うただ荒涼……

(「ぶっくれっと巻頭エッセイ」NO.141号 2000 MARCH)

林 望

 ウタダヒカル、という人の歌が、ばかな流行りようである。なんでも、CDアルバムの売り上げが、七五〇万枚にも達したそうである。まさに驚天動地のことと言わねばならぬ。

 いま手元に、その最大のヒット曲『Automatic』の歌詞がある。これをつらつら眺めてみると、しかし、なるほどよく出来ている。

 冒頭「七回目のベルで、受話器を取った君、名前をいわなくても、声ですぐ分かってくれる」と歌いだす。こういう感情は、携帯電話世代の若い人たちにも、もうちょっと年長の人たちにも、すぐ「思い当たる」ふしがあるだろう。

 しかも、この歌詞を虚心に眺めてみると、いったいこれは男の気持ちであるかそれとも女の気持ちであるか分からない。「君」という二人称は、通常の日本人の会話の中では男から女への呼びかけであった。女から男へ「君」と呼びかけるのは、平安朝の文学や詩語の世界ならいざ知らず、ふつうの会話では無いことである。だから、女の子が歌っているにもかかわらず男にも違和感がない。そういう両性具有的な歌詞なのだ。「あいまいな態度が、まだ不安にさせるから、こんなにほれてることは、もう少し秘密にしておくよ」という文言も同様である。ただしその直前には「Automatic、抱きしめられると」という言葉があるから、ほんとうは女の気持ちであるらしい。まことに「ヌエ的」である。

 なおかつ、この歌詞は、(最近のポップスには珍しくもないが)日本語と英語が、まったく同じ「流れ」のなかで、バイリンガル風に入れ替わる。つまり「君に会えないmy rainy days、声を聞けば自動的にsun will shine」というふうに流れていくスタイルは、実際は英語を話せない人たちにも、この歌を歌うことで、恰も自分が英語の歌を歌っているような錯覚(と快感)を覚えさせる。ここにおいては、このウタダという人がアメリカ育ちであるという「情報」がものを言う。つまり、歌詞に英語を交えるなんてのは、昔からあったのだが、あれは日本人の作詞家の日本英語、これはアメリカ育ちのウタダさんのホントの英語、というなにかこう一段と格の高い英語であるような幻想がそこに醸成されるのだ。じっさいは、昨日今日英語を習い始めた子供でも分かる程度の英語なのだが……。

 とそう思ってみると、ウタダ嬢の書いた日本語の歌詞というものも、小学生にも分かる程度の簡単平易な日本語で、およそ「詩」というほどのものではない。

 先日、私はこのウタダ嬢がどこかの地方ラジオ局でやっていたというDJを聞いたが、その日本語のあまりの「きたなさ、品のなさ」にうんざりし、ああ、こういう幼稚で下世話な日本語は聞きたくないと耳を覆ったことだった。この人の日本語のレベルは、遺憾ながら、ごく低品格の「子供言葉」から出ていないのである。そしてたぶん、彼女の英語もまた、その程度の「子供米語」なのであろう。それは帰国子女の日本語・英語によくある事実で、なにもウタダ嬢だけのことではない。

 と、そういう認識からまた彼女の書いた歌詞を逆照射してみれば、言葉に男女の位相差も敬語的センスも皆無であることは子供言葉の特色であり、英語と日本語の自在な交替は帰国子女的言語体系に他ならないことがわかる。それを、言語的に未発達な、しかも外国人コンプレックスの「今どきの子供たち」が、自分たちの代弁者とも思い、しこうして憧れとともに歓迎するのは、蓋し当然であった。

 しかし、私は信ずる。こういうものを「詩がいい」などと過褒すべきではない。もっと冷徹に、何がどうなってこういう「現象」になっているのかを見据えながら、しかし、やはり日本語としては低俗である、と批判していく目が、ほんとうの大人には求められているのではなかろうか。

(はやし・のぞむ 作家)

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