翻訳の悩ましさ

(「ぶっくれっと巻頭エッセイ」NO.132号 1998 SEPTEMBER)

林 望

 いずれにしても、一つの言語から別の言語に移し替える、「翻訳」というわざは、容易なことではない。その最大の困難は、例えば一つの名辞が、その背後にもっている文化や歴史や風景や情念、それらのものを仮に「民族の記憶」と呼ぼうならば、まさにその民族の記憶がひとつひとつのっぴきならず違っているからにほかならない。

 いま、しかし、私は、英語の古今の名詩をば、それぞれの時代や風情をなんとか活かしながら訳して、一方で日本語の詩としてちゃんと成立しているような、そういう訳詩集を創ろうとしている。ここでも私を悩ませるのは、つまりその民族の記憶である。

 ラファエル前派の画家として知られるダンテ・ガブリエル・ロセッティに、『Silent Noon』という佳什がある。その妖しい静けさに満ちた詩のなかにこんな部分がある。

  All around our nest, far as the eye can pass

   Are golden kingcup‐field with silver edge

   Where the cow‐parsley skirts the hawthornhedge,

  'Tis visible silence, still as the hour‐glass.

 ここには、kingcup, cow‐parsley, hawthornと三つの植物が詠み込まれているが、これをそれぞれ、キンポウゲ、ヤブニンジン、サンザシ、と和名に置き換えて、それで果たして翻訳の役割は十全に果たされるであろうか。

 最近、私はイギリス北部の田園を逍遥してきた。夏の盛りで、どこもここも夢のように美しく静かだった。青々とした牧草地を彩って点々と濃い黄色の花を咲かせているのはbuttercupかkingcupの花だ。そうして、牧場の境は多く石積の塀かhawthornの生け垣で仕切られ、丸い羊が日がな草を食んでいた。その生け垣と道の間の路傍を彩るのは、まるで白い花束を空中に捧げ持ったようなcow parsleyの花である。つまり、この詩には、そういうイギリス人だったら誰もがすぐに「ああ、あの夏の‥‥」と際やかに思い浮かべることのできる「風景」が詠まれている。それはちょうど子規の「柿食えば鐘が鳴るなり法隆寺」から、私たちの脳裏にただちに日本の秋の空の色が想起されるといったことと似ている。

 あるいはまた、ウィルフレッド・ブラントの『St.Valentine's Day』という詩には、「And still we galloped on from gorse to gorse」という表現が出てくる、そのときの「gorse」を、ハリエニシダという日本語に置き換えたとて、それが何程のものであろう。ゴースはheatherと並んでmoor(荒れ地)を彩るもっとも代表的な植物であるが、そのやや不吉な感じの風景がここではもっとも大切な要素なのだ。しかし、‥‥。

 さて、ロセッティの詩を私はこう訳してみた。

  ぼくらのまわりに、はるか目路のかぎり、

   こがね色の金鳳花の原、その向こうに、

   山査子の生け垣、そのめぐりに藪人参の花のしろがね。

  目に見える静寂。砂時計のようにしずかに。

 けれども、こうやってみたところで、かの民族の記憶はいかんとも伝え難い。鳴呼。

(はやし・のぞむ 東京芸術大学助教授)

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