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     忘れかけてゐた言葉

忘れかけてゐた言葉

山田俊雄 著

1,600円 B6変 240頁 978-4-385-36123-X (品切)

日本語の歴史を調べようという仕事を自らに課した著者の随想集。幼年の日の記憶、家族や同僚との会話、読書の中で心にとまった言葉を手がかりに、深い思索と熟成を経て穏やかな結論へと進むまでを語る。

2003年4月1日 発行



●著者略歴


山田俊雄(やまだ としお)

1922年東京に生まれる。1944年東京帝国大学文学部
卒業。日本語の歴史専攻。成城大学名誉教授。

[著書―単行本・辞書・共編]
『日本の文字』(岩崎書店)『日本語の歴史』(平凡社)
『日本語と辞書』(中央公論社)
新日本古典文学大系『庭訓往来』(岩波書店)
『新潮国語辞典 現代語・古語』(新潮社)
『角川最新古語辞典』(角川書店)
『例解新漢和辞典』(三省堂)
『詞苑間歩』(三省堂)
『日本のことばと古辞書』(三省堂)

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●目  次

まへがき

思ふこと          11
見ぬ代の人を友とすること  14
近況            17
ワシントンDCにて獨吟歌仙 22
新しい學年を迎へて思ふこと 26
思案のしどころ       29
私の讀んでゐる雑誌     33
昭和四十六年の反省     41
初心            45
林間の小徑での對話     48
ある人の訃を聞いて     53
歳末の斷想 ――灰色の風景について―― 57
新學年の初めに当つて    61
記憶の束の一つ       65
無題            70
夏の休暇          77
昭和四十八年歳末に     82
      ――「讀む」と「見る」と――
板チヨコの割り方について  87
佐々木邦の全集を讀みながら 93
水無飴の話         102
氣の利いたやうな話     110
新しい季節に古い言葉を   116
厨川さんのこと       120
老の迫つて來る時      128
四月某日の日記       132
記憶してゐたと氣付いた話  137
集字のこと         143
思ひ出すこと        149
津輕への旅         154
勿忘草           158
高田さんの逝去       173
昔話の話          179
八月一日の記        186
古い話           193
入學の季節 ――讀書の季節―― 200
物を書く人の用語      204
永く忘れてゐた書物との再會 211
「お父ッさん」の話     217
七十半ばを超えての仕事   225
赤茄子とトマト       230

あとがき          237

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 ●まへがき

 この書物の題名を何と名けようかと云ふ段になつて、私は、この一冊の中の一篇の名を以て、全體を代表させようと思つた。

 そして記憶に從つて「忘れかけてゐた言葉」とすることにして、それを編集者のSさんに傳へた。他にも候補を書き出して置いたかも知れないが、とにかく「忘れかけてゐた言葉」に決つたのである。

 編集者もその同僚も、本の内容のよしあしは別として、輕くて親しめるから善いといふことであつたらしい。私もそれで滿足してゐた。

 ところが、編集が始まり、體裁も段々に固まつて、目次が出來てみると、題名に採つた題をもつた一篇といふのは、私の記憶の中にのみあつたもので、實はどこにも存在しない、幻の篇名であつた。

 「忘れかけてゐた言葉」と云へば、それは、この一冊に収めたすべての篇が、私にとつて忘れかけてゐた言葉ではないか。この一冊をまとめて知己の方々に讀んで貰はうと心ざしたのも、私自身忘れかけてゐた一篇一篇を、暫く蘇らせて、讀むといふ、いささか感傷的な趣向だつたではないか。

 つまり、この一冊全體の内容が、「忘れかけてゐた言葉」なのである。

 永い間にわたつて書いてゐる中に溜つたものなので、執筆の時期によつては、他の著、『詞苑間歩』と材料を同じくし乍ら語り口の異なるものもあるのは、讀み手を考へての上のことであつた。また、早く『詞林逍遥』などに掲げたものも少しはあるので、それらもすべて、私にとつては忘れかけてゐた言葉であるが、今ここに竝んだ姿で見ると、それなりになつかしい。

