対談

翻訳と通訳と辞書あるいは言葉にたいする
愛情について

(「ぶっくれっと」138号・139号掲載)


柳瀬尚紀(やなせ・なおき 英文学者)
米原万里(よねはら・まり ロシア語通訳者)

辞書の芯には文学をおこう
成熟する言葉の足どりが文学に反映する
大衆化社会と辞書
百科事典を引くとき
完璧な訳はありうるか
翻訳の数だけ誤訳はある
(以上、138号)
辞書は一長一短
語の根源の意味をとらえる
博士と狂人とOED
自分のための用語集をつくる
同時通訳の歴史
辞書がなくては生きて行けない
(以上、139号)

「ぶっくれっと」一覧

 辞書の芯には文学をおこう

柳瀬―米原さんは、母国語はロシア語ですか。

米原―母語は日本語です。小学校三年の途中まで日本でしたから。九歳でチェコのプラハへ行って、帰って来たのは中学二年のときです。

柳瀬―そうか、向こうでも日本語を読んでいたわけですね。

米原―かなり読んでました。でも、読むだけで書かないから、いまでも漢字がなかなか正確に書けないんです。アクティブな知識じゃなかったんですね。

柳瀬―なるほど。漢字以外では、日本に帰って来たときにあまり違和感というものはなかったですか。

米原―聞き取りのスピードが、最初ついていけなかったですね。読むときは自分のスピードで読みますから、帰って来て授業に出ると、かなり速く感じました。中学二年の三学期に転入したんですけれど。

柳瀬―ぼくなんか、自分の日本語はちょっとでたらめじゃないかなという意識がずっとあるんですね。北海道の東のはずれ、根室で生まれて高校三年まで根室なわけで、窓を開けると、まあ天気のいい日には対岸の島のロシア兵が見えるというような国境の町です。
 北海道というところは、方言が東北ほど強くはないように思います。ただ、アクセントがまるで違う。いまならぼくは「やなせ」ですと、平板にいうわけですが、北海道では誰一人そうはいわない。「やなせ」と「な」に力点がくるんです。あるいは東京では「おやじ」ですが、北海道では「おやじ」なんですよ。そうすると、東京に出て来たときに、自分の固有名詞が拉致されるという経験をしたんですね。

米原―自分じゃないみたいですね。

柳瀬―自分じゃないんです。それがあって、どうも自分は東京の日本語とはちょっとはずれたところにいるんだなという意識があるんです。それから、外国文学でジョイスとか、エリカ・ジョングとか、バーセルミとかやってますけど、ステテコはいて、豆腐食って、日本酒飲んで、そば屋でジョイスなんか話してる。そうすると、やっぱり、あくまでも外国人として英語に接しているわけですよ。あくまでも外国人なんです。そういうところがあって、ぼくの場合、それを埋めてくれるのが辞書なんです。

米原―その辞書は「英英辞典」ですか。

柳瀬―いや、「英英」と「英和」と両方ですね。ただぼくはほとんどの英和辞典に不満で、つまりやや厳しくなるけれど、日本の英和辞典を作っている人たちは英語の実例を知らないんですね。読んでない。読んでない人たちが、いかに多数集まっても、これは編集部に迷惑をかけるだけで、これぞっていう訳語は浮び上がってこない。これぞという例文は選ばれないでしょうね。

米原―私、日本の大学で驚いたのは、言語学をやる人が文学を読んでいないんですよね。

柳瀬―そうです。

米原―まあ、言語学だけでなく、他の学問分野の人々もそうだけど。言葉を愛するのなら、言葉の博物館である文学も愛して当然だと思う。もちろん方法論は違うものですけれど、でも基本的にそれが根幹にないと、お話にならないと思うんです。そういうことが、日本の辞書の欠点なのかもしれないなという気がしますね。

柳瀬―まさしくその通りです。だいたい大学で英語学をやってるといえば、これはナントカの代名詞みたいなものでね。(笑)

米原―ロシア語でもそうでした。ロシア語学をやる人とロシア文学をやる人は全然違うんですよ。語学の人は文学をやらない。文学の人は語学をやらない。ロシア文学なんていうと、日本語でチェホフ読んで、ドストエフスキー読んで、ニヒリズムとはとか虚無はとか言ってるの多いですからね。(笑)

 成熟する言葉の足どりが文学に反映する

柳瀬―たとえば英文科なりロシア語科へ入ったけど、あまり文学に興味ない。そうすると、そこでしがみつくようにというか、飛びつくように英語学やロシア語学に行っちゃうんですね。それに、頭の悪い人が「虚無」なんて考えても駄目なんです、ちゃんと哲学者がやるんだから。ぼくみたいに頭の悪いのは考えなくていいんで、文学ってやっぱり、遊びでやらなくちゃ駄目じゃないかなと思いますけどね。

米原―チョムスキーにしてもヤコブソンにしても、文学を大量に読んでますでしょ。その限りなく豊かな言葉の土壌の上に言語学をやるからおもしろいんで、それがないと骸骨だけになっちゃいますね。

柳瀬―それで吉田健一という人は、だいぶ昔ですが、英語学というものをケチョンケチョンにやっつけ、からかったことがあります。

米原―基本的には、人間がいろいろ表現したいことがあって、それは自分の頭の中で考えることだったり、感情のあやだったり、あるいは世の中の森羅万象、なんとか言葉で表現しようとする、その試みが文学というものに反映されてくるんですね。この積み重ねによって、言葉というものが成熟していくわけです。文学は、その足どりなんですよ。だから、日本文学なら日本人の精神史の足どりでもあるし、日本語でもって、あらゆることを表現しようとしてきた、その戦いというか、そういうことの足跡が文学には残ってるんですよね。
 ですから、子どもに自分の国の文学をたくさん読ませるということが、結局、私は愛国心を育てることだと思う。日の丸、君が代じゃないんです。つまり、言葉というときに、文学を抜きにして言葉の問題はないと思うんですね。もちろん、数学であれ、物理であれ、すべて言葉を使いますから、そこにもたくさんの言葉の可能性を広げている分野はあると思いますが、いちばんそれを一生懸命やってるのは文学だと、私は思いますね。

