三省堂-東京わが町 宮神輿名鑑
東京わが町
宮神輿名鑑

写真

原 義郎 撮影・編著

12,000円 A4 384頁 978-4-385-35771-X (品切)

写真家原義郎が,26年をかけて東京23区および多摩地区の御本社神輿の290余基を撮影。祭りの開催順に配列,神社名・作者・作成年代・祭神などを明示。江戸東京祭礼神輿年表など資料も充実した豪華写真集。付録にA全サイズの「東京宮神輿マップ」(表)と、行徳関ヶ島・神輿師、七世・後藤直光[作図]の「神輿図」。

1997年9月20日 発行

 凡例
 江戸のみこし、東京のみこし(原 義郎)
 祭りだ、みこしだ、ワッショイ(海老名香葉子)
 東京宮神輿マップ
 神輿図


【凡   例】

一、本書は東京の神社神輿のうち、人が担ぎ揉んで渡御する神輿、及びその目的で造られた神輿を収録し、いわゆる御鳳輦は除いた。

一、一町に一神社の地域で、宮神輿に準じ渡御を行う町会持ちの神輿を一部収録した。

一、使用写真は新旧にかかわらず、胴に晒を巻いていない等、条件の良い時代のものを優先した。また、背景に今はない町並等が写っているものは、記録重視の観点から、あえて古い年代の写真を収録したものもある。

一、写真の編集には一頁に一神輿を掲載することを原則とし、一部例外として見開き頁に一基、一頁に三基を掲載したものもある。

一、写真の配列は渡御の月日順を原則としたが、編集の都合で前後させたものもある。

一、神輿の製作者(所)の所在地は、通称の地名を記した。<以下、省略>

一、写真の神輿の凡その大きさを知る参考に、神輿の台輪寸法を記した。なお、著者が計測したものと、神社から教示されたものとがあり、神社から教示されたものは寸法の後に括弧で(神社調べ)と記した。なお、著者の計測寸法と神社指摘の寸法が違う場合は神社の寸法を採用したものもある。その場合も寸法の後に括弧で(神社調べ)と記した。著者の計測はメートルで計り、尺寸法に換算したもので、一センチ以下は四捨五入した。

一、神輿の渡御日は当事者の都合で年により変更になることもある。見物に行く場合は地元等に確認されたい。

一、祭神はその祭礼で神輿に乗る神名を頭に記した。

一、氏子町会数と氏子数は神輿の渡御の範囲と規模を知る目安として、各神社から回答をいただいたものだけを記した。戸数に関しては数字の頭に約が付く場合が多いが、編集の都合で約の字を外した。



●江戸のみこし、東京のみこし

(「ぶっくれっと」1997.9 no.126より)

原 義郎

 今度『東京わが町 宮神輿名鑑』という写真集を出すことになりましたが、「宮みこし」という名前はそんなに古いものではないんですね。江戸時代のお祭りというと、よく知られた祭りでは神田や山王があり、山車が有名でした。みこしが氏子中を廻って、氏子の安全を祈ったり無病息災を祈る。そして、そのみこしに供奉して、各町の山車も氏子中を廻ります。山車というのは、各町が趣向を凝らして派手に飾りつけた、どちらかというと祭りを盛り上げ、楽しむことに力点がおかれた脇役で、祭りの主役はあくまでもみこしです。

 ところが、明治になって電線が普及してくると、山車の背が高いものですから曳いて歩けなくなって、自慢の人形も町内に飾るようになってしまった。それでは、氏子としては面白くない。そこで、山車の代りにみこしを担いで景気をつけようと、各町ごとに造ったのが「町内みこし」です。それに対して、もともと神社が管理したみこしを「宮みこし」と呼ぶようになったわけです。神社の御霊を戴せて氏子中を廻る、それがお宮のみこし、宮みこしです。町内みこしのほうは、一応神社に行って御霊を入れてもらいますが、山車の延長みたいなものですから、各町が自分の町内を廻ったり、宮入りしてお祓いしてもらったりする。これは山車の代りに、祭りの景気づけに担いだものなんです。 宮みこし自体は、京都の祇園祭り、平安の頃からあります。それに山車がついて廻るという形が各地に波及して、関東にも定着したんですね。神社によっては二基、三基と宮みこしをもっています。神田、山王、浅草は三基ある。府中の大国魂神社には八基あります。それは主に神社が管理して、氏子全体がそれに奉仕して氏子中を廻る、あるいは神社ゆかりの地にある御旅所まで神さまをお運びするといったシンボル的なものですから、お金もかけるし、腕もかける。関東大震災や今度の戦争で焼けなかったものに関しては、彫金や彫刻のすごいみこしが残っています。