 平成十五年一月三日

山 田 俊 雄

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 ●佐々木邦の全集を讀みながら

 今、四十歳ほどになる人々でも多分あまり知らないだらう、この間の戰爭が濟んでから三十年といふ年月がもう過ぎてゐるのだから、その年頃の人が佐々木邦の作品を、同時代の讀者として彼の發表するに從つて讀んだなどといふことがあるわけはない。

 この二、三年前から、私は、ちよつと、調べたいことがあつて、漱石や鴎外のものを、私として何度目にあたるものか數へてもゐないが、全集でまた讀んでゐる。同時に、この兩家以外のもつと通俗的な内容の文藝を資料にして同じやうな事を調べて見たくなつた。目下、吉川英治や佐々木邦、大佛次郎などをその旧い方から讀み直してゐるのである。

 私の調べたいことは、簡單に言ふなら、明治以後の外來語についての調査で、外国語の定着のしかたと、定着する、しないの事情の究明、また他の語との交替の状況を知るといふことである。もともとは、明治二十二年創刊の「風俗畫報」に拠つて大正初期までの概況をざつと展望して、『日本語の歴史』(平凡社刊)の第六巻の記述に役立てたことに始まつたことである。

 漱石や鴎外はその時代において最上級をなす外国語理解者であり使用者であつたと思はれるので、この兩家のものには「風俗畫報」の内容よりも遥かに高いレベルの外国語使用がある。だんだん仕事が進むにつれて次第にその中間を埋める資料も必要になつて、前記のやうな、いはゆる大衆文學の方に眼が向いて來た。そしてその一つが佐々木邦の全集であつたわけである。

 永井荷風の「ふらんす物語」「あめりか物語」などを始めとする異国文化観察の生活を基調にしたドキユメントとは違つて、佐々木邦の場合は、もつぱら、日本の風土、社會に即して書かれる作品が多い。初期を除くと殆んどが、卒直にいへば、全くのエンターテーメント、娯樂で、ひまつぶしに類する。素朴な人情と、健康な倫理観念と、現代風の合理主義が、調和した姿を、さまざまに見せるのであるが、用語の方から見ても、極めて平均的で奇を衒ふことなく、健全な保守的傾向であつたと思はれる。そんなわけで外來語を調べる資料として一方の代表といふ資格が十分に備はつてゐさうに思はれた。

 それはともかくも、今、私が外來語調査の資料にランダムに佐々木邦を取りあげてゐるのは、實はたゞにその刊行を知らせた新聞廣告の口車に乗つたからではなく、やゝ因縁があつたのである。

 少年の頃、佐々木邦を讀んだのは、「少年倶樂部」といふ月刊誌によることが殆んどすべてであつた。「苦心の學友」「全権先生」「村の少年團」「トム君サム君」などがそれである。大人の娯樂雑誌に連載されたものも少くなかつた由に聞いてはゐたが、私は、それらのすべてに接する機會があつたわけではない。

 少年から大人へ生長する頃には、この佐々木邦は、私の腦裡からは、消えてしまつてゐた。高等學校生徒の時代、また短かい大學生の時代には、その淡い諷刺や上品で無害安全な人情話めいた諧謔を、到底單純に味ふに耐へなかつた。むしろ彼の作品は少年時代の回想・追憶の中にのみ光輝を保つ存在になつてゐた。

 ところが、大學學生のまゝ軍隊に入つて碌々として日を迎へ、鬱々として日を暮らしてゐる間の、ある時、活字には飢渇を感じてゐたものの、むしろ何を考へることさへも億劫な、怠惰な兵營生活の中で、下士官集合所にあつた少々の書物の中に、鴎外譯するところのクラウゼウイツツの「大戰學理」、徳富蘆花の「寄生木」と、佐々木邦の「愚弟賢兄」があるのをみつけた。佐々木邦のは、集合所備品ではなくて、誰かが持込んだものらしく、記憶では春陽堂文庫の一冊だつたと思はれる。「大戰學理」はゆつくり讀む閑暇がなかつたが、蘆花とこの「愚弟賢兄」とは終りまで讀んだと思ふ。兵營の中に閉ぢこめられた人間にとつて「愚弟賢兄」は別世界の愚劣な話にすぎず、むしろ私は、その時にその小説が軍隊内に在ること自體を變なことだと思つた。しかし、私は、少年の頃の自分とすでに訣別した自分をよく自覺し得た。これが成人する途中での佐々木邦であつた。

