入試問題よ、さらば!

(「ぶっくれっと巻頭エッセイ」NO.137号 1999 JULY)

林 望

 三月で東京芸大の助教授を辞した。文部教官などという肩書きをとっとと返上して、ようやく本来の自分を取り戻したという感じがする。

 大学の教師として、いちばん嫌な仕事は、間違いなく入試問題の作成である。思えば三十歳のときに東横短大の教員になってから、もう二十年経った。以来、私が作った入試問題はいったい何題にのぼるだろうか。おそらく三十題はとっくに超えているであろう。

 そもそも国語という科目には、「正解」というものが在りえない。単純に見える書き取り問題なんかだって、ことはさまで簡単ではない。そもそも、漢字には、四千年からの歴史があって、その長い時空の中で、漢字は様々にスタイルを変えてきた。だから、精密に漢字を「読む」学問に励んできた私には、文部省の基準そのものがとんだ眉唾に見える。一つの「文字」に対して、何十通りもの「書き方」があって、ほんの少しの字形の変異に目くじらを立てるならば、数多い「異体字」の集合をば、全体として「一つの文字」と言うのだとさえ言いうる。そうなると、暢気な(つまりは不勉強な)先生たちが、「ここにハネがないから×」だのなんだのと言って、したり顔で○だの×だのにしているさまざまな文字の変異形が、私の目から見れば、どれも「歴史的には許容」としか思えないのだ。

 そういう敢えて言えばいい加減な基準で、人の一生を左右するようなことをするのは、どうも寝覚めが良くなかった。しかし、さらに嫌だったのは、現代国語の問題で、だいいち、その「問題文」を探すのが、毎年の大苦心であった。なにせ、問題文というものは、悪文でないといけない。平易にして明晰なる名文は、その明晰で理解容易であるが故に、問題を作りにくい。だから、問題文として「良い」文章というのは、

一、簡単に言えることを回りくどく分かりにくく気取って書いてあること。
二、推敲が不十分で、同じことが繰返しくどくどと述べられていること。
三、難しい漢字や熟語、あるいは生硬な外来語などを頻繁に使ってあること。

 というような「悪文的諸条件」をあまねく具備し、なおかつ、問題文としての長さの限界はおおむね三千字程度で、さらに、比較的に新しい文章である、とこれだけの条件をクリアしなければならぬ。それでなくては決して「良い問題」は作れない。

 人情の自然として、明晰で奥深い「良い文章」は、ぜひとも読みたいけれど、何樫教授の得意とするような、「お利口なる人以外には全く理解不能な悪文」というのは、どうしたって心が読みたがらない。けれども、入試問題を作るためには、毎年そういう嫌なものにも目を曝さなければならない道理だ。それがなにしろ嫌だった。ああ、今年から、ああいういやあな文章は読まずに済むと思うと、それだけで、心が晴れ晴れとしてくる。

 それに、ある文章にたいして、その読み方は、十人十色というのが本来だと思うのだが、それを、無理やりに「一つの読み」に決めつけ、なおかつ、正解とした読みをまたさらに分かりにくくするために、いくつもの紛らわしい「ダミー読み」をでっち上げて、受験生を惑わせるとか、そういう不正義な仕事が楽しいはずはないのである。

 文学の、そして学問の徒として生きて行くということと、受験問題を作るということは、かくてどうしても矛盾せざるを得ない。そういうことに気が付かないで、漫然と入試問題を作っている教師がいたら、それは、所詮文学とは無縁の衆生であると言ってよい。

(はやし・のぞむ 作家)

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