柳瀬―そこで辞書の話につなげますと、どの辞書も、なんか非常に場当り的な言葉を載せて、それを競い合っているような部分がある。全体からみればほんのわずかな語なんですけど、そこばかり広告で取り上げられたり、週刊誌で取り上げられたりする。しかし、大事なのはそういうことじゃないんですね。たとえば、国語辞書をやる人だったら、漱石を暗記しているかどうか、鴎外を全部読めるのかどうか。そういう人が編者に入っているのかどうか、それが問われるべきなんです。ぼくなんか、鴎外を全巻読もうとノートとってやりながら、でも挫折しましたし、露伴を全部読めない。読めないから、そういう辞書がほしいわけです。 だけど、文学はほんとに読まれなくなっちまったんでしょうね、現実に。

米原―ある意味では、資本主義の宿命かもしれない。やはり資本主義社会においては、いちばん優秀な学生は会社の営業部へ配属されるんですね。ものをたくさん売る人が偉いんです。文学でも、いちばん売れる作家が偉い。それで編集者も、わかりやすく、やさしく書けっていうんですよ。そうすればたくさん売れるからです。市場原理というのはそういうものだから、これはしようがないんですね。だから、文学というものはある意味では非市場的な要素がかなりあって、市場原理にとらわれているかぎりは駄目になっちゃうと思いますけど、どうなんでしょうね。

 大衆化社会と辞書

柳瀬―やっぱり人間が文字を発明したところまで溯っちゃうんでしょうか、あるいは文字を読める人間が必要以上にふえたとか。たとえばホメロスがあって、口承のものであった。それが文字に定着することによって、より多くの人が読むようになる。それからグーテンベルグの印刷術があって、さらにドーンと下って義務教育だのになっちゃうと、やっぱり大衆化というか市場原理というのは、言ってもしようがないんでしょうかね。

米原―私はそれはプラス、マイナス両方あって、プラスのほうが多いと思うんですけどね。たくさんの人が読めるようになるということは、その中ですごく理解する人もいるし、あまり理解できない人もいるし、いろんな解釈が出てくるわけだけど、それだけ機会が多くなるということですから。

柳瀬―いや、でもどうなのかな。ぼく程度のものがなんでジョイス翻訳をやらなくちゃならないのかという「機会」に疑問を感じることもあります。ぼくの父親は早く死んで、母親は若くして未亡人。いつか七十の母親に、「どうして若いうちに二号かなんかにならなかったの。そうしていたら、いい暮らしができて」っていったら、「私が二号さんになっていたら、お前はばくち打ちになったろう」って言われたけど。(笑)ぼくはジョイスも何も知らずに、ノホホンとばくち打ちやっていたかもしれない。

米原―ジョイスを訳すのもばくちだと思いますけどね。(笑)

柳瀬―ははは……。テレビというものが、あれだけの力をもちながら、ろくなことやらないでしょ。「お前ら馬鹿になれ、馬鹿になれ」っていう番組が九十パーセント以上じゃないですか。

米原―あれも視聴率を追求していると、ああならざるを得ないんですよ。

柳瀬―そうなんです。

米原―楽なほうに楽なほうに流れないと視聴率を稼げないから、そっちへ行くんです。質を問わなくなる。だけど、みんなが見るかというと、そうじゃないんですけどね。

柳瀬―要するに、下種なほうへ、下種なほうへ媚びるというか。

米原―そうです。末梢神経を刺戟して。

柳瀬―仮に、幻想でもいいから、少し世の中を高めましょうよというのはないんですね。

米原―ただ、そういう中で抜きんでようと思ったら、大勢とは別な方向をさぐらないと、抜きんでられないんでしょうね。ときどきすごくいい番組、あるじゃないですか、ドラマにせよ、ドキュメンタリーにせよ。そういうのを見ると、やはりちゃんと作ってます。

柳瀬―そうですか。ぼくなんか辞書について漠然と不満を抱いていることっていうのは、そういう大きな社会現象なんかの流れに乗ってるのかなという気がしますね。辞書に「ドタキャン」が載ったとか載らないとかいうようなことは、辞書とは関係がない。ほとんど爪のあかみたいなことですよ。

米原―あれ、どういう基準で載せるんでしょう。たとえばちょっと昔のはやり言葉って、いま使えばすごくダサイでしょ。逆に、あるときのはやり言葉で、そのまま日常語というか、ふつうの日本語になっているものもある。だから、ある程度年月を経ても使われるか、あるいは死滅していく言葉か、どのあたりで見極めているんでしょう。

柳瀬―専門家に尋ねるということですが、たとえばファッションの専門家がどのファッション用語を入れるか、決められるでしょうか。専門が分かれて行けば行くほど、基準なんてなくなってしまうと思う。つまり問題は、日本で大型辞書といわれている辞書一冊、一人で全部、「あ」から最後の項目まで目を光らせてる人がいないということです。

米原―それは大変ですね。全部目を光らせるのは大変だと思いますよ。あまりにも非人間的で、そんなことさせるの可哀想だ

柳瀬―日本語なんだもの、それぐらいやってほしいね。辞書には独裁者がいないと駄目だと思うんです。もちろん、不備があっていいんですよ。その人の好みで、猫が好きだから「愛猫」という言葉は載せる、しかし犬は嫌いだから「愛犬」は載せないと、極端な話ですが、そういう辞書のほうが読んでおもしろいものになるという気がしますね。

