加藤登紀子の男模様
夫、藤本敏夫への直撃インタビュー

藤本敏夫さんとの写真

1999年

●プロフィール●藤本敏夫●

68年反帝全学連委員長。72年から3年余り、学生運動をリードした責任を問われ、服役。72年、加藤登紀子と獄中結婚。76年、大地を守る会を始める。農事組合法人「鴨川自然王国」代表。2002年7月、没。

 『加藤登紀子の男模様』


六〇・七〇年代、スチューデント・パワーの意味

登紀子:今日は「加藤登紀子の男模様」の一章として、改めて、夫、藤本敏夫にインタビューを試みてみたいと思っています。

 まず、今ふりかえって、一九六〇年から七〇年に起こった出来事をあなたがどのようにとらえているかということを話してほしいのよね。

 私達は同い年で五十五才。私は、六〇年、三十万人以上の人が国会をとり囲み、東大生だった樺美智子さんが亡くなったあの安保反対闘争を、高校生として、同じ東京にいてまず最初に見、参加したのが政治に対する開眼だった。

 あなたは何年から、いわゆる学生運動していたわけ?

藤 本:六四年だね。その前、大学に入った年六三年は鶴見俊輔先生の影響もあり、いわゆるボランティアというか、ワークキャンプをやってた。

 例えば在日朝鮮人の小学校の校庭をつくるとか、それから、吹田のスラムの人々のためのセンターをつくるとか、そういう具体的な建設工事。それから、奈良のハンセン氏病のいわゆる交流施設、宿泊センターみたいなものね。

登紀子:学生が集まって建設を手伝っていたの? 今はもうそういう活動は聞かないよね?

藤 本:いや、あるんじゃないかなあ、細々としてではあれ。

登紀子:私は六二年に大学へ入って、大学管理法反対というのがあって、それは少しやったのね。その後演劇の方にいっちゃったから、学生運動らしいこと大学ではあまりやってない。そして、六五年に、シャンソンコンクールに優勝して歌手としてデビューすることになった。

 この間出版された、東大の立花隆ゼミのメンバーが各界の人たちにインタビューしてまとめた『二十歳のころ』という本にも少し出ているんだけれど、一年のときにはクラスから一人選挙で選ばれる自治委員に立候補したのね、落ちたんだけど。もう一人の男の子と決戦投票になってさ。そのとき、「絶対正しい行動なんてあり得ない、だけど行動したい。ぎりぎり、正しいと思える方法で」って演説したのよ。支持票がそれでゼロになった。

藤 本:あ、そういう演説、政治では絶対駄目なんだ。嘘でも、「俺たちは正しい」って言わないとね。

登紀子:それがいやあね。そのためにどれだけひどいことが起こってきたかを思えば、私の方が「絶対正しい」のにね。

 学生ってものに幻滅したわね、あのとき。そのあと急速に学生運動から離れていったんだけど。

 その後、六五年に私が歌手になるときには日韓会談というのがあった。あのデモに参加したのが最後だったわね。六五年といったらあなたは三年生? 同志社大学ではもう自治委員長になっていたの?

藤 本:いやいや、複雑なんですよ。

 僕はもともと、政治については何の興味も関心もない人間だったんですよ。高校時代はスポーツばっかりやっていた、テニス部で。

 ジャーナリストになりたいなあという漠たる思いはあったので、でも新聞学科というと京都は同志社大学しかなかった。急いで勉強を始めたんだけど、僕はあなたと違って全然勉強ができない男でしたからね。一年間浪人したんですよ。

 最初は神戸の予備校へ行ったりしていた。でも途中から予備校なんかやめちゃって、神戸の大倉山図書館をぶらぶらして、そこに来る女子高校生なんかをからかったりして、結局何も勉強しなかったのが、どういうことか自分でもよくわからないんだけど、八月になって一念発起したんですね。人生で初めてですよ、あんなに勉強したのは。