 江戸のみこしは意外と素朴です。どちらかというと昭和初期、大震災直後のものがすごい。彫金から彫りから、全体のデザインから、それはすばらしい。というのは、その頃はまだ腕の立つ職人が大勢いたわけです。そして人件費も安かったから、すごいみこしがたくさんできたんです。震災でみこしを焼いてしまったということで、この人たちが一生懸命に造った。それで、戦災をくぐり抜けて残ったものがあるわけです。戦後になると、職人の数も減り、最近ではよほどの金と時間をかけなければ、昔のような質の高いみこしはできにくくなっています。

 写真集にまとめるということで、各製作年代を調べてみたんです。そうしたら江戸のみこしがけっこう残っています。都内ですと、大震災と戦災と、さらに戦争中、金属供出というのがありました。みこしは光っているから、みんな金属だと思ったんでしょう。鳳凰はけっこう目方がありますが、錺金具というのは張りつけるだけだから、そんなに厚さがないんですけど、それまで供出させられた。それでも、なおかつ残っているから不思議ですね、東京は。戦災で焼けなかった多摩のほう、羽村とか青梅とか五日市とかには、やはり古いものが残っています。それをいまだに担いでるんです、それがすごいんですね。江戸時代のみこしが、何十年に一回は直しますけど、荒っぽく担がれながら現役でがんばっています。

 今回まとめたのは東京のものだけです。都内から多摩まで、江戸のものから今年造ったみこしまで、だいたい二九〇基ちょっと。島はまだ入ってません。「弁慶症候群」とでもいうのか、もう九九本集めたから、あと一本だろうと思っていると、それが毎年のように新発見のみこしがあとからあとから出てくる、本当にきりがない。今の見当で、九〇パーセント前後いったかなと思います。でも、まだ分からないですね。寝ているのがあるし、ずっと寝かせて担いでないのがある。とにかく資料がないんです。東京のどこに宮みこしがあって、何年に一度出るというようなまとまった資料がないんですね。

 ということは、全部神社に聞かなくてはいけないわけです。だから最初の頃は気づかずに電話で宮みこしの有無を聞いていましたが、よく考えてみるとこれはずいぶん失礼なことで、以後この方法はとれなくなってしまいました。神社というのは、一つの神社の宮司があちこちの神社を兼務していて、電話もない無住の神社もけっこう多く、結局、足でかせいで調べて行くしかありませんでした。けれども、みこし庫はたいてい閉まってるから、これが果して宮みこしなのか、町内みこしなのか分からない。やっぱりその祭りに行かないと分からない。あとは、祭りが盛んになってくるにつれて興味をもつ人が増えてきて、みこしを撮ったり見物したりする人が出てきましたから、どこに何があるという、お互いの情報交換ですね。

 宮みこしと町内みこしの違いというのは、外からみただけでは分かりにくいんですが、天辺の鳳凰とみこしの屋根との間に、将棋の駒みたいな、駒札がつくんです。あの駒札に、神社名や本社とあれば宮みこし、例外もありますが、町会名がついたのが町内みこしです。駒札がついてないのもあって、本来つけないのが宮みこしともいわれているんですけどね。

 ぼくがみこしに興味をもつきっかけというか、原点は三社祭りです。昭和四六年から、東京都交通局の依頼で、都バスとか都営地下鉄の沿線の風土記、歳時記などを紹介するために写真を撮り始めたんです(これは三省堂から、それまでのものをまとめ『東京わが町』として一九七八年一〇月に刊行しました。以後も写真は撮り続けています)。それまでは、縁もなく三社祭りも行ったことがなかったんですが、その取材で、たまたま宮出しを見た。その頃は今と違いまして、浅草神社の境内に三基のみこしが置かれ、そこに担ぎ手がワーッと、ちょっと上から見ると、もう地面なんか全然見えない。それに柝が入って、ワッと上げるんです。そうすると三基のみこしが、グワーッと廻り出すんですね。すると今度は、人間の頭が波になる。そこを三艘の船みたいに、みこしがガーッと廻りだして、それはすばらしかった。