 百科事典を引くとき

柳瀬―米原さんはどんなときに辞書を引きますか。

米原―漢字を書くときによく辞書を使います。ただ、百科事典とか『広辞苑』『大辞林』タイプは結構引くんです。たとえば「鉄のカーテン」という言葉があります。これ『広辞苑』『大辞林』では、チャーチルが使ったとしか出ていない。小学館の『大百科事典』をみると、ナチスの宣伝相ゲッベルスが最初に使ったと書かれています。つまり一九四六年三月、チャーチルがアメリカで「鉄のカーテン」と演説する一年前、敗戦濃厚な時期になんとか連合軍を分断させようと「ドイツが負けたあかつきには、東欧諸国が鉄のカーテンによって遮られることであろう」と、ゲッベルスが書いている。
 日本の辞書はここまでなんです。ロシアの辞書をみますと、それよりもさらに十五年前の一九三〇年にミクーリンという作家が「文学新聞」に書いているそうです。「舞台で火の手があがったときに、それが広がらないように鉄のカーテンを下ろすことがある。西側諸国では、いまソ連があたかも火事であるかのように考えている。だから、革命の炎が燃え広がっては困るというので大急ぎで鉄のカーテンを下ろしている」ということを書いている。ですから、一九三〇年のソ連では、鉄のカーテンはソ連側ではなくて、西側が引くんだという考え方だった。

柳瀬―おもしろいですね。

米原―その記述がすごく気になったので、「鉄のカーテン」を『ロベール』で調べてみたら、第一義が「防火幕」です。第二義が「防犯シャッター」、そして第三義がチャーチルの使った意味になる。第一義というのは十八世紀かな、リヨン市にできた劇場で初めて防火の目的で鉄のカーテンを用いるようになったんですって。これは昔は舞台でろうそくを使っていましたからね。

柳瀬―『ロベール』って、どの『ロベール』ですか。

米原―『プチ・ロベール』です。二冊もの。私、ロシア語の通訳だから、「鉄のカーテン」って言葉はしょっちゅう登場するわけです。あるとき、興味をもって引きだしたらずっと溯って、でも日本のほとんどの辞書はチャーチル止まりでした。
 あと、最近でおもしろかったのは、「ガイドライン法案」が去年でしたか、国会で問題になったときに外務省の高官が更迭されましたね。周辺というのは「地理的概念」ではないと言って更迭された。この「地理的概念」を調べていったんですね。これも日本の辞書や百科事典には一切載ってないんですけど、「地理的概念」って最初に言いだしたのは誰だと思います。メッテルニヒなんですよ。メッテルニヒが「イタリアは地理的概念にすぎない」と言った。つまり、国ではないと。だから、オーストリアが分捕ってもいいという意味だったんですね。それでイタリアが反撥して、リソルジメント(イタリア統一運動)が活溌になったのはそのせいでもあると出てました。

柳瀬―それは何を引いたんですか。

米原―ロシアの『名言名句大事典』です。百科事典はおもしろいですよ、本当に。辞書を引いてるだけで一編ずつエッセイが書けるんですよね。

柳瀬―すごい読み手だな。ぼくはある大辞典について、新書を一冊書いているとこですが、これがなかなかほめるところがない。

米原―私はずいぶんお世話になってます。

柳瀬―どんなお世話になりますか。

米原―そうですね、故事来歴なんか、結構お世話になりますよ。たとえば「十三」という数字が、西欧では嫌な数字だけど、中国や日本ではいい意味だと。何かそんなテーマをもって調べていくと、結構、原石の宝庫ですよ、大きな辞書は。『広辞苑』であれ、『大辞林』であれ。

 完璧な訳はありうるか

米原―私は辞書のおもしろいと思ったことだけ覚えて、先生のように悪いところを覚えてないんでしょうね、どちらかというと。通訳をやっていると、知らない単語が出てくると焦りまくります。ですから、事前になるべく資料を取り寄せて調べるんです。ある単語が分からなくて、一つの辞書に当たってなくて、二つ目当たってなくて、三つ目に当たって語根の同じような単語がある、もう一つ別の用法があったら突き合わせて、多分この意味だろうと類推していくわけです。だから辞書には、ちょっと載っているだけでも、中途半端でも、ありがたいという感じなんですね。辞書はそういうものだと思う。現時点での達成点ですから、まだ完成途上だと思えばいいのではないですか。

柳瀬―そうそう、完成途上だ。辞書というのは常に若書きであるというか、そういう部分はありますね。

米原―だから、使っている人が気のついたことをどんどん編集部に寄せるような、そういうものであるといいんです、日本国民全体の財産としてね。

柳瀬―編集部も、都合の悪いことも隠さないで公表するといいんですけどね。ミスプリとか。

米原―普通の本だってミスプリは大量にあるんですから、もう辞書は当然でしょう。おもしろいのは、間違いというのは、人の間違いでも自分の間違いでも、正反対に間違うのは絶対気づくんです。ところが、微妙な違いだと気づかないんですよ。通訳をやっているときも、明らかな誤訳は、ある意味では誤訳じゃないんです、みんなわかりますから。ところが、微妙な違いになると、だれにも分からないんですね、誤訳だということが。
 多分ミスプリもそうですよ。みんなが気づくのはそれだけ派手なもので、おそらくいちばん微妙なところが難しいんだと思います。誤訳ということでいえば、たとえば銀行業務やコンピュータ用語であれば一対一の対訳が可能な世界ですけれども、文学についていえば、最終的な完全な訳なんてあり得ないと思うんですね。

