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  〈写真集〉東京大空襲の記録


東京大空襲の記録

東京空襲を記録する会 編

三省堂版 7,573円 A4変 208頁 978-4-385-35198-8 (品切)

第二次大戦で東京が受けた空襲を,初空襲から敗戦まで,米軍撮影の未発表写真を含む253点の写真で構成した記録写真集の決定版。巻末に・米軍爆撃命令書・等収録。日本軍の重慶爆撃も加害の立場から取り上げた。

1982年 5月10日 発行
2004年8月15日 復刻版発行

東京空襲を記録する会の歩み 刊行にあたって 目次 東京空襲のあらまし・3月10日以前の空襲 アウシュヴィッツの記録 原子爆弾の記録

復刻版 11,000円 4-385-35199-6 (品切)

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(平日9:00〜17:00、12:00〜13:00昼休み)



●東京空襲を記録する会の歩み

 東京大空襲から25年目の1970(昭和45)年8月5日、東京空襲を記録する会は発足した。その経緯は次の如し。

 早乙女勝元は、70年3月10日の朝日新聞「声」欄に「子どもに語ろう3月10日」を投稿、4月、民芸では空襲下の庶民生活を描いた飯沢匡作「もう一人のヒト」を公演。そして、7月上旬から朝日新聞は「東京被爆記」を連載。こうした盛り上がりの中で、8月5目、有馬頼義、石川光陽、早乙女勝元らの発起人で組織された東京空襲を記録する会は、美濃部亮吉都知事と会見、東京空襲・戦災に関する資料集刊行の援助を要請。知事は快諾した。

 有馬頼義の主張で、財団法人東京空襲を記録する会となり、事務局を新宿三光町におき、資料収集や編集事務を開始したのは70年4月からで、事務局には10名が常勤して『東京大空襲・戦災誌』(全五巻。後に講談社刊)の編集にあたった。事務局長は松浦総三。この編集作業は予定よりも6ヵ月超過して3年かかり、74年3月に完成、第22同菊池寛賞を受賞した。

 次いで、1974年4月から、松浦、早乙女を中心に「東京空襲・戦災記念館をつくる会」が発足した。先の編集のため収集した膨大な資料を保存、展示する記念館を作ることを目的にした。この会は、76年3月まで資料の収集整理にあたったが、折からの不況のため記念館建設はまだ目的を達成できず、こんにちに至っている。

 これより先、東京空襲を記録する会のスタートを機にして、全国的に空襲・戦災を記録する運動が広がった。記録する会は、それらの運動の連絡と交流を目的として、空襲・戦災を記録する会全国連絡会議を組織し、毎年夏期に連絡会議を開催した。この会は70年以来、東京、名古屋、神戸、宇都宮、岡崎、福山、高松、那覇、小田原などで開かれた。81年秋に完成した全国的な証言・記録集『日本の空襲』全10巻、三省堂)は、まさにこれらの記録運動の結晶である。

 東京空襲を記録する会は、有馬亡き後、松浦、早乙女を中心にして、毎年3月10日の東京大空襲記念集会を主催するほか、映画「東京大空襲」と平和記念館建設など運動の火を燃やし続けている。



●刊行にあたって

 「過去の教訓を学ばぬ者は,必ず同じ誤ちを繰り返すだろう」

 G.・サンタヤーナの人類に対する警告を,重苦しく胸に噛みしめながら,私たちは本書を編んだ。

 東京大空襲は,戦争が民衆にもたらした大虐行のひとつである。

 太平洋戦争下,アメリカ軍によって行われた東京空襲は,1942(昭和17)年4月18日の初空襲を除けば,1944(昭和19)年11月,B29による本格的な空襲にはじまって,敗戦の日まで続いた。この間に東京は約130回に及ぶ無差別爆撃の火の雨にさらされ,延4,900機の来襲敵機によって1万1,000余発の爆弾と,38万9,000余発の焼夷弾が投下され,血みどろの“戦場”と化した。その被害は,いわゆる“銃後”の守りについていたはずの子ども,女,年寄りたちに多く集中し,死者11万5,000人以上,負傷者15万人以上,焼失ならびに破壊された家屋85万戸以上とともに,310万人に上る人びとが戦災者となった。

