「違い」と「違ひ」のちがい

(「ぶっくれっと巻頭エッセイ」NO.140号 2000 MARCH)

林 望

 どうも小言幸兵衛のようで恐縮であるが、これも老人力のひとつとお見許し願うとして、ここにまた、なんとしても耳に逆うというか、違和感が甚だしいというか、思わず「そんな言い方があってたまるか」と叱り付けたくなる表現がある。

 これは、もっぱら若い人たち、それもせいぜい二十五歳以下の、いくらか教養程度の低い(あえて言えば育ちのあまり芳しくない)人たちに特有の言い方のように思われるのだが、すなわち、こういう言い方である。

「その答えはチガくって、正解はね……なの」

 この「チガくって」が問題である。むろん、正しくは「その答えはちがっていて、正解はね……なの」というべき所である。

 もともと「ちがう(違う)」という動詞があって、その語幹「ちが」に形容詞の語尾がくっついた形である。それによって、本来は「違わ(ない)/違お(う)、違い(ます)/違っ(て)、違う、違う(とき)、違え(ば)、違え」と活用する動詞(五段活用)が、たとえば「白い、高い」などと同じように「違かろ(う)、違かっ(た)/違く(する)、違い、違い(とき)、違けれ(ば)」と形容詞化して使われたものである。

 むろんそれは文法的には誤用であるが、どうして、こんなことが起るのであろうか。

 ここで注目すべきは、動詞の連用形の「ちがい」と、形容詞の「しろい」などの活用語尾「い」である。この語尾「い」が、たまたま同じ音であることを接触軸として、本来「違います」のように動詞連用形または連用形から派生した名詞(例「違いの分かる男」)であるはずの「チガい」が、「白い、高い」などのごとく「チガい」という形容詞の終止形または連体形のように意識され、そこから無知に基づいて、「チガく」だの「チガかった」だのという誤用が発生してきたものではあるまいか。

 ところが、しかし、同じ五段活用の動詞でも、たとえば、「思う」「拾う」などの動詞には、「思くって」「拾かった」などいう用法は発生していない。どうして、同じ活用語尾をもっていても、これらの動詞には形容詞形が発生せず、もっぱら「違う」だけに発生したのか、というそこがもう一つの問題だ。これはたぶん、次のように解析できるであろう。

 つまり、「思う」「拾う」などは「動作」の動詞である。これらの動作動詞は「動詞性」が明確で、意識内で形容詞化する余地がない。しかし「違う」という動詞は「違っている」という「状態」を表わすことができるので、やや動詞性が曖昧になり、その限りにおいて、使用者の意識内で「白い、高い、違い」と形容詞的に把握されやすい。言葉のセンスに鈍感で、感情的に言葉を発している人々には、こういう経路を辿って「チガい」という形容詞が誤って想定されたものであろう。

 ところが、これを旧仮名遣いで「違ふ」と書くとき、連用形は「違ひ」であり、一方で、形容詞の終止・連体形はそれぞれ「白し・白き」であるから、ここには混同誤用の余地が無い。もっとも、中世以後には、「白い・高い」などの音便形も普通に使用され、それをまた「白ひ・高ひ」などのように誤って書いた例がいくらもあるから、そうなると、ここに「違ひ」との共通根が現れてきて、結局、この誤用はいつかは発生するべく用意されていた必然であることがわかる。いやいや、そんなふうに、あれこれと誤用にもとづく「新語」を生み出しながら、日本語は表現を豊かにしてきたともいえるのである。この推論がもしチガかったら御免を被ります、へい。

(はやし・のぞむ 作家)

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