 ところが、戰爭が負けになつて終つて帰つてみると、世の中は上を下への大騷ぎで、しかもいつ何時飢ゑて死ぬかも分らぬ情勢になつた。かつて少年時代を過した仙臺へ行つて、知人のつてで小遣稼ぎの臨時の受驗講座の講師をし始めたら、幼な馴染の年上の友人に遇つた。私の拙劣な講義に聽講者として來てゐたのである。その友人は、陸軍士官學校を經て將校になつて活動していくばくかの月日を送つてやがて中尉か大尉か何かで廢業させられたのだが、年も若いので、改めて學校にはひり直さうといふことだつたが、その口から意外にも佐々木邦の名を聞いたのであつた。

 彼が、たまたま靜岡縣のある所に駐屯してゐた時、近くに佐々木邦といふ標札をかゝげた家があつたとか、その名が、少年の頃の人氣作家と全く同じなので、興味をそゝられて訪ねてみたら、ほんたうに、その人であつたといふ話である。それだけのことで、あとは何もない話だつたが、戰爭をへだてて久し振りに再會した人の口から佐々木邦や「苦心の學友」などの話題が飛び出したのは、いかにも久濶を敍するにふさはしい氣もした。例の「愚弟賢兄」の文庫本の話を私の方から持出したかどうかは、今おぼえてゐない。そしてその時、佐々木邦は完全に過去の時代にはるか離れ去つたといふ感を一層深めたのであつた。

 それから二十數年を經て、講談社が、「少年倶樂部名作選」なるものを刊行した時、私は二人の男の子に、その本を與へた。「苦心の學友」の中の「内藤正三位」などといふことばが、私の家庭の中の話題に時折は上る。父が、少年の頃に愛讀したものを、子が讀むといふのは、ある意味では良き習はしかも知れない。平田禿木譯の「ロビンソン漂流記」を昔のまゝに長男に讀ませようとしたら、活字の旧さ、假名遣ひのためもあつて、あまり愉しげでなかつたのを目撃して以來、特に奬めることを止めてしまつたが、この「苦心の學友」はさうでもなく讀み切つたやうであつた。かくして、佐々木邦は、私の家庭では周知の人物になつた。そして私は、佐々木邦の名を、少年の頃とは違つた意味で、心の中に再び抱くことになつた。そして、今や、佐々木邦の全集は、私の外來語調査の資料として現前してゐる。しかも、私の器量に從つた調査の途上で、私は多少の發見らしいことをした。これから述べることはその一つである。

 あまり上品なことばではない、むしろ隱語といつた方がよいが、「アメシヨン」といふのがある。この語は、久しく正統的な国語辞書には項目として収められることがなかつた。最近では、編者が、研究者ではあらうが、紳士でなくなつた所為か、小型の學習用辞典にも多くの俗語、品格のない語を掲げて、掲載語の新奇や多さを競ふやうになつて來た。私が編修に携つた辞典としては、あまり下世話にわたるものについてはこれを積極的に採用する理由が無かつたので、かつて一度も項目として掲げたことがない。

 しかし、もし、掲げるのなら、それなりの調査をして正しい記述にしなければならない。

 最近の私の外來語調査といふのも實は、今別に現代語辞典を新しい方針で編修しようといふ計畫から發してゐることで、品格のない猥雑な用語であれ何であれ、辞典に収めるか否かを問はず、一應、手びろく調査を遂げて置かねばならない。そこで、佐々木邦の全集にまで及ぶといふ次第であるわけだが、この「アメシヨン」もその調査の中でフエイド・アウトして來た品いやしきことばである。

