回文の発句

(「ぶっくれっと巻頭エッセイ」NO.138号 1999 SEPTEMBER)

林 望

 最近、桜井順さんという作曲家に頼まれて、旧奏楽堂日本歌曲コンクールというたいそうなる催しに、なんと「歌手」として出場するはめになった。もっとも、声楽部門ではなくて、作曲部門の本選会にである。その歌というのが、コピーライター界の大御所土屋耕一さんの作った回文「軽い機敏な仔猫何匹いるか」という、たった一七音節の歌詞に、ドラネコソラキタ風の人を食った曲を付けたもので、私は、それを、たった一丁の小鼓を伴奏に従えて、謡曲発声で歌ってこましたわけである。
 こういうのは、ちょっとふざけているように見える(そのせいか惜しくも入賞は逃した)けれど、いやいや、けっして日本文学の伝統のなかに、その先駆が無いのではない。
 たとえば、松江重頼の編にかかる俳諧の式目書『毛吹草』(江戸前期刊)に、わざわさざ「回文之発句」という一項を立てて、つまり上から読んでも下から読んでも同じという発句を書き連ねている。
 ちょっと面白いから、いくつか読んでみることにしよう。

 まずは、春、劈頭の一句。

  目をとめよ梅かながめん夜目遠目   重貞

 じつにどうも、かの名歌「春の夜の闇はあやなし梅の花色こそ見えね香やはかくるる」なんてものまで連想されるようなたおやかな詠みぶりであるが、それでも、「夜目遠目」なぞという歌語にはあるまじき俗言を詠み込んでいるところが俳諧なのであり、同時に、香を嗅ぐだけでなく、目を留めよと転じているところに、シャレっ気が感じられるではないか。意味は、説くまでもなかろう。回文だよ、と言われなければ、それと気付かない人だっているかもしれない。こういうのが、回文としては上乗の作なのだ。
 次は、夏の発句。

  友の来つ子規猶なきし月の下   宗房

 宗房といっても、芭蕉の松尾宗房とは別人であるが、これも良く出来た回文発句である。ホトトギスは、夜に鳴く鳥として、とくにその声を賞翫される。そうして、この渡り鳥は夏の訪れを知らせる風物詩でもあり、さらに古くは農事暦としても著名な存在であった。そのホトトギスが飽きもせず鳴き渡る夜半、皓々たる月の下、友がわが庵を訪うた、というところで、ただの言葉あそび以上の真実味があるところが、この句の手柄である。

  田植うたへうたはば田うへ田植哥   重方

 こういうふうに、前後がこんがらがったように綾なしつつ、しかし、それでも注意深く読んでみるとたしかに回文になっていて、なおかつ、ちゃんと意味も通じる。いやはや、大した手腕である。
 切りがないので、句例はこれくらいにしておくけれど、この書の続編たる『毛吹草追加』ともなると、回文之狂歌あり、全句が回文になっている驚くべき百韻連句ありで、往古はいかにこういう言葉の感覚が研ぎ澄まされていたかが実感せられる。
 そうして、わが日本文学の伝統である、この種のユーモアや遊びの精神を忘れてしまったが故に、現代の「日本歌曲」というものは、全くつまらなくなったのである。
 日本歌曲コンクールもまた、その例に漏れない。

(はやし・のぞむ 作家)

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