柳瀬―いや、ぼくは一つしかないと思うんです。やっぱり完璧なものはありうると思うんです。

米原―ありうると思いますか。

柳瀬―そう。可能なかぎり、そこへ近づいていく。

米原―近づいていくことは可能だけど、そこに到達することは不可能でしょ。

柳瀬―到達は多分できないでしょう。でもね、そういうものがありうるとして、そういうものへ近づいていく行為として翻訳をやらないと駄目じゃないかなと思うんです。

米原―それはそうですよね。いい加減でもいいということではない。

柳瀬―つまり、平たいところで、こういう訳もある、こういう訳もあると考えてしまったら、そんなことはやらないほうがいいと思うんですよ。自分の訳は、それまでのものをずっと見下ろしてやるんだと、少なくともそういう意識でやっていかないといけない。ということは、どこか上にちゃんと一つ、いいものがあるんだと。まあ、理想ということかもしれませんけどね。そういうものに向かって行くということでなければならないと思ってます。
 平たいレベルでこういう訳もある、こういう訳もあるというのでは、これは原作に対してものすごく不遜ですよ。原作はそんなことで書いているはずがない。必ず、一つなんです。a wholeなものなんです。ジョイスの『ユリシーズ』の新訳が出ていますけど、ほんとに英語が読めていないというのがたくさんある。いかに英語ができないかということを不様にさらけ出したものですね、あれは。

米原―それはロシア語でも、トルストイの翻訳でも明らかに変だと思うのはたくさんあるんです。それでも私は訳した人は偉いと思うの。少なくとも、全体の物語の流れは伝わって、間違ったものであれ、感動させるわけですから。

柳瀬―いや、昔はいいですよ、何十年も前は。いまは駄目です。原文がCD―ROMになる時代ですもの。それはやっぱり、ちゃんとやってもらわないといけません。

 翻訳の数だけ誤訳はある

米原―辻由美さんという人は、『世界の翻訳者たち』という著書の中で、いわゆる世界的名作というものはみんな翻訳で読まれているといいます。聖書もしかり、シェイクスピアしかり、世界の圧倒的多数の人たちは原書で読んでない。みんな翻訳で読んで、そして名作だと思ってるわけですね。だから、どんな誤訳でも、翻訳した人は偉いと思うんです。

柳瀬―聖書のロシア語訳はどうなんですか。いいんですか。

米原―いや、私はいいか悪いか判定できないけれど、絶対誤訳はあると思いますよ。どの聖書も。日本語の聖書だってそうでしょ、何種類も訳があるんだもの。つまり、元がどういう意味で使われたかということは、いまの段階ではもう類推でしか判定できないでしょう。

柳瀬―聖書もそうですし、日本の古事記もそうだけど、名前の付け方などをみると駄洒落の世界ですよね。名前一つ一つ、駄洒落的に付けられていくのが、聖書の訳はうまくやってないですね。

米原―今度は聖書に挑戦ですか。(笑)

柳瀬―とんでもない。しかし、たとえば「ヤコブ」だって「くるぶし」なんですね。「やー、こぶがある」っていうんで「ヤコブ」になるんですよ。(笑)そんなのがゴロゴロしてるんです。

米原―マリアが処女で懐妊したというのも、これは誤訳の問題だと、どこかで読みました。ヘブライ語では、単に結婚をしないで、いわゆる正式な結婚をしないで子どもを生んだという意味なんだそうです。それをラテン語に訳すときに、そういう概念がなかったんで、処女になったという。

柳瀬―ありましたね。どこかで読んだ記憶がある。

米原―だから、聖書でもいっぱい誤訳があると思うし、これだけたくさん訳があるということは訳の数だけ誤訳がある。

柳瀬―でも、『ユリシーズ』のロシア語訳はいいと、米原さんと同じようにロシア語で育った人から聞いたことがあるんです。

米原―そうですか。

柳瀬―英語がよくわかってる訳者だと。それはロシア語が、そういうことが可能だからですか。

米原―いや、私は翻訳者の質だと思いますけどね。ある意味では、農奴制時代もそうでしたし、ソ連時代もそうでしたけど、ロシアというのは長い間、市場原理の支配下になかった。だからあまり気が散らないで、あることに集中できる。ものすごい集中力を発揮して仕事ができるんです。凝り性じゃないといけませんでしょ、よき翻訳者は。それができる環境にあったんですね。
 かつては金儲けのことを心配しなくてもいい貴族だったり、あるいは共産主義時代は、ある能力があれば、それだけで保証されますからね、その本が売れようと売れまいと。そういう環境、市場原理ではないところが芯にないと、文化はなかなか発展しにくいと思うんですよ。もちろん市場原理の刺戟も必要ですけど。
 市場原理にからめとられると、やはり英語がいちばん効率的になっちゃうんですね。いちばん多くの人が話すし、辞書にしても本にしても、英語であればいちばん売れます。ところが、市場原理を離れると、実はどの民族にも価値がある。どの民族にもおもしろい歴史と文化があるわけで、それを知るためには、それぞれの言語をやらなくちゃいけないんですね。市場経済はこれを省略しているんですよ、効率一辺倒ですから。ところがロシアは、世界中あらゆる国の言語を、それこそ計画経済で、国民に学習させたんです。
 東京外語大にいたときのことですが、ヒンドゥー科の学生で、ヒンドゥー語よりもさらに少数民族の言語を勉強しようと思って、その教科書を探したら全然ない。英語圏にもなくて、ロシア語をあたったら初めて、その少数民族の教科書と辞書があったそうです。だから、その言語を勉強するためにロシア語をやったっていう学生がいたんですね。日本というのは、英語経由で発信し英語経由で世界の情報を入れているわけですが、ロシアはそういうやり方をやった。
 ですから、ロシアに行って「外国文学」という雑誌を読むと、もうほんとに名前も知らないような、アフリカの小国やアジアの小国の文学作品が読めるんです。私の知っている文学とは全然違う感受性とか、もののとらえ方に新鮮な衝撃を受けることがあるんですが、そういう言語からでもロシア語に翻訳する人がいるっていうことなんです。ロシア語をやっていると、そういう情報地図が入ってくるんですね。

