懺悔せずにはいられない

(「ぶっくれっと巻頭エッセイ」NO.143号 2000 JULY)

米原万里

 このあいだ、新幹線に乗ったら、隣席の紳士の目つきがあまりにも鋭く日くありげで、こちらも俄然好奇心にとらわれてあれこれ尋ねるうちに職業を明かしてくれた。経済犯罪や詐欺師など、いわゆる知能犯を専門にしている刑事さん。根は話好きの人らしく時が経つほどに重い口が滑らかになっていった。「九九パーセントこいつが犯人だという心証があるのに、最後の一パーセントのところで確実な決め手が無くて踏み込めないってことありますよねえ。そんなときには、どうするんです?」「粘りですよ。刑事は、何と言っても粘りです」「粘りってったって、納豆じゃあるまいし、ただただ粘りがあればいいってもんじゃないでしょうに。いったいどんな風に粘るんです?」「人間てのは、悪いことするとね、それを必ず誰かに言わずにはいられなくなる生き物なんだなあ。黙り通して秘密を墓場まで抱えていくなんて人、オレの担当した事件じゃあ一人もいなかったね。必ず誰か身近な人に話してるもんなんだ。まだ話してなくても、そう長い間黙ってられるもんじゃない。必ずそのうちに誰かにしゃべる。だからねばり強く丹念に容疑者の近辺の人間に当たって行くんだ。そして待つ。一昨年、逮捕にこぎ着けた事件なんて、五年も待ったからねえ」

 この話を聞きながら、二〇〇〇年ほど前の古代世界では胡散臭い新興宗教の一つに過ぎなかったキリスト教が、とくにその一派カトリックが、中世から現代にかけて急速に発展拡大し、五大陸に多数の信者を擁する有力宗教になりおおせた理由の一つをつかんだような気がした。それは、懺悔という名の卓抜なる儀式を発明したおかげもあるのではないかと。

 仏教や、キリスト教でもカトリック以外の宗派が行う懺悔は、神仏の前で罪を告白し赦しを請うものである。ところが、カトリックでは、司祭の前で、要するに人前で懺悔する形をとる。

 凶悪な犯罪までいくのは希としても、ちょっとした悪事からたわいのない脱線まで、人間、生きていれば非の打ち所のない聖人君子であり続けるはずがない。犯した罪の程度と、その人の性格によって罪悪感や良心の呵責に苦しむ度合いは様々だろう。そして、心の重荷を少しでも楽にしたいと思う人間がとりたがる最もポピュラーな方法が、おのれが犯した悪事について別な人間に打ち明けてしまうことなのだ。もっとも、内容によっては、他人はおろか肉親にさえ言えないことがある。いや、そんな場合の方が多いはずだ。絶対に打ち明けた秘密を他に漏らさないような聞き役を多くの人が求めている。そういうことを、カトリック教会は、おそらく、ある日、発見したのだ。

 そして、司祭にこの聞き役をさせることにした。厳格に守秘義務を課せられた司祭には、神の代理人として信者の告白に耳を傾け、神の名において赦す権限が与えられる。当然有り難みも浄化作用も増すというもの。

 プロテスタントは、これに対してあくまでも個人の内面的な悔い改めを求めた。しかし、どうしてもそれでは心の平安が得られないという信者が続出して、結局、牧師への告白を認めたらしい。カトリックの人心掌握術の方に軍配が上がった形になった。自分一人で抱えきれないからこそ聞き手を求めているのに、神や仏に告解せよ、おのれの良心と向き合えと言うのは、大多数の人々には無理な話だったのである。

 つい先日世間を騒がせた十七歳のパスジャック少年の場合は、インターネットのメッセージ・ボードが、懺悔を聞いてくれる司祭の役割を演じていたみたいだ。いや、そこを訪れる匿名の人々が、と言い換えるべきかもしれない。人間を恐れ、嫌悪し、憎みながらも、人間に聞きとられることを求めているのが哀しい。

 そう言えば、インターネットが人々を取り込んでいく勢いも、どこか宗教に似ている。

(よねはら・まり エッセイスト)

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