ことばは人を育て、未来をきりひらく知の源です。三省堂はことばをみつめて135年 サイトマップお問い合わせプライバシーポリシー
三省堂 SANSEIDOトップページ 三省堂WebShop辞書総合サイト Wrod-Wise Web教科書総合サイト ことばと教科
辞書教科書電子出版六法・法律書一般書参考書教材オンラインサービス
書名検索漢字かな著者名検索漢字かな詳細検索
新刊・近刊案内
メディアでの紹介
本の注文
書店様専用
大学向けテキスト
卒業記念
名入れ辞書
品切れのご案内
「ぶっくれっと」アーカイブ
会社案内
採用情報
謹告
三省堂印刷
三省堂書店へ
三省堂書店はこちら
声に出して読めない日本語。
「ほぼ日刊イトイ新聞」
(『大辞林』タイアップ・サイト)
  生きのびろ、ことば


生きのびろ、ことば

小池昌代・林 浩平・吉田文憲 編著

1,600円 四六変型判 176頁 978-4-385-36381-3

ことばについて、13人の現代詩人と一緒に考える、待望のエッセイ集!
ことば遣いのプロフェッショナルである詩人たちによる、今日直面することばの問題を丁寧に考察、そして楽しめる内容構成。生の痕跡を読み取ることのできる柔軟な感受性を知る。

2009年2月10日 発行


編著者略歴   まえがき   目 次   あとがき



編著者略歴

  • 小池昌代(こいけ・まさよ)
    • 1959年生まれ、詩人・小説家・エッセイスト
  • 林 浩平(はやし・こうへい)
    • 1954年生まれ、詩人・日本文学研究者
  • 吉田文憲(よしだ・ふみのり)
    • 1947生まれ、詩人・評論家

まえがき

どうでもいいようなことで恥ずかしいのだが、たとえば何かの飲食店に入り、給仕をしてくれたひとに、「ありがとう」と言いたいとき、相手のひとが自分より年上だと、ありがとうと言い切ることがなかなかむずかしい。なんだか、えらそうに聞こえてしまうから。だから、「ございます」を、やっぱり付けてしまう。でも、「ございます」って、なんだか丁寧すぎる。もっとカジュアルに、そして感謝を素直に伝えるために、どんなことばがあるのか、などと考えていて、あるとき、ふいに口を付いて出た「ありがとう」に、関西風のイントネーションがついた。わたしは関東人で、「ありがとう」の「あり」に強い拍がくる。それを、「とう」に強拍をもってくる。すると、わたしの感覚では、相手が年上でも、カジュアルな感覚を残して、素直にお礼が言えるような気がした。関西弁的「ありがとう」には、人間としてのかわいげみたいなものも、加味されていて。

もっとも、関東人がいくらまねをしても、微妙なところは追いつかない。方言というのは、土地のひとがしゃべると、いきなり七色に輝くようなところがある。わたしがやっても、一、二色だ。それくらい、方言からは、目に見えない「波動」のエネルギーが放出している。女のひとをくどくなら、方言だよと、わたしはひとをみながら、すすめている。

このように、言葉は生きているのだ。話し言葉も書き言葉も、時代の気風を背負い、どんどん変化し、それ自体で生命を持っている。だから、これこそが正しい日本語ですよとか、いま、書かれるべき日本語はこれだ、というような、固定したものとして言葉を考えると、とても窮屈なことになる。言葉をコントロールしようとすること自体、おかしなことであって、わたしたちは、つい言葉を使っているというふうに考えるけれど、本当は言葉の方に使われているのかもしれない。そんなイキモノである言葉を、この本では、さまざまなテーマのなかへ、手から離して、ほうり込んでみた。すると、動いている言葉のなかに、現代社会や我々現代人の姿が、とてもクリアに見えてきた。

執筆者はみな、詩を書いているひとたちで、言葉を、世界を見る特殊レンズのようにして使う。それぞれ、屈折率と拡大率が違う。論考ごとに、日常が、世界が、違って見えてくるはずだ。ものの表面をおおっていた「あたり前」の皮膜が、一枚、まず、ぺろりとむける。一枚、もう一枚と、さらに深く、世界をむいていくのは、これを読む、読者の役目である。