柳瀬―それは米原さんの財産でもある。いいね、うらやましいな。

(以上、138号)


 辞書は一長一短

米原―翻訳でも通訳の場合でも、辞書がないと職業として成り立っていかない、そういう面がありますね。ただ、翻訳者の場合は作業中に辞書をのぞけるんですけど、通訳の場合にはこれができない。ですから、事前に調べて頭の中にインプットしておくか、さもなければ作業のすんだ後で反省しながら、しばしば忸怩たる思いをしながらのぞくことになります。ということは、ナポレオンが「わが辞書に不可能の文字はない」といったときの辞書、つまり自分のボキャブラリーをなるべく豊富にしておく、ということを心がけているわけですね。そのためか、辞書、事典というとついつい買ってしまう癖がついてしまいました。

柳瀬―本当に、辞書がなければ成り立たないというのはその通りで、たとえばここに灰皿があって、これが英語でash trayであり、それを「灰皿」という日本語に最初に訳した人がいるわけですよね。そういうものが厖大にあって、それが辞書に載っかっている。それを見ながら仕事をするというか、本当にお世話になっています。だからぼくは、辞書はすべて「一長一長」であると言うんですね、「一長一短」じゃなくて。そんなくらいに辞書を敬ってます。一つの辞書は三回ぐらい役に立てば、つまり教えてもらえれば、もういいんだと。

米原―そうですね。だいたい日本語でも、われわれは八十パーセントくらいしかわからなくても、内容は理解できちゃうんです。知らない単語があったとしてもあまり気にならない。文脈とか、語根といいますか、そういうものでほとんどの意味は類推できてしまう。ところが外国語の場合、おそらく二割くらいわかって、八割わからないというところでお手上げになると思うんです。
 そうすると、辞書で調べるのは、文脈とか語根をもってしてもどうしてもわからないという言葉です。しかも、その言葉がキーになっていて、それがわからなければ全体が通じないというときに、どうしても必要になる。つまり、一つそれがわかれば全部がわかるわけだから、その一語を調べるために二万円の辞書を買ったとしても、元はとれるんです。同時通訳の日当は一日十万円なんです、七時間以内で。だから、まあ一語当たっただけでも元はとれちゃう。

柳瀬―一日十万円!

米原―半日すなわち三時間以内で七万円です。国際通訳連盟(AIIC)というギルドがありまして,通訳料金の規準をつくっている。通訳をする相手が誰であろうと、つまり身分や貧富の差などまったく関係がないんですね。あらゆる顧客を平等に扱う。

柳瀬―ギルドっていうのはおもしろいな。

米原―いや、本当ですよ。ちょっと排他的な組織で、自分たちの権益を守らないといけないから新参者を排除するんです。それが気に入らなくて、私は入らないんですけど。

柳瀬―ぼくなんか、ジョイスの『フィネガンズ・ウェイク』訳して、一日いくらになったかなあ。(笑)

米原―文芸書の翻訳は金銭的には元とれないでしょうね。

柳瀬―元とれないというか、ほとんど道楽ですね。道楽で飯がかろうじて食えるというかな。

 語の根源の意味をとらえる

柳瀬―いま「語根」というおもしろい言葉をお使いになったけど、この概念を、もう少し教えていただけますか。

米原―先生、よくご存じなのに。口頭試問を受けているみたい。(笑)まあ、意味の根幹みたいなものですね。言葉のもっている意味の基本要素。味の素ではなくて、意味の素。おそらく日本語であるならば、漢字の造りや偏で表される部分が意味の根幹を成す基本要素の役割を果していることが多いと思うんです。言葉には、意味を担う部分と、もう一つ、ほかの言葉との関係を表すための部分の、両方で成り立っているじゃないですか。後者は「てにをは」とか、あるいは屈折語系の言語だと語尾とかになります。前者、すなわち意味を担う部分の意味は、たしかに文脈に応じて変転しますが、それでも一番基本的な意味はある。その基本要素を語根と考えるのです。

柳瀬―なるほどね。もしかすると、そういう考え方は日本語で育ったというより、ロシア語から来てませんか。

米原―そうですね、ロシア語文法を習ったときにはじめて出会った概念ではありますが。

柳瀬―英語からでもないですね。

米原―でも、英語でrootsといいませんか。「語根」って言い方は、英語の学校文法では習わなかったけれど、言語学を学んだときには、ロシア語だけでなく、広く言語一般に用いられる概念として登場しましたよ。

柳瀬―そうでしたか。ぼくはロシア語、全然わかりませんけれども、語尾の変化が六格もあるというようなことで怯えちゃうんですが、ついこの間も、四年ほどロシアに駐留していた男が帰って来て、そんな話になって「英語ってほんとでたらめだ」って言うんですね。ロシア語というのは何か、ある根本のところがわかってしまうと、そういう変化は……。

米原―あまり気にならないでしょう。

柳瀬―らしいですね。

米原―それが聞き取れちゃうんですね、慣れてくると。だから、ロシア語の親戚語がありますでしょ、チェコ語とか、ポーランド語とか、セルビア語とか、ブルガリア語とか。慣れてくると、その語根のところが同じか、ひどく似ているものだから、大よそのところ何を言ってるのか、わかるんですね。

柳瀬―しかし、英語はそうはいかない。

米原―でも英語も、どちらかというとゲルマン系の語根の言葉と、ラテン系のロマンス語系の語根の言葉が合金のように溶け合ってますよね。実はイギリスに行ったドイツ人の友人が大ショックを受けたんです。というのは、ふつうわれわれの習った外国語が通じる本国の人というのは、インテリ階級が多いわけです。われわれはその国の標準語を話すからですね。ところが彼がイギリスに行くと、いわゆる下層階級の人が話す言葉のほうがよくわかったというんです。下層階級の人の言葉は、ほとんどゲルマン系の語根なんですね。それが教会の説教を聞きに行くと、これは全部、ロマンス系の語根だって言ってました。
 この語根に、接頭辞や接尾辞がついて意味のニュアンスを変えますね。たとえば、intendとかextendとか、意味が変わってくるけど、語根のtendのところは変わらない。この語根の部分は多分かなり昔に決まった、一番基本的な概念じゃないかという気がするんです。