 三社の宮出しというのは、みこしの祭りのなかでは白眉です。三基のみこしが一緒に上がって、もまれてもまれて出ていく姿には、ものすごいエネルギーを感じたし、ショックもあった。もう二六年も前なんですが、しかしこんなすばらしい宮出しは、それから五年くらいしか見ていません。ぼくが写真を撮り出した頃が、祭りの落ち目のときだった。それがよかったんですね。というのは昭和四〇年前後、車社会が伸びてきて人間が外に追い出され、祭りもできない。どこかの町会では、みこしを地方に売ったという話もあったほどです。それが四九年くらいから、どういうわけか、また古いみこしが出だします。五〇年というのは戦後の一つの節目で、それまで出ていなかった幻のみこしなんかが続々と出てきます。

 そうすると、四〇年代には日当を払って集めなければ担ぎ手がいなかったものが、五〇年以降どんどん担ぎ手が増えてきます。とくに三社は祭りの華だから、みんな担ぎたがるわけです。宮出しはどこから担ぎに来てもいいというので、目茶苦茶に人が増えた。だから今度は人が多すぎて、今ではまともに三基上がらなくなってしまったんです。三社の境内から、浅草寺の宝蔵門から外に出ていくのが宮出しの区間なんですけど、ここに二時間とってあるんですが、みこしが上がって動くのはほんのわずかな時間で、三基が揃った写真を写すのは奇蹟に近くなってしまいました。

 担ぎ手が多ければ楽に上がると思うのが普通ですが、みんな自分が担ぎたいものだから離れないわけです。周りからグイグイ押して、肩入れしようとする。肩が入る場所もなくなって、喧嘩ばかりやってます。昔みたいに、ワッと上がって、グワッと行くようにするためには、まず人数でしょうね、人数を規制すればできるんじゃないですか。人数が多いから、押されて危険だから、すぐ抜く態勢で担いでいる。それを、ある人数だけに肩を入れさせれば、みこしは楽に上がるんです。重くて上がらないんじゃないんですよ、みこしは。人が押したりするから、その力で重くなるんです。千貫みこしといわれるみこしでも、町内廻って、どこかの町会で時間をロスして遅れちゃう、するとそれをとりもどすため何十人かでパーッと担いで行けるんです。本来それくらいの重さなんですが、やっぱり人がぶらさがったり、周りから押すわけで、そうすると重くなる。

 みこしの担ぎ方も、土地土地で独自の伝統があったのですが、今ではずいぶん変わりました。だいたい、みこし渡御というのは祇園祭りの影響が強く、疫病除けなんです。須佐之男命の御霊を入れて、荒々しくすればするほど、病気が逃げていくということがあるわけです。だから、そういう意味では、荒っぽく担いで当たり前なんです。それが最近は、江戸から明治、大正と、まあ明治ぐらいまででしょうね、疫病が神様で除けられるという信仰が生きていたのは。以後は西洋医学が普及して、菌は薬で殺せるということが分かった時点から、お祭りの様子も娯楽的になってきた。それで担ぎ方も、荒っぽいところからきれいに担ごう、かっこよく担ごうという部分が、お祭りの要素としてだいぶ入ってきたということなんでしょう。

 掛け声も、ワッショイからセイヤとかソイヤとかいうようになって、リズムがあり、きれいに担げるというので、そっちにいっちゃった。伝統的な土地独自の形が忘れられ、どこへ行っても同じような担ぎ方を見るのはやはりつまらないですね。昔はもっと荒っぽかったわけで、だからワッショイでよかった。担ぎ手に、かなり前から女性が入るようになったことも担ぎ方を変えましたね。ファッション化されて、ちょっと小粋な感じの、江戸下町風のおきゃんな感じの髪からスタイルが、彼女たちの一つの楽しみみたいになっています。祭り全体として、それでけっこう盛り上がっているようですね。

最近、古いみこしを区の文化財だ、市の文化財だと、まだ十分に担げるみこしを博物館に入れかねない風潮がありますが、担いでこそみこしだと思うんです。氏子が代々、肩を入れてきて、大事にしてきたみこしなんだから、担がないといけない。もう二度と造れないからといった了見では、みこしが可哀相です。江戸時代のみこしを平気で荒っぽく担いでるのなんて、多摩にはけっこうあるわけです。担いだくらいでそんなに傷むわけじゃない、頑丈に造られてるんです。もちろん、彫刻なんかの角は欠けたりしますけどね。だけどみこしを大事に飾っておこうなんて、寂しいですね。やっぱり、担がないといけません。担ぐからまた祭りが盛り上がるので、担げなくなるまで担いであげるのが、みこしに対する礼儀だと思うんです、ぼくは。