 佐々木邦全集の第一巻に「珍太郎日記」といふのが収められてゐる。この作品は、解題を書いた尾崎秀樹の記によると、大正九年一月から十二月まで、その續編は翌年一月から十二月にかけて「主婦之友」に連載されたものであるといふ。この新版の全集本に示すところによるとその第二十回の部分に、次のやうなくだりがある。(今、現代表記のテキストを示す)

 「アメションというのは西洋人じゃない。アメリカへ行って小便をして来た丈けの奴ということさ」

 「成程ね。アメションか。そう言えばあの迫害師は確かにアメションだ。如何にもアメションらしい顔をしているよ。学識が怪しくて言葉使いを知らない上に、始終白面でいながら礼儀作法を一向弁えていない。紳士の礼を御存知ないというのは夫子自らのことさ」

 ここに出てくる「迫害師は‥‥」以下の部分は、原作品によらないと、率然とはよくのみこめない行文だから、それはさし措くが、「アメシヨン」をはつきり用ゐ、はつきり定義してゐる。これは、大正十年八月發表のものと推察される。といふのは、この全集本では正續併はせて全體を二十四回にわけてゐて、この二十四回は、もともと大正九年、十年の二年間の二十四月に割りふられた筈だからである。

 ここまで讀んできた時、私は、「アメシヨン」が案外に旧い語であることを知つた。そして、急に他の辞典を調べて見た。

 荒川惣兵衛といふ人の編で勞作といはれてゐる『角川外来語辞典』に、「第2次世界大戦後、ただ意味もなくアメリカ旅行する風潮があったが、これをひにくったことば」とあるのは、使用始めの時期について大へんな見当違ひをしてゐるので、ここでは論外にしなければならないが、最近刊行中の『日本国語大辞典』(小学館)は「隱語構成様式并其語集」(昭和十年六月刊)を引いてゐる。そして「昭和の初年いわれた」とあるのは、聊か曖昧な見解で、「初年」をどこまでの範圍に見るつもりか知らぬが、實は昭和四年刊の『かくし言葉の字引』(宮本光玄著)に既に見えてゐる。また、昭和六年か七年の改造社版の『最新百科社會語辞典』にも見えてゐるから、文献上は佐々木邦の「珍太郎日記」の大正十年のを早い例として、もすこし溯りうるものであらうと想像されるものである。

 私は、佐々木邦の全集を讀みながら、少年時代の讀書と、今の私の讀書とが、大へんに異なつて來たことを、特に不思議ともまた不自然とも思はないけれども、何か因縁の深いやうに思はれるものがあるのを感じる。

 この全集を讀みながら舶來語採集をしてゐると、辞典編修の路の險しさを感じつゝ、しかも無限の底の深さを想ふ。素朴に家庭諧謔小説を味ふ境地を失つてゐながら、今日なほこのやうな作品にも、また別の作品にも、プロフエツシヨナルな意識をもつて繰返し次々と立むかふことができるのを、むしろ幸ひだと思ひたいのである。

(花信風・昭和五十年七月)

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 ●昔話の話

 幼童の頃、私が主として讀んだ昔話は、楠山正雄といふ人の編んだ『日本童話寶玉集』によつてである。確かな記憶はないけれども、菊判か、正方形に近い變形版かで、上下二冊、それぞれ堅牢な箱に入つてゐた。今、他の書物で調べてみると冨山房といふ書肆の刊行であつたやうで、『世界童話寶玉集』と竝んで、私は父から與へられたやうに覺えてゐる。それは大正も大震災のあと、昭和の年數もひとけたの頃の話である。