 それで大学へ入って、オリエンテーションの期間に校庭を歩いてたら、新聞学研究会という団体が勧誘をしていた。僕は、ああ、ここに入ったら取材とか編集とか、新聞記者のための教育をしてもらえるだろうと思って、それで入ったんですよ。そしたら何のことはない、学生運動の巣窟みたいなところで、いわば学生運動家養成クラブですね。

 六〇年安保の後、政治状況は、学生運動の分野では一九六一年がいわゆる憲法公聴会、六二年が大学管理法案。六三年に、東大のポポロ座事件というのがあった。東大の演劇クラブをめぐって公安の刑事がキャンパスの中に入った、大学自治侵害だというんで騒ぎになり、僕は初めて京都でデモに出たんですよ。京都地裁に向けてデモに行って、へーえ、デモってこんなものなのかというのを初めて体験したんです。

 ただその前から、世の中のことを考えないといけないという気持ちにはなっていた。なぜなら、新聞学研究会での最初の読書会が『空想より科学へ』というエンゲルスの本で、マルクス主義というものに初めて出会った。で、本当に驚いたんですよ。世の中を理解する方法があるということを知ったわけさ。つまり世界観なるものに初めて接触したんですよ。それでも学生運動には直接まだ入れなかった、何となく怖いしね。

 新聞学研究会というものが安保の後の学生運動を象徴してもいるんですけど、共同体指向という動きがあった。

登紀子:京都の場合ですね。

藤 本:うん。山岸会とか一燈園とか、運動の流れの一つはそういう共同体指向になったんですよ。京都は周りに共同体に関する題材が非常に多かったということと関連しているんだと思うけど。

 それから、学生運動でも党派の分裂は余りなかった。関西ではブント(共産主義者同盟)は非常に強くて、大衆運動も、京都府学連も、同志社大学の学友会も、京都大学の同友会もまとまっていて、大衆的基盤を持った学生運動としてまだ存続してたんですよ。

 そういう状況の中で、最初僕は共同体指向に入り込んだということですね。

登紀子:それがワークキャンプよね。だけど、そのままワークキャンプの方にずーっと入り込んでいった先輩たちもいる中で、あなたはその後、政治運動の方に入っていったわけよね?

藤 本:そうそう。次第に政治指向になったんですね。それはやっぱり、こんなことをしていてらちあくのかという疑問があった。

登紀子:ローカルな場所場所でやっているだけじゃだめなんじゃないか、中央を動かさないとだめだという?

藤 本:中央を動かすというか、政治権力を獲得して、それで世の中を変えないとどうしようもないなと。それで僕の中で政治指向性が非常に強く出始めてきたところに、共産党の、ブント系の学友会執行部に対するリンチ事件が同志社で起こったんですよ。

 同志社では授業料値上げ反対闘争があったんですけど、そのとき共産党中央は中国派が強く、武闘路線も内在している時期で、組織を挙げて、京都地域全域に対する攻勢を強めていた。京都府知事・蜷川虎三さんを落とすなと。六三年、四年というのはその節目なんですよ。

 学生運動分野では、京大、立命館、同志社というのは京都の大きな三つの大学ですから、当時同志社が一番落としづらかったこともあって、同志社には相当組織動員をかけてきたの。高校生の民主青年同盟の同盟員を、新入生から送り込んでくるというような形をとりますからね。それは政治党派としては当然なんです。数年前から準備して、かなりの人間が僕らの同期でも入ってきていた。

 それであのときは、授業料値上げ反対運動で泊まり込んでいたブント系の活動家が襲われリンチを受けて、臨時の学生大会も開かれて、これが学内では大問題になった。

 僕はそのときに実は新聞学研究会では一応会長に立候補していて、結構アクティブだったんですね。そのリンチ事件が起こった後の新学期の春の役員交代で、二年生で会長になった。あの当時の言葉で言えば、三年、四年生がちょっと“消耗”していて、それで会長になって、新聞学研究会の活動をどうしようかとか考えていたときに、藤本、おまえ自治委員に立候補しろよと四月に言われて、あれこれ悩んだんですが、自治会に出てみようと決心した。それで共産党と決戦投票までやって当選した。当時、文学部の自治委員の多数派は共産党にとられていて、僕なんか少数派ですよ、いじめられてね。向こうはプロだから、党員歴何年という人が入ってきている。三十代ぐらいの活動家が学生で来てるんですよ。