●祭りだ、みこしだ、ワッショイ

(「ぶっくれっと」1997.9 no.126より)

海老名香葉子

 蚊帳の中で私はドキドキして眠れません。

 一階でも大人達が明日のお祭りの準備で大わらわ。

 幼い頃、私の生まれ育った下町本所の氏神様は亀戸天満宮様で大人も子供も天神さまと呼んで学問の神さまでした。

 八月二十四、二十五日がお祭りです。学問の神さまですが、お祭りだけは別とみえて、とても威勢がいいのです。

 私達兄弟四人は夏休み外房へ出かけていたのですが、お祭りの前には必ず帰ります。

 お祭り当日。

 仕事場が拭き清められ、上り端には一升桝に荒塩が山に盛られてお盆の上にのってます。すっかり掃除されて、チリ一つない家の前は部屋つづきのようです。

 そこに大きな樽酒が置かれ、両横にはラムネの瓶が木箱にビッシリ並んで積み上げられています。

 祖母と母はお煮〆やら炊き込みご飯等、ぞくぞく集まる親戚や知人のための御馳走作りです。叔母達も助人でやってきて、家の中もだんだんと賑やかになってきました。

 私は浴衣に紅白のたすきがけ、鈴がついているので動くとシャン、シャンと鳴ります。それに新しい下駄もその日、下ろします。

 子供は綱を握って山車を引っぱり町内を練り歩きます。

 ドンドン、カッカッカッ、ドンドンドン、カッカ。

 我家の前で停ると、ポン、ポンポン、ポン。

 母や叔母達がラムネの栓をぬきます。私はそのラムネの瓶を手渡すのがなんだか自慢気で、小さな子にも渡していました。

 次いで大人神輿です。

 ワッショイ、ワッショイ。

 かけ声が聞こえてくると先きがけた男の子が、「酒やのケチンボ、塩まいて、おくれ!」と大声をあげます。

 近づく神輿を前に酒屋の親父じゃない、竿師の祖父が道路一面に、

 パーッと波の花を撒きます。

 近づく神輿、家の前で足ぶみし、大勢の人達が、さーせ、さーせ、と神輿を天に上げます。そして拍子木が鳴り小休止。

 樽酒の柄杓をうばい合うようにお酒を飲む大人達、また湯呑茶わんで美味しそうにして飲む人。活気がみなぎっています。

 祖父は普段徳利のお酒を一滴でも大切そうに、オトトトと飲んでいるのに、

 「ドーンと、やっとくれ!」と声を枯らして叫んでました。年に一度のお祭りは大盤振舞です。

 そして、「決して二階から神輿を見てはいけない、罰があたるから、そして女の人は神輿にさわってはいけない」と固くいい伝えられていたのです。

 また拍子木が鳴って、ワッショイ、ワッショイ、神輿が動き出しました。

 そのうち、

 「ケンカだ、ケンカだ!」

 三の橋の上で神輿のぶつかりあいです。威勢のいい大人達が飛んでゆきます。

 命がけで楽しんだ下町の人達の年に一回のお祭りです。

 子供神輿も大人に負けじとやってきます。家の前で停ると、こちらは山車と同じにラムネです。兄達はブッカキの氷を口に入れて、体から火が吹いてるかの勇ましさでした。

 夕暮れ、通路に水をまいて流して掃いたのですが、いつまでたっても蠅がブンブン、ブンブン騒いでいました。

 夜になると、父の職人仲間が皆んな集まってきます。親戚の人達も一緒に大勢で飲んで食べて話して笑って、賑やかこの上もありません。年に一度のお祭りを楽しむ人と一緒に、蠅まで一晩中騒いでいたのです。

 幼い私は、お祭りは皆んなが楽しむものなのだと、その中に加わっていました。

(えびな・かよこ エッセイスト)



●東京宮神輿マップ

東京宮神輿マップ



●神輿図

神輿図

このページのトップへ
トップページへのアイコン




Copyright (C) 2014 by SANSEIDO Co., Ltd. Tokyo Japan