 1941(昭16)年12月,日本軍国主義が戦争の火ぶたを切って落とした開戦時点で,東京の人口は約700万人であったから,かけがえのない生命を奪われ,あるいは傷つき,さらに家屋まで失った人びとまで犠牲者と考えるならば,その数ざっと350万人にも達し,東京都民の2人に1人が,悲痛な傷痕を残すことになった。

 とりわけ,1945(昭和20)年3月10日未明の空襲は,後の広島・長崎に投下された原子爆弾による被害に匹敵する大惨事であった。わずか一夜にして100万人を超える人びとが住居を焼かれ,約11万人が傷つき,死者は推定10万人に達した。2時間余の爆撃によって,10万人もの生命とともに,全都の4割がことごとく灰燼に帰したのである。

 この未曾有の戦禍の上に,戦後4半世紀もの歳月が無為に経過したように見えた。しかし,“炎の夜”を決して忘れまいとする人びとの決意と,不屈の意志は生き続けた。1970(昭和45)年8月,結成された「東京空襲を記録する会」は,時の革新都政の物心両面からなる援助を受けて発足し,以後4年間にわたり東京大空襲の真相と全容を追跡調査しつつ,都民参加による大資料集『東京大空襲・戦災誌』全5巻を完成。引き続き全国50余都市に誕生した各地の空襲・戦災を記録する会の協力を得て『日本の空襲』全10巻の企画,編集作業に着手し,東京から日本全国へと立体的に俯瞰した戦時下民衆の空襲・戦災生活記録集大成は,空襲を記録する会発足より計10年余の歳月を投入して,ひとまずの区切りをつけた。

 しかし,私たちには今,それにふさわしい安堵感が微塵もない。

 すでに戦争放棄を憲法に明言し「平和」なはずの日本で,その平和がなし崩しに圧しつぶされようとしている。アメリカの限定核戦略に基づく国内の思想動員までふくめた有事体制は着着と進行し,戦後が終らぬうちに「戦前」に逆戻りしつつある状況の中で,空襲・戦災は過去のことではなく,現在から未来のことにさえなってきた感は免れ難い。こんにち米・ソの核軍拡競争の果しない悪循環の中で,核戦争の危険に対する警鐘を打ち鳴らし続けることこそが,過去の悲痛な教訓を学ぶ者の責務となってきた。

 しかし,空襲・戦災の体験者は戦後の歳月とともに減少し,戦後生まれの世代が国民の過半数を超える時代となったのである。いまや視覚的なイメージを重視して,感性の上からも戦争の嘘いつわりない真実の姿をあきらかにしなければならない。それは過去の歴史を後ずさりする行為でなく,現在から未来を結ぶ平和の思想とどこかで堅く結び合うことであろう。ところが,広島・長崎の原爆の惨害に関しては,決して充分でないにせよ数少くない報告,資料,記録写真集などがあり,全国的に被爆写真展が行われて人びとに平和の尊厳を訴えているが,東京大空襲に関しては,こんにち平易に入手可能な視覚的資料はない。

 本書は,その空白を埋める東京大空襲の総合的な記録写真集として,世におくられる。収集出来た資料は,当時の厳重を極めた軍の報道統制とフィルムその他の資材不足を反映してか,“炎の夜”を再現するに完璧とはいえなかった。しかし,この1枚を撮影するために,生命の危険が伴った場合が少くない。たとえば警視庁カメラマンだった石川光陽氏は,退避する人びととは逆に大空襲の渦中に身を投じて貴重な記録を残し,戦後アメリカ占領軍の命令にも抗しフィルムを守った。また豊島正喜氏,深尾晃三氏らの記録からも,その1枚の写真を通して,連日連夜の空襲下の東京に生き,生活していた人びとの胸中に満腔の思いを,馳せることができよう。

 最後に,上記カメラマン諸氏の御厚志と,出版社三省堂の皆さん,担当の山口守氏,ならびにアトリエ・ヒラタの平田嘉男氏の労に,深謝の意を表したい。

 私たちは,この1冊の記録集を,東京大空襲で無念の死をとげた人びとと,傷ついたすべての犠牲者に捧げることにする。現在から未来を結ぶ平和のバトンを,必ずや守り抜く決意をこめて。