柳瀬―それで、
米原さんの場合、辞書に求めるものはその変化しない部分ですか。

米原―両方ですね。というのは、おもしろいことに機械的にいかないんですよね。ロシア語で●●●という接頭辞がつけば、「繰り返す」という意味ですが、でも●●●が必ずしも「繰り返す」という意味にならないときもあるんです。まあ、そういうふうに機械的にいかないからこそ、われわれ人間の通訳が重宝されるわけですが。
 とにかく、語根の由来がちゃんと出ている辞書は、非常に親しみを感じますね。おもしろいのは、語根がギリシア語の語根とか、ラテン語の語根とか、ドイツ語の語根とか、つまり純粋な言葉って結局ないんです。

柳瀬―いろんなところから来ている。

米原―いろんなところから、借りてきて作ってるんですね。まあ、日本語もそうだけれど。

柳瀬―だから、elephant(象)なんて、OEDでも語源が長々と書かれているんだけど、結局わからない。

米原―そうですか。語根の来歴までちゃんと載せてくれる辞書は、作る人は大変だろうけど、読み物としておもしろいですね。

柳瀬―そうなんですよ。たとえば「娘」は「産す女」から来ているということが辞書に書かれてますと、ほうと思いますね。読んでおもしろい辞書というと、なかなかないでしょ。

米原―まず例文がおもしろいということですね。

柳瀬―そういう辞書で、何かあげられますか。

米原―ロシア語の辞書は『ダーリ』であれ、『オージェコフ』であれ、基本的に文学作品からの例文を原則としています。だから、読み物としておもしろいですね。

柳瀬―それはいいなあ。日本にはないんですよね、そういうものが。

 博士と狂人とOED

米原―辞書の例文というのは、六法全書の判例みたいなものですよね。

柳瀬―そうそう。

米原―つまり、実際にこういう意味だと、誰も決める権利はないんですね、言葉の意味というのは。こういう使われ方をしているからこういう意味だ、というしかない。

柳瀬―その通りなんです。

米原―意味は判例から浮び上がってくるんですね。

柳瀬―まさしくその通りなんです。それだけ言ってしまえば、もう話すことがない。(笑)

米原―だれか偉い人がいて、こういう意味だといっても、そうならないんです。それが言葉のおもしろいところで、間違った意味でも、みんなが使っていれば、それが通用するようになるんですよね。

柳瀬―だから、辞書のあるべき姿っていうのは、意味を編者が決めることではなくて、できるだけ多くの実際の例文を集めて、そこから意味を浮び上がらせるというものでしょう。これはやっぱりOEDしかやってないんですね、多分。いまおっしゃったロシア語の辞典もそうかもしれないけど。

米原―方法論としてはそうですね。

柳瀬―OEDの編者(ジェイムズ・マレー博士)とその協力者(用例収集者)を主人公にした、『博士と狂人』という本の翻訳(早川書房)が出ましたが、お読みになりました。

米原―まだです。積んであります。駄目なんですね、送ってもらった本って。自分で買った本はすぐ読むのに。(笑)

柳瀬―ぼくは書評を書く都合で、まあ三、四十分もあれば読めますけど。その協力者のマイナーという人はアメリカ人で、もともと東部の上流階級の出ですが南北戦争に軍医として出征する。前線で、脱走兵に刑罰として焼き鏝を顔に当てるようなことをしたらしいんですが、新任の軍医の彼はその役目を命令されて、やむなく実行する。で、脱走兵がアイルランド人だったことから、アイルランド人から報復を受けるのではないかと、そういう妄想をもったらしい。まあ、ほかにもいろいろあって、精神異常者として軍隊を退役し、療養にと訪れたロンドンで殺人を犯してしまいます。
 結局、裁判で無罪となりロンドン近郊の精神病院に入りますが、おもしろいのは当時、金持ちが精神病院に入りますと、監禁はされているんだけど、二部屋のマンションみたいな住いで、他の患者に金を渡して身の回りの世話をしてもらったり、自分の費用で書棚をつくって、蔵書をためて一室を書斎にしてしまうんですね。そうして七、八年たったときに、ジェイムズ・マレーが用例収集者(篤志文献閲覧者)を募集していると知るわけです。それからは、マイナーはマレーに厖大な数の用例を送ることになる。
 これは理想的な情報提供者ですよ。監禁されていて、やることがない。用例を集めることで、とにかくその間は精神的な発作がおさまっていたそうです。ぼくもそれで、『フィネガンズ・ウェイク』やったのかな。(笑)

米原―そうかもしれない、なんて。(笑)

柳瀬―狂ってたかなあ、やっぱり。(笑)マイナーの例は特殊でしょうが、OEDには世界中に情報提供者がいて、そしてあれだけの作業を七十年以上かけてやるわけですね。OEDの第二版からはCD―ROMができましたから、ぼくは自宅にいてOEDを開かない日はないんです。パソコン入れれば、自動的に立ち上がるようになってます。それでますますOEDのすごさというのを感ずるんですね。辞書というのは、ああいう形になるべきです。

 自分のための用語集をつくる

米原―アナトール・フランスが辞書のことを「アルファベット順に置かれた宇宙」と言ってます。ところが、電子辞書ができたらアルファベット順じゃなくて、人間の脳味噌に近くなったんですね。