人間は怠惰なので、耳に慣れた通りのよい文章を読んで、安心したいところがある。安心して、でも、それ以上には考えない。詩や詩について考えた言葉が、ときどき、難しくなったりするのは、詩人たちが、ことばの大通りでなく、裏通りを歩きながら、自分でも迷ったり、引き返したりしながら考えを進めていくひとたちであるからかもしれない。つまづきながらも読みすすめてみてほしい。言葉をめぐる、新しい体験の世界が、読者のまわりに、広がっていくことを祈っています。

二〇〇八年十月

小池昌代


目   次

  • まえがき   1
  • [笑い]  悩める東京タワー  平田俊子   8
  • [文語]  文語に会うとき  藤井貞和   18
  • [ことばとエロス] 言葉以前  小池昌代   30
  • [ことばと肉体] 沈黙する身体  杉本真維子   42
  • [路上のことば] 対話篇〈それはたまねぎではない〉  田口犬男   54
  • [挨拶] 文体と儀礼感覚  林 浩平   72
  • [間] 「間」について  高橋順子   84
  • [オノマトペ] 内奥の声  正津 勉   96
  • [方言] うだでき場所の言葉  吉田文憲   110
  • [死語] 死語のレッスン  建畠 晢   124
  • [まじない] 私のまじない  伊藤比呂美   136
  • [翻訳] 〈詩の共和国〉への通行証  四元康祐   150
  • [ネット詩] ナルシスから離れだしたネット詩  阿部嘉昭   162
  • あとがき  172

あとがき

これまで、日本語論と称される分野には、総じて強い関心を持てなかった。どうしてだろうか。ひとつ考えられるのはこういうことだ。日本語論という思考の場では、対象となることばは、主体から距離を与えられいわば標本となって解剖される。その結果、そこからは豊富な知見が導かれよう。それ自体は、もちろんおもしろい。しかし、その興味や関心は、いわゆる「文化的な」水準のものだ。名著『明るい部屋――写真についての覚書』の著者ロラン・バルトなら、「ストゥディウム」(一般的関心)と呼ぶだろう。

だが、ことばをめぐる問題に思考の錘を降ろしてゆけば、錘の糸は無限に手繰られるはずだ。それになにより、ことば自体、道具的な記号なのではない。ことばは深く身体性に結びつく。このことは、近年の言語哲学や現象学が明らかにした。よって、たんなる標本解剖では、問題の深層にまで思考の錘は届くまい。

とりわけ、平生から詩というものを読んだり書いたりする者にとって、ことばをめぐる思考がもたらすべきは、一般的関心に収まりきらない、もっと昂揚したものである。やはりロラン・バルトの言葉を借りるなら、それは「プンクトゥム」(私を突き刺すもの)でなくてはならない。「詩人たちの日本語」という主題を掲げてわれわれが目指したのは、まさに「プンクトゥム」としての日本語論だったといえる。

日本語の危機、ことばの力の衰え、そんなことが叫ばれだしてすでに久しい。いまことばは危機的状況にある、それはまさにその通りだろう。だが、それを用いて創造に挑むのが詩人という存在だ。本書は、十三名の現代の詩人が、それぞれの問題意識に即しながら、現に格闘中のことばについて綴った日本語論である。

共同編者である小池昌代と吉田文憲とは、企画意図の絞り込みや主題の選定などについて、何度も討議の場を持った。水道橋の三省堂本社の会議室にはよく足を運んだものだ。

「神田に出版社が多いのは、昔は紙を運ぶのに水運を使ったから、という説もあるそうですよ。」そんな説明を聞きながら、部屋の窓の下を流れる神田川を三人で眺め下ろしたこともあった。三人での討議は、楽しい思い出である。

本書は、自作詩朗読CD本『やさしい現代詩』と並行して企画された。企画の種を蒔き、書物のかたちにまで育てあげてくださったのは、三省堂出版局部長の飛鳥勝幸氏である。飛鳥氏のご努力に編者一同感謝申し上げる。

二〇〇八年十月

林 浩平


このページのトップへ