言い換えの美

(「ぶっくれっと巻頭エッセイ」NO.147号 2001 MARCH)

米原万里

「ゴルバチョフが、あれだけの華々しい成功をおさめながら、あのように惨めに歴史の舞台から去って行かねばならなかった原因はどこにあるのか。ゴルバチョフの幼年期に遡って……ゴルバチョフはそのとき……ゴルバチョフが下した決断は……ゴルバチョフの最大の誤算は……」

 ペレストロイカ十五周年を記念して開かれたシンポジウムで同時通訳をつとめるわたしは、わずか三十分ほどのその基調報告の通訳をしながら、五十回以上は 「ゴルバチョフ」という語を発した。

 ところが、原発言者であるロシア人スピーカーは、発言の中で二、三回ほどしか「ゴルバチョフ」と言っていないのである。ロシア人はふつう名前と父称をセットにして人を呼ぶ習わしがあるから、ゴルバチョフもミハイル・セルゲイェヴィッチと言われることの方が多いが、それだって、二回しか使っていない。では、スピーカーは、何という言葉でゴルバチョフを指し示したか。それが、実に多種多様なんである。「彼」なんていう代名詞など、数回しか使っていない。

「幼いミーシャ(ミハイルの愛称)」「スタブローポリ州の若き党第一書記」「ライサの夫」「チェルネンコの葬儀委員長」「新しい党書記長」「ペレストロイカの開始者」「グラースノスチの父」「核軍縮の立て役者」「クレムリンの主」「ソ米会談の主人公」「ソ連最初の大統領」「上からの改革者」等々。とにかく、絶対に同じ単語を使うものか、という美意識に貫かれている。

 そして、これは別にこの時のスピーカーに限ったことではない。ロシアのテレビやラジオ、文学作品は当然のことながら、経済や科学の論文にさえ、同じ事柄を同じ語で指し示すのを避けよう避けようとする傾向が認められる。何度も同じ単語を反復するなんて野暮の骨頂。そんな発言するなら、黙っていたほうがまし。そういう意地が漲っている。

 傍からはそう見えるのだが、彼らの言語中枢は、そうしなくては気持ち悪くて落ち着かないという風に習慣づけられてしまっているのだ。

 もっとも、ロシアに限らず、欧米文化圏に共通する、これは修辞学のイロハのようで、仏語ニュースを聞いていると、原文では、「ポトマックの畔」とか「ワシントン」とか言い分けているのを、同時通訳は全て、「アメリカ政府」と訳を統一していた。

 せっかく、子供の頃から叩き込まれた美意識に従って言い分けたスピーカーの努力は、日本語に訳す時点でほぼことごとく水泡に帰する。日本語では、言い換えの美学はさほど重要視されないし、それよりも、全ての言い換えを字句通り訳していたら、聞き手に通じない危険の方が高いのだ。もったいないから捨てないで訳そうとすると、「ポトマック河というのがワシントンに流れておりますから、ポトマックの畔、これすなわちワシントン、つまりアメリカ政府の所在地をさすわけで、つまりアメリカ政府のことなんですね」と、聞き手の無知を心配してクドクドと説明を付けてさしあげねばならず、時間的余裕のない同時通訳としては、結局「アメリカ政府」と意訳する以外にないのだ。

 これは仕方がない。言語にまつわる習慣の違いなのだから割り切るしかない。それよりも、もっと困ったことがある。訳す方向が逆になった場合である。日本人スピーカーは、こちらの気苦労も知らずに、

「森首相は……森首相は……」

 と言う。時々「総理」と言い換えるぐらいなのだ。でも、それをそのまま訳すと、聞き手のロシア人には恐ろしく幼稚で無知無教養な人の発言に聞こえてしまう。だから、同時通訳ブースの中で身悶えしながら懸命に言い換えようとするのだが、次々に浮かぶのは、

「霞ヶ関の蜃気楼」「鮫の脳味噌の持ち主」「滅私奉公の推進者」「日本を神の国と思い込むリーダー」……と口にするのがはばかられるフレーズばかりなのだ。

(よねはら・まり エッセイスト)

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