と歴史は日本歴の明治5年にあたる1872年とたいへん遅い」というのだ。

 日本人や中国人など漢字圏人間の脳の情報入力が視力経由に依存している割合が高く、西欧人の脳は聴力経由の依存度が高いという事は以前から指摘されている。西欧のアルファベットそのものが、音声を文字化したもので、文字そのものが聴力モードなのだ。

 文字は、音として発せられた瞬間に記憶に留めない限り消え失せてしまう言葉を固定化させる具として生まれた。要するに、記憶の負担を軽減するために発明されたとして過言ではないだろう。実際に長大な叙事詩を記憶していた世界各地の吟遊詩人たちが、文字が発明された途端に大量の知識を失ってしまったと、ソクラテスやプラトンは嘆いている。わが国でも「平家物語」の全テキストを暗唱していた琵琶法師たちは文字の恩恵を受けることが不可能な盲人だった。

 先ほど、同時通訳をしていると、スピーカーの脳のモード差がモロに体感できると述べたが、それは切実極まる問題だからだ。通訳者は、スピーカーの発言を訳し終えるまでは記憶していなければならない。ところが、論理的な文章はかなり嵩張ったとしてもスルスルと容易に覚えられるのに、羅列的な文章には記憶力が拒絶反応を起こすのだ。

 要するに、論理性は、記憶の負担を軽減する役割を果たしているわけで、文字依存度が高い日本人に較べて、それが低い西欧人の言語中枢の方が論理的にならざるを得ないのではないだろうか。

 何かを得ることは、何かを失うことなのである。わたしたちは、文字に記憶の負担を転嫁することで、記憶のための貴重な具をいくつか失ったことになる。

 コンピュータ化の進行とともに、記憶力のみならず、計算力とか、情報整理力とか、いくつもの脳の雑用と思われている作業を電脳に負わせるようになった。肉体労働だけでなく、精神労働の負担からも人間を解放し、持てる力をなるべく創造的な仕事に振り向けようというのだろう。しかし、創造力とは何だろう。記憶力や情報整理力など脳の基礎体力の上に成り立つもののような気がしてならないのだ。わたしたちは、キャベツの葉を剥くように、今後も脳の持てる力をどんどん削ぎ落としていくのだろうか。

(よねはら・まり エッセイスト)

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