1982年3月
   東京空襲を記録する会

松浦 総三
早乙女勝元



●目  次

目次



●東京空襲のあらまし・3月10日以前の空襲

東京空襲のあらまし

 太平洋戦争下の米軍による東京空襲第一号は,1942(昭和17)年4月18日の,米空母より発進したB25中型爆撃機による奇襲であった。この空襲を除くと,ほとんどが1944年11月から開始された,マリアナ基地からのB29超重爆撃機による爆撃であった。このほか,日本の敗北が濃くなると,硫黄島からのP51戦闘機および日本近海に遊弋する機動部隊の空母より発進する艦上機による爆撃と機銃掃射などがあったが,空襲の主役は,むろんB29であった。

 東京空襲を概観すると,1942年4月18日の初空襲はまったくのゲリラ的奇襲であり,その後2年半ばかり東京上空に米軍機が姿を見せることはなかった。B29による空襲が本格的にはじまったのは,1944年11月からであり,1945年の敗戦降状の日まで9カ月間,空襲は休みなくつづけられた。この9カ月間の爆撃は,戦局の推移にともない,その戦略的性格を変えていった。それは,だいたい次の3期に分かれている。

 第1期は,1944年11月24日のB29初空襲より翌45年3月5日までで,この期の爆撃方法と目標は,昼間,日本戦闘機が上昇不能である1万メートルの上空から,主として軍需工場や軍事施設に対して行われたもので,ほとんど目視による精密爆撃であった。

 第2期は,1945年3月10日の江東地域に対する爆撃から翌月中旬の東京西北地区の空襲など,ナチス敗北の5月上旬までつづく。第2期空襲の特徴は,B29が夜間超低空で侵人し,工場地帯を含む密集住居地域を無差別爆撃したことにある。この攻撃は,米軍が沖縄に上陸するために日本軍の空軍力を本土に釘づけにしておくという陽動作戦の側面をもっていた。この期の空襲によって,東京の下町地域は廃嘘と化し,日本の敗戦は誰の目にも明らかになっていった。

 第3期は,ナチスが壊滅した5月以降,降伏の8月15日までの空襲である。5月下旬の再度にわたる山の手大空襲にみられるように,非軍事的市街地域が爆撃された。東京都では立川,八王子,三多摩,伊豆諸島などが,B29だけでなく艦上機やP51戦闘機に,赤子の手をひねるようにして爆撃された。5月25日の空襲のあと,アメリカの記者は「もはや高地なし」と書いている。

3月10日以前の空襲

 空襲警報のけたたましいサイレンが鳴ったのは,開戦後4カ月半たった1942年4月18日,日本本土東方1,317キロの海上にある空母ホーネットから飛び立ったB25中型爆撃機16機による空襲であった。これは隊長の名をとってドゥリットル空襲と呼ばれた。

 この空襲による被害はそう大きくはなかったが,日本軍部はたいへんなショックを受けた。日本連合艦隊は,空母ホーネットの基地ミッドウェイ島を襲って大敗。以後,戦争の主導権はアメリカ側に移った。

 東京上空にB29が初めて姿を現わしたのは,1944年11月1日である。ミッドウェイ決戦後,日本軍は太平洋上で連戦連敗し,44年7月には,ミクロネシア諸島のサイパンを奪取された。白い飛行機雲をひいたB29は,サイパンから飛来したものである。

 こうして,第1回目の本格的大空襲が行われたのは,11月24日。24機のB29が都下武蔵野町の中島飛行機を爆撃した。12月3日,12月27日にも中島飛行機は爆撃され,相当な被害を受けた。

 この間,11月29日から毎夜のように,少数機が夜間東京上空に出現し,焼夷弾を投下した。

 明けて1945年,元旦から空襲警報が鳴り,連日波状的にB29少数機が飛来し,都民は恐怖におののいた。

 1月27日14時,B29 72機は銀座と有楽町を爆撃して多数の死者を出した。その後も少数機による執拗な爆撃は連日つづいた。2月17日には,艦上機が関東一円を空襲し,2月19日14時46分にはB29 131機が都心部を爆撃した。

 2月25日,東京は雪が降っていた。午前中に艦上機数十機の爆撃があり,午後にはB29 130機が,爆弾と焼夷弾で市街地を無差別爆撃した。そして,3月4日には,午前8時45分からB29 177機が,東京都北部を焼夷弾を主力として爆撃した。

 以上が第一期空襲のあらましである。11月24日,27日,12月3日などの空襲は工場だけを爆弾で攻撃したが,1月27日,2月25日,3月4日の攻撃は,爆弾と焼夷弾による昼間の市街地無差別爆撃であった。そして,3月10日をむかえる――。

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