登紀子:すごいねえ。私も決戦投票の相手は共産党の人だったけど(笑)。

藤 本:僕が六四年に決戦投票で当選した当時、文学部自治会は共産党に多数派を形成されていたけれど、全学学友会はブントがとっていたんですよ。僕は全学学友会に上がって、そこの副委員長になり、来年は共産党から奪権するというんで、いろいろやった。僕は案外、戦略戦術を組み立ててやっていくのが好きだし、得意なんですよ。一年間の行動計画をつくって、次の年は現実的に共産党から取り返した。体育会かなんか抱き込んだりしてね。選挙の神様と言われたんですよ(笑)。

登紀子:黄色いシャツかなんか着たりして、イメージ選挙の真似ごとしてたんでしょ。


学生運動の大きなうねりの中で

藤 本:大きな政治課題では、一九六四年にアメリカの原子力潜水艦シードラゴン号が初めて日本に来て反対の声がわきあがった。

登紀子:佐世保ですね。

藤 本:僕はそのときに京都府学連の佐世保現地闘争の責任者で、二百人ぐらい連れて、西海・雲仙号に乗って佐世保へ行ったわけ。初めて大衆的政治闘争というか、そういう運動の指揮を本格的にして、それから、京都府学連の書記長を二期やりまして、日韓会談も京都でやったということですね。

登紀子:佐世保は一九六八年もあったわね。私の卒業した年なのよ。

藤 本:それはエンタープライズね。アメリカの原子力空母エンタープライズ寄港反対闘争は六八年の一月。

登紀子:私は卒業試験に最後の勝負をかけていたときで、コンサート活動もしながら大学の卒業試験を受けていたのが、反エンタープライズ闘争の時期なんだけど。

藤 本:そのころになると、それまでの東大学内の学費闘争などが一つのきっかけで学内を盛り上げつつ、佐世保のころから少しずつ政治的な課題とも結びついてきていた。対米という意識もあるし、原子力潜水艦の日本立ちよりは戦争か平和かという大きな議論も喚起した。六〇年安保闘争で国民的に問われた課題がもう一回あの時期に来たのね。今まではほんとに一部の人の意識の中にあったことが、一気に大衆的な人気を得たということですよ。

 これは今から分析すれば非常におもしろいんですけれども、六〇年の安保でいわば旧来型の政治運動というものが大きく挫折したことは事実なんですよ。だからこそ学生運動は分裂した。その後、六七年までの大管法とか憲法公聴会とかいうものは、もう本当に谷間の活動家だけが必死にやっているわけさ。

登紀子:その時期の中に私はいたのね。

藤 本:そうそう。新しい政治の質みたいなものを考え、つくり出していかないといけないにもかかわらず、なかなかそれが成熟してこない。したがって、手法は明らかに旧来型の政治運動でやっているわけだ。これじゃいけないと、みんな心の中ではわかっているわけよ。学友諸君は見向きもしてくれないし、このままじゃどうするんだというような思いでずーっといってるわけね。

 今だからこそ言えるんだけども、僕は反対に、その絶望的な時代がもう少し続けばよかったのかもしれないという気持ちもあるんです。六五年の日韓会談反対から、六六年からのベトナム反戦闘争へと次第に盛り上がっていったけど、まだ新しい政治運動の質というものは成熟はしてないんですよ。

 にもかかわらず、運動が盛り上がってしまったんですね。

登紀子:首相の佐藤栄作さんがベトナムに行くのを阻止するために、羽田で学生が機動隊とぶつかり京大の山崎君が死亡するというショッキングなこともありましたね。

藤 本:一九六七年十月八日、これが一大エポックになった。

 佐藤栄作の羽田阻止闘争では、機動隊は羽田空港の内張り警備に徹していたので、学生がどんどん進んで行くわけね、そこまでは阻止されないから。それで三つの橋に集中しちゃって、弁天橋というところで京大の山崎という中核派の学生が死んだんですよ。

