省略癖
(「ぶっくれっと巻頭エッセイ」NO.142号 2000 MAY) |
米原万里 「日本語は曖昧である」 そう思い込んでいる人はことのほか多い。圧倒的大多数の場合には、日本語で発言した人間の表現が曖昧なのであって、日本語はそのとばっちりを受けているだけなのだが。まあ、人を貶すよりも日本語を貶した方が無難なのだろう。日本屈指の英語同時通訳者のHさんなど、しじゅう愚痴っている。 「何、今のスピーカーの日本語!? 悪夢のように意味不明だわよ」 そして、口癖のように言い添える。 「そこへいくと、英語は」 Hさんが問題にするのは、次のような発言だ。 「お話のなかで、日本企業の進出の展望なのですが、私は自動車なのですが……」 しかし、文脈から意味はくみとれる。 「(あなたは)日本企業の(貴国への)進出の展望(について話された)なのですが、私は自動車(メーカーの者)なのですが……」 典型的な、勝手にどんどん省略タイプの発言である。もっとも、聞き手に省略部分が了解されている限り、コミュニケーションは立派に成立しているし、時間の節約にもなるのだ。 このような省略癖はどの言語にもある。言語によって省略されがちなエリアが異なるだけだ。同一言語内で意志疎通しているあいだは、気にもとめないが、省略エリアの異なる言語との往復になったとたんに、
と突然慌てたりするのだ。Hさんご贔屓の英語だって、同じヨーロッパでも大陸のフランス語やロシア語に較べると、省略エリアが多いし、大きい。 たとえば、space developmentという語句。「宇宙開発」という意味で使っているが、宇宙は今も拡大発展し続けているという説があるから、「宇宙そのものの発達」という意味にもとれてしまうではないか。ロシア語の場合、[原文、省略](人間による宇宙開発)となっていて、必ず「人間による」という語を添えて、二義性(つまり曖昧さ)を排除するようになっている。だから、ロシア語の方が優れていると言いたいのでは、もちろんない。「宇宙開発」にせよ、space developmentにせよ、「人間による宇宙開発」のことであるという了解がすでに世間にあるのなら、わざわざby mankindとか、「人間による」を添えなくても良いと思う。 ところで、突然、話が変わって恐縮だが、最近、老人性痴呆症が進行中の母のことで、「高齢者支援センター」なる公共施設に関わることが多くなった。母がベッドから落ちないように手すり付きのベッドを買えと薦められる。そうすれば、補助金がでますよ、と。今のベッドで十分です。手すりだけ取り付けたいんです。たちまち相手は無愛想になって、勝手におやりなさい。補助金は出ませんよ、と言う。 鳴り物入りの「介護保険」開始にともない、今まで福祉など見向きもしなかった企業が砂糖に群がる蟻のように参入してきて、やはり、「高齢者支援」、「高齢者介護サービス」をうたっている。そんな企業に依頼して、車椅子の母を病院から自宅まで、タクシーなら660円の距離を運んでもらったら、気味悪いほど愛想がいいので不吉な予感がした。案の定、6500円取られた。その「福祉企業」には自治体からさらに同額の補助金が下りるということだ。もう一社は、段差解消スロープを粘着テープでチョコチョコッと取り付けて11000円を請求してきた。 ああ、わたしとしたことが、重大な省略を見過ごしていたのだ。「高齢者支援センター」とは、「高齢者(を対象に業務展開する企業を)支援するセンター」のことだったのだ。 (よねはら・まり エッセイスト)
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