学名の有無

(「ぶっくれっと巻頭エッセイ」NO.134号 1999 JANUARY)

林 望

 最近『リンボウ先生 ディープ・イングランドを行く』という本を出した。

 私が自分で写真をとり、文章を書き、ついでにイラストなどもものしたという本なのだが、その本でどうしても主張しておきたかったことは、「イングリッシュ・ガーデン」なんてものよりも、野の花をこそ味わうべきだ、ということである。そこで、私はもっぱら野の花の写真ばかり撮り、それに英語の俗名をキャプションとして添えた。

 ところが、いったい、写真に写った花を英語でなんというのか、それを決めるのにひどく時間がかかった。たとえば、湿地に一面に生えている綿毛のついた草、これをなんというのか……あれこれ考えているうち、ふと「ワタスゲ」ではないかしら、と閃いた。

 そこで、某国語辞典を披見すると、「ワタスゲ、カヤツリグサ科の多年草。北海道・本州中部以北の湿地帯に生える。云々」と出ている。なるほど、とは思うけれど、そこに「学名」が書いてない。和英辞典にはこういう個々の草花の名前までは出ていないことが多いし、たとい出ていたとしても、はたして、そのワタスゲ=Cotton Grassというものと、件の私がみた植物とが同一かどうかまでは分らない。ここはイギリスの図鑑によって確認するほかないのであるが、さて、ここで、もし仮に、その国語辞典にラテン語の学名が添えられていたら、ことは簡単である。この学名によって、こまかな種別の系統・同異までつぶさに分って誤らない。いやそのために、世界共通のラテン語学名が存在するのだ。

 私は、ここにおいて、従姉妹の生物学者に相談した。そのとき、私が「どうして、日本の辞書や一般向けの図鑑にはラテン語の学名を書かないんだろうね」と疑問を呈すると、彼女は、わが意を得たりという面持ちで言った。 「そうなのよ、それが日本の生物教育の大きな欠陥なのね。ラテン語も教えないし、したがって、よほど高等教育にいたっても世界共通の学名を教えないわけ。それはこの諸学問国際化の時代に、大問題だと思うわね」

 いかに、日本名が網羅された大図鑑といえども、その日本名というものは、まったく世界に通用しない「井の中の蛙」的な呼称に過ぎない。そういえば、私とて、いままでただの一度も、ラテン語学名で教育をされたことなどなかったし、まして、その学名というものが、どういう原則に基づいて命名されているのかということもまるで知らないできた。

 翻って、イギリスを始めとして、西欧諸国では、かなり早くからラテン語というものを教え、また動植物の名前にはつねに学名がワンセットになって教育される。だから、一介の庭師や、ちょっと園芸好きの奥さんなんかでも、すらすらとラテン語学名を言えたりするのはちょっと吃驚である。しかし、それが本当なのだ。そうあるべきなのである。

 仮に、日本の学生が外国に留学して、そこで何かを学ぼうとするとき、この問題は常に付いて廻る。従って彼等は、そういうことを比較的早い段階から身に付けている西欧の学生たちに比べて、格段のハンディを強いられるに違いない。困ったことである。

 国境の希薄化していくこのグローバライゼイションの時代に、如何ぞ、この問題を真面目に考える教育者、文部官僚ははたして皆無なのであるか。

(はやし・のぞむ 東京芸術大学助教授)

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