 かなり激しい闘争で、そのときに初めて、それまで内ゲバで用いていたゲバ棒が外の街頭行動で使われた。

 そのぶつかりあいの中で、だれか死んだらしい。機動隊か学生かどっちだ? で、学生が死んだって聞いた時、内心、やったっていう気分があった。それはやっぱり、政治というものの持っているすごさですよ。

登紀子:恐ろしいよね。

藤 本:反対に機動隊が死んだら、盛り上がらないわけさ。しかし、学生が死ぬことによって、世間の人々の関心が急速に高まって、学生に対する同情が生まれた。

登紀子:メディアも写真入りで大々的に報道したよね。

藤 本:そうね、あれはびっくりしたよね。それが大きなエポックになったことは事実です。

 あのころには日本も高度成長で戦後復興してきて、生活もかなりよくなっていた。その中でアメリカに対する意識が旧来とは違ってきていた。それまでは戦後の時期にアメリカは救世主で、いろんなことを援助してもらった。それが今度は対等にしていきたいという雰囲気が出てきて、その意味では、反米というイメージが人々の心の中に熟成されてきていたわけですよ。そうしたことが、戦前の人たちの戦争体験、それに、戦後すぐの左翼及び中間派の持っていた反米感と見事にリンケージしながら、ベトナム反戦運動を底辺で盛り上げたんだと思う。だから福岡の駅前なんかでカンパしたときも、五千円札とか、どんどんカンパがたまって、一日でものすごい額になった。考えられない話ですけど、近所のおばさんたちがお握りとかみそ汁つくって持ってきてくれるしね。みんな、お国のためにアメリカと戦って死んでいった息子を持つ世代の人で、あんた方学生さんは今そのアメリカに対して一生懸命対応してくれているみたいな意識があったんですね。僕らの政治闘争の路線に賛成しているわけでも何でもないんですよ。でも、そうした底辺の盛り上がりは非常に大きかったですよ。

 それで十月二十一日の国際反戦闘争、これがまた盛り上がりましたね。そして十一月十二日、佐藤栄作がベトナム問題の協議でアメリカに行くのを阻止する第二次羽田闘争、これも全国動員をかけたんですね。

登紀子:結局、そのころ日本の基地からベトナム戦争に米軍機がほとんど行っていたわけでしょ。

藤 本:うん、沖縄からかなり対応していた、当たり前の話なんですが。

 そういうことで、新しい政治的な質がまだ萌芽的な段階で、大衆的次元における関心が盛り上がった。しかし、中心にいる活動家たちは、今思うと、半分どっか違うという意識をみんな持っていた、決して新しい質の政治運動になっていないという意味で。しかし、余りにも戦術が華々しかったから、それで走ったんですよ。ひょっとしたら、政治権力が変わるかもしれないし、何か起こるかもしれないという期待がやっぱりあった。

登紀子:私の中では六〇年安保のときに、東大の女子学生樺美智子さんが死んだでしょ。それがすごく大きな出来事で、私はまだ高校生でしたけど、その年の夏に東大でその総括会議というのがあって、行ったのよ。六〇年安保についての反省会で、そのときに、六月十八日に国会に突入していれば、自分たちが権力をとって革命が起こり、日本は新しい国になっていたはずだという激論が闘わされているわけ。私は高校生だったんだけど、その一室の片隅にいて、権力をとる、国を変える……この人たちが言っていることは本当だろうかという疑問があったわけよ。つまり、いくら大衆的に盛り上がり動いたとはいっても、ある一つのダイナミズムだけで国が変われるのかという疑問があったので、藤本さんたちが六七年、六八年ごろにも同じように市民たちの共感を得て、デモや市街闘争をくり広げているときにも、このまま、どうやったら何ができるのだろうということを考えていたの。