 大正時代に育つた人々の口から、立川文庫とか、兒童雑誌の「赤い鳥」とか、少年雑誌「日本少年」などの名の語られるのを聞くが、それらは、私より十歳ほど年長の世代のもので、知らないわけでなかつたが、實は私にとつてはもともとの馴染ではない。昭和以前の世代を、明治を除いて一括し、大正生れの世代などとおしなべてしまふのは、一人一人の幼少年時代の育ち方だけで見ても極めて粗雑なやり方である。このことは、最近の近代文學史家についても、現代史について發言する所謂評論家についても、同様に注意を喚起したいところで、時代考證のでたらめな演劇や小説が、讀者の興をさますのと似て、近頃私は、途中で捨てたくなるやうな半可通の文章に屡出合ふ。

 楠山正雄の名は、同時代の知識階層にとつては、勿論、劇作家であり劇評家であり近代劇研究家であつた。また冨山房に拠つて立つたすぐれた編修者として知られた。その縁で、冨山房から兒童文學の書を多く世に送り、自らの筆に成る昔話の著作を兒童畫作家と協同で遺したものが、多く子供らを愉しませたものである。それらは「赤い鳥」の時代と重なり、且彼はそちらにも寄稿したのだが、それらの成果を享受した幼少年の側の一人一人は、同一人が百花の色をきそつて世に出たすべてのものを均しく落ちなく受けたなどとは、考へられぬところである。かつての日本の家庭が、世間に出るすぐれたものすべてを、自分の子に與へ得る眼識も資力も兼ね持つてはゐなかつた。私の家庭でいふと、冨山房の兒童ものは、父が好んで選定したらしく思はれる。また、たとへば、島崎藤村などのものや、北原白秋らアルスの刊行した『日本兒童文庫』は採らず、かへつて菊池寛らの『小學生全集』をもつて佳とするやうな嗜好が、私の父にはあつたやうであるが、ともかく兒童文學の選定は兒童自身の手で行はれることは殆んど稀であつた。私は月刊雑誌としては、中學二、三年までは「少年倶樂部」で十分滿足して居り、父もそれを知らぬ顔で讀んでゐたらしいけれども、その間の冬休みとか夏休みの旅行を許された折には、「譚海」などいつもは禁止されていた、聊か漫畫漫文の多いものを旅費の小づかいで買つたりもした。學校の友達から借りることは、あまりなかつた。それは兄が二人居て「子供の科學」なども月刊で家庭に入つていたし、妹たちが「少女倶樂部」「幼年倶樂部」をそれぞれに取つてもらつてゐたので、閑つぶしの讀み物には充ち足りてゐたためであらう。

 この文章を書き出す緒は、六月五日の日曜日、實はある文庫本に楠山正雄の著として『日本の神話と十大昔話』があるのを店頭で見たところ、それが、長い間、私の記憶に留つてゐた『日本童話寶玉集』の、分冊本の一冊に当つてゐることを知つたからである。それは第二分冊目になるもので奥付を見ると、昭和五十八年五月の第一刷發行で、六十三年四月第七刷發行としてある。情報の過剰に飛び交ふ時代であるにかかはらず、私の幼年の日の記念の楠山正雄の、その著作のこのやうな形での再刊を知らなかつたのは、我ながら迂濶だと思ふのみである。

 さて、その文庫本を買つて見ると、今は大人になつた私の眼には、幼年の日のものと別なものではない筈なのに、全く新しい問題を含むものと見えて來る。

「くらげのお使ひ」といふ話が載つてゐる。これは、『今昔物語集』の、天竺の部―巻第五の第二五語と同じ形の説話である。もととなつたジヤアタカ(釋迦の本生譚)では、猿と鰐との話。『今昔物語集』での亀が、くらげに變つたのは、日本の民間に流布して以來のことかも知れないが、よくは判つてゐない。近世の子供のための繪本の中に「猿のいきぎも」といふのがある。『近世子どもの繪本集』(岩波書店刊、一九八五年七月第一刷)江戸篇によると、現存する完本が知られてゐないさうで、途中までの分で見ると、猿を連れに行つた亀の苦心を知らず、龍宮の門番をしてゐるくらげが、生肝を取られる筈の事情をちつとも呑みこんでゐない猿に向つて、