柳瀬―紙になるとアルファベット順ですけどね。たしかに電子辞書は、これは革命ですよ。

米原―通訳にとってはありがたいですね。出張先とかいろんなところに持って行けますから。

柳瀬―これは、ロシア語関係はどうなんですか。

米原―露和・和露辞典の電子化はまだ夢の夢です。英露・露英は電子化が進んでいますが。露和・和露については、電子辞書どころか、専門分野ごとの辞書が一切ありません。私たちが雇われるのは、金融とかコンピュータとか人工頭脳とか、そういうところで雇われますでしょ。ところが、それについて辞書がないんですね。もう一つ、言葉の意味っていうのは、実際には辞書にカバーされ切れないほど、いろんな使い方をするんですよ。私たち通訳の場合、まだ文字にされていない言葉の意味に出会う場面がすごく多いんです。市販の辞書には絶対に記されていない例がたくさん出てくるわけですね。
 だから、みんな自分で辞書というか、用語集を作るしかないんです。事前になるべく調べておく。それで、ときどきそうした用語集を持ち寄って、学習会で発表するわけです。昔の通訳者は、それは自分の財産だから、他人にやるのはもったいないと、それを抱えて死んでいったんですね。われわれはそんなケチなことしてもしょうがないと思って、交換してるんです。渡せば相手もくれるし、自分がした苦労をまた別の人がすることないじゃないですか。
 それで手持ちの用語集、「軍事用語集」とか「医学用語集」、辞書ではまだカバーされていない言葉の意味とか、新しい言葉をどんどん集めて作ったんですよ。これはロシア語の通訳協会でやりました。だいたい一年に三、四回、そういう会を開いて、一回に発表する人が二、三人いるから、一年に最低十人ぐらいの豆単語集ができます。

柳瀬―一年で十くらい。そうですか。

米原―それで、その分野の仕事で出かけるとき、豆単語集をパッと頭に入れておくだけで全然違うんですね。人間の脳味噌って、わからないものが多すぎると全部入ってこない。情報としてわからないものが二割くらいだと印象に残って入ってくるんだけれど、もう五割以上わからないと、ほとんどそれ全部灰色で、何もわからない。なかったことと同じになっちゃいます。

柳瀬―gray matterといいますね、脳味噌のことを。

米原―そうですね、おもしろいですね。先生は翻訳されていると、目で追いますでしょ。目っていうのは欲張りなんです。欲張りだから、翻訳者的な訳の仕方というのは、書いてあることをことごとく全部訳す。ところが、耳で聞くときには、わからないことは聞こえないんです。聞こえたとしても、脳髄まで入ってこない。わかったことだけしか訳さない。自然に淘汰されちゃうわけですね。でも、これではプロの通訳者は成り立たないから、事前にわかることを多くしておかなくてはいけないんです。

柳瀬―通訳の秘密厳守の話をどこかに書いてらしたけど、あれはかなり厳しいんでしょ。

米原―どうなんでしょう、外務省で通訳をするときにはサインさせられます。

柳瀬―いつも思うんだけど、酔っぱらってしゃべっちゃったとか、そういうのってどうなるの。かなりのところまで聞く場合もある、きわめて重要なことまで耳に入る、ということはありませんか。

米原―キャーって叫びたくなるときもありますよ、こりゃスゴイ話だ、みんなに教えたいなって。でも、首脳同士の会談は外務省の通訳がやって、われわれは雇われないんです。記者会見、つまり一般に知らしめてもいいことについてはわれわれを雇うことになる。記者会見のときに、マル秘と書いた文書で事前学習させてくれるんです。すぐそれを返さなくちゃいけないんですけど、ところがこのマル秘ってのが、外務省だけが秘密だと思ってて、世の中の人、みんな知ってることばかりなんですね。(笑)

柳瀬―そうですか。ぼくはまた、そういうこと、いろんな秘密情報が自分の中に入っちゃったら大変じゃないかなと思ったんですね。ものすごくプレッシャーになって、精神的に大変なことじゃないかなと。たとえば裁判官って、おかしくなる人が多いですよね、やっぱり知りすぎちゃうから。通訳の人はどういうふうにして発散してるのかと思ったんだけど、それほどでもないんだ。

米原―守秘義務をいわれるのは、商談とか企業なんかの通訳のときですね。ただ、圧倒的多数の商談は自社の通訳を使います。私たちが雇われるのはほとんど学会とか記者会見ですから、むしろ情報を隠すより、広めたい立場の顧客が多いんですね。

 同時通訳の歴史

米原―同時通訳の入門書を読むと、だいたい序文かなんかに同時通訳の歴史が書いてあります。一九四五年十一月から翌年の十二月までのニュルンベルグ裁判、つまりナチスの戦犯に対する裁判が、世界で同時通訳の行われた最初であると言われている。だけど、いきなりそこに突然、しかもそんなにたくさん同時通訳者が現れるはずないんですね。
 それで調べてみたら、同時通訳は機械が必要なんですけれど、一九二六年にIBMが作ってるんです。これは、十九世紀にベルが電話を発明しますが、その電話の無線技術を応用してIBM社の技術者が作るんですね。で、特許をとる。でも、機械はできても、同時通訳者がいなくちゃいけないし、複数の言語でする会議がないと機械が生きない。それを最初に使ったのが、一九二七年にスイスのジュネーブで行われた、当時の国連、国際連盟の会議です。
 ただし、これは一回限りで終わっちゃったんです。それは当然なので、国際連盟の共通語は英語とフランス語の二言語だけだった。どこの国の人間も、フランス語か英語でなければ発言できないんです。だから、英語をフランス語にするか、フランス語を英語にするだけですんだわけですね。小村寿太郎も、英語かフランス語か、どっちかで演説したんですよね。