藤 本:うん、それはわかります。その後しばらくたって、今から十年ほど前から、「六八年組」という言葉がヨーロッパから出てきている、特にフランスから。当時は、六八年を一つのメルクマールにして、全世界的に運動が広範に起こったんですね。政治運動の波というよりは、もっと大きな、いわゆる文明批判というか、医療問題や科学技術に対する不信感など、あらゆる領域で起こってきた。学生運動が戦術行動では先端を走っていたから、学生運動だけが脚光を浴びたんだけれども、一連の文明に対する見直しだったと僕は思うんです。その意味の方が極めて大事で、それが今日にいたるまで、いろんな領域でずーっと成熟してきているはずなんですよ。そこにやっぱり注目をしたいなと。そういう意味で、もういっぺんあの当時をとらえ直す必要があるだろうという気持ちは非常に強い。

登紀子:それは一番重要なテーマで、ちょうどフランスに行ったときに、たまたま、68と89をひっくり返すとその年になることから、八九年のベルリンの壁の崩壊と六八年はリンクしているんだという話をしていたことがあった。ソ連、アメリカという対立構造じゃなくて、もっと違った意味での新しい時代が六八年から始まっていると感じていた人が、今現在どうしていて、これから何をしようとしているのかということが大事なんだけどね。

 あなたが六八年の十一月から半年間、シャバにいなかった間にいろいろ学生運動に変化があった。それから、七二年の、運動が崩壊していくまで。もっと多様なライフスタイルや新しいモラルをつくり出す方向に日本の社会を変えるかもしれなかったのに、その時期に崩れたでしょ。どうしてそうなったんだろう?

藤 本:それは非常にはっきりしている。つまり、新しい政治運動の質を構築できなくて、旧来の手法で引っ張ったからですね。人々は最初、心の内面で成熟していた新しい文明に対する思いとか、新しい生き方に対する思いとかを、学生の戦闘力で何か切り開いていけるかもしれないという幻想を持っていたので、一時期非常に盛り上がったわけだけど、やがて、あ、こいつらのやっていることじゃ無理だとわかったんだと思うんです。しかし、学生運動を先端でやっていた政治党派の連中は、僕も含めて、まだいける、これを一点突破すれば何とかなるに違いないみたいな思いで走っているわけですから、だんだん乖離していったんですね。

 学生運動はそのようにして終そくしていったわけですが、僕にとってラッキーだったのは、さっき話したように、大学一年のときに共同体運動をやっていたからなんです。大学一年のときに山岸会へ行って特講を受けたり、当時から環境問題に対して非常に興味があった。しかしあの当時、環境問題なんていうと、党派の連中にはひどい批判を受けましたよ。

登紀子:今でも覚えているわ。六九年の七月に、あなたが平戸に行ったときがあったじゃない、学生運動から離れて。あれはすごく大きな変わり目だったよね。あの後でしょ、あなたが「地球に土下座をするところから始めよう」って言ったの。

藤 本:そうですね。

登紀子:その一文を印刷して、環境問題に軸足を置くんだということを六九年に文章にして回したときには、もう総スカンだったよね。“藤本、裏切り者”みたいな感じ。

藤 本:あの当時、蔑視する表現で“グリーン派”と言ったんですよ。緑派というのは蔑視の言葉です。あのときは赤が一番だった(笑)。

 でも僕にとっては、共同体運動をしたりした経験があったから、その後の、刑務所の中でもそれの軸の中でいろいろなことを考えられたことは非常にラッキーなことでした。


二人の出会いと出発

登紀子:あなたとはじめて逢ったのは、六八年の三月だった。ものすごく学生運動が盛り上がっている時期、東大の卒業式も学生が阻止した。その中に私もいたわけよね。ものすごい盛り上がりで、その春の入学試験もできなかった。

 あなたが訪ねてきて、学生がこんなに盛り上がっているんだから、来て歌ったらどうですかというような話だったね。私はそのとき東大の学生で、今で言うならば、広末涼子さんとは言わないけれども、有名な大学生ではあったわけ。その有名な大学生が卒業式をむかえるということで、女性週刊誌などからも、振りそでを着るんですか?とかインタビューされていた。

 そうしたら学生たちが突然、その卒業式をボイコットするということで、デモが安田講堂前を埋め尽くすというような状況になったの。私は当時もう歌手活動をしていて学生運動とは縁がなかったけれども、少なくとも振