「こなたは、ひょんな所へ来た。晩か明日は、こなたの生肝を取るはずじゃ」

と口を滑らせる。そこで猿は恐怖してしまひ、龍宮を逃げ出す謀計として、たまたま雨の降るのにヒントを得て、生肝を住家に忘れて來たといふ。干して來たのだが今頃雨にぬれてしまつてゐるだらうに、困つた困つたと云つて泣いてみせる。そこで龍王は蛸に向つて、

「ひとまず猿を帰してよかろ。第一、入り用の肝がなくてはつまらぬ事じゃ」

そこで蛸は、

「亀殿 たびたび御大儀じゃ」

といつて亀に命じて、猿を背中に乗せて行かせる。

 この繪本は、ここまでで、後のところは1けてしまつてゐる。東洋文庫の岩崎文庫本が唯一の傳本らしい。

 さて「くらげのお使ひ」が江戸の子どものための昔話から、さらに一轉して、主人公が亀から、その時の脇をつとめた蛸を通り越して、端役ながら重要な鍵を握つたくらげの方に移つてしまつてゐる。私の記憶では、蛸に骨のない理由を説く起原説話として、くらげでなくて蛸が主人公になつてゐるのも有つたやうに思ふが、とにかく、今の私は、自分の仕事の都合から、『今昔物語集』や『法苑珠林』やジヤアタカまでを視野に入れてしまつたので、「くらげのお使ひ」も、なかなか奥行の深いものと映つて來るのである。

 いま右に引いた因みに、『近世子どもの繪本集』を改めてひろげて見ると、

 枯木花さかせ親仁

と題するものがあり、

 したきれ雀

と題するものがある。

 今更説明する迄もなからうが、前者は、今「花咲爺」と呼ぶもの、後者は、今「舌切雀」と稱して、何ら不審もない話である。これらの話に出てくる老夫婦は、それぞれ正直爺とか正直婆とか、しからざるものは、慳貪爺、慳貪婆といふ名をもつて語られてゐて、江戸時代も前期らしい用語である。その眼で見ると、私は、長い間の疑ひが晴れた、と思ふ節があつた。

 すなわち、「花咲爺」でなくて「花さかせ親仁」とあり、「舌切雀」ではなくて「したきれ雀」とある点である。「花咲」はどういふわけで、「咲」が四段活用動詞の未然形であるのか、長い間腑に落ちなくて、昔からの姿ではあるまい、近代の語り手のさかしらであらうと疑つてゐたものである。「舌切雀」の方も、この語形では、「舌を切つた雀」の意になるから、雀が、切る動作の主格になりかねない。「したきれ」ならば状態を描寫するいひ方ブラックつまり「舌の切れた雀」であるから納得が行く。

 私は楠山正雄の憶ひ出に導かれて、右のやうな昔話の話を思ひついた。ちやうどその時、八木都久子からの電話があつた。「『花信風』はこのところ追悼文つづきだから、昔話でも何でも結構です」といふ意味の、さして時をめぐらさぬ私の返事は、「とにかく何か書いてあげます」。

(花信風・昭和六十三年八月)

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 ●あとがき

 私は教員生活をすること前後五十餘年に及んだ。はじめは旧制中學の最終期に教諭となり、次いで大學の研究室に助手として二、三年勤めてから大學の教師になつたが、常に良い教師でもなく、優れた研究者でもなかつた。ただ學生の人々に對しては出來るだけ親切に接したつもりであるし、折々文章を書いて意思を通じようと努力したと記憶してゐる。

 ことに成城大學文藝學部のある年度の卒業生の要請に應じて書いたものが、量の上で一群をなして多く、また學生運動のさなかに學生部長を務め乍ら學生の人々に示した文章も一、二に留まらないことに懐旧の心を動かした。結果として、このやうな鷄肋の小さな山が出來たのである。私は自分自身忘れかけてゐた言葉を知己の人々に讀んで貰ふことを、今や、老年のすさびとして恥ぢないことにした。いづれは、何らかの形で別れを云はねばならないから。

 平成十五年二月三日

山 田 俊 雄

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