柳瀬―なるほど。

米原―それで翌二八年、IBMの機械はコミンテルンで使われます。これは六か国語でした。当時、常設の国際機関というのは国際連盟とコミンテルンしかなかったんですね。コミンテルンでは二八年以降もずっと使われて、言語の数も増えるし、同時通訳者もどんどん育ってくる。それで、一九三五年にペテルブルグ、当時のレニングラードで国際生理学会が開かれると、例の犬の条件反射の実験をしたパブロフさんが冒頭演説をやって、これは英語、フランス語、イタリア語、ドイツ語に同時通訳されています。
 つまり、実際に会議があって、同時通訳に使われた機械の方も改良されていくし、同時通訳技術も向上していくわけです。それで結局、八十か国語の同時通訳ができる人間を養成しちゃってるんですよ、ソ連時代に。まさに「万国の労働者団結せよ」というわけです。アメリカはどこの国へ行っても英語で通すけれど、ロシアは世界を制服するために、あらゆる国の言語を勉強したんですね。
 国家計画に従って毎年一定の学生を選んで、世界中の言語を学習させてしまうんです。日本にもタイにも、アフリカ諸国にも、その国の言語のできる外交官と特派員を送る。これは大変なことです。大体、一人の同時通訳者を育てるためには、背後に二千人くらい学習者がいるわけです。

柳瀬―ほんとだねえ。

米原―で、辞書が必要なわけでしょ。辞書といっても、たとえばチベット語の辞書となると日本ではまず出ませんね。ところが、市場原理が働かなかったソ連ではちゃんと出したわけです。もう、われわれが名前を知らない国の言語をやっている人が必ずいるんですよ。日本語についていえば、『源氏物語』や『平家物語』は当然のことながら、『大宝律令』の訳まで出ています。日本人だって読まないのに、ロシア語訳があるんですよ。
 こういう、ある国について知るという情熱というか、エネルギーというか、それを背景に同時通訳者が生まれるわけです。で、さっきのニュルンベルグの裁判には、この強力なソ連チームが来たわけですね。

柳瀬―二十年も前になりますか、ベルマンというピアニストが出たときに、ロシアにはこんなすごいのがいるかと思ったものですが、その天才が出る背後にものすごい数があるわけですね。

米原―そうですね。天才というのは一万人とか、二万人に一人という感じで出てくるそうです。

柳瀬―天才教育をやるわけですね。

米原―天才教育もさることながら、才能に対する考え方がちょっと違いますね。結局、西側に来ると、その才能がみんな商品になっちゃうんです。消費物資になって媚びてしまう。ところが、市場原理がないところでは媚びなくていいんです。そのなかで、気が散らなくていいというか、あの才能の育て方のシステムも生きてくる。

 辞書がなくては生きて行けない

米原―辞書の話からずいぶん離れてしまいましたけど。先生は辞書をお作りだとか。

柳瀬―英和辞典の小さいのを単独で作ってるんです。もちろん全部実例で、いまのところむちゃくちゃおもしろい辞書ができつつあります。でもまだまだ、頂上ははるか彼方に。

米原―では、せっかくですから最後にとっておきの辞書にまつわる話をさせて下さい。通訳として真っ青になるのが医学関係の通訳なんです。ご存じのように医学用語は一般人にはわからないようにするためか、ことごとく難しい言葉を使っていて、漢字を見てもなんて読むのかわからないんですよ。読みがわからないと辞書を引けないから、虫眼鏡でこうやって、まず漢和辞典を引くんです。まず読み方を調べて、それで次に日本語の医学辞典で意味を調べるんです。
 その意味を調べると、ロシア語と日本語の医学辞典というのは三十年前に一本出たきりで使いものにならないから、日英の医学辞典、そして次に英露を引いて、両方突き合わせる。それで、突き合わせてほんとにその意味かどうかわからないときは、ロシア語の医学辞典も引いて日本語の医学辞典と同じ意味かどうか確定していくわけです。
 だから、事前に論文を手に入れて、もう真っ青になって調べていくんですね。ここでやっかいなのは、なぜか医者は医学用語を日本語で、といっても漢語なんですけど、日本語でいうこともある、英語で言うこともある、ドイツ語を使うこともある、ラテン語を使うこともあるんです。そのどれを言うかわからない。これはロシア人の医者もそうなんですね。だから、医学関係の会議というと、前日から眠れなくなるくらい緊張するんですよ。
 あるとき、ロシアから宇宙医学の専門家が日本に来て、名古屋に日本の宇宙医学の権威がいらっしゃるというので、そのお弟子さんとか研究者たちを前に講演することになったんです。もちろん、準備をして、調べて行ったんですけど、講演中いきなり知らない単語が出てきた。ラテン語なんですね。なんだかわからないし、しようがないからラテン語のまま言ってみたんです。たしか「ヴェヌス・ウンブリクス」だったかな。

柳瀬―ヴィーナスのへそみたいなもの。

米原―近いですね。それで私、そのままラテン語で言ったら、先生方みんな頷いているわけです。ああよかった、通じたわと安心して先へ進んだものです。まあ、それは無事に終わって、その宇宙医学の権威が「
米原さん、お疲れでしょう」と、「何か問題点ありましたら、いまのうちに聞いておいて下さい。二部が始まりますから」という有り難いご配慮がありました。
 お言葉に甘えて、「先生、ラテン語でヴェヌス・ウンブリクスっていうのは、どういう意味ですか」とお聞きしたんです。その温厚な紳士がパッと青ざめて、うしろから医学辞典を引っ張り出してきて机の下で引いてるんですよ。上に出して引けばいいのにね。(笑)「そうですね、なんかへっこんだものですね。あ、へそだ。へその下に静脈が通ってるんですな」って。

柳瀬―なるほどね。

米原―ラテン語っていい手だなと思いましたね。(笑)みんな虚栄心があるから、わからなくても知ったかぶりしますからね。(笑)それを変に日本語にすると、「あいつ、医学用語を知らないくせに、高い通訳料とりやがって」と思われるだけですから。ということはともかく、そういう第一人者でも辞書なしでは生きて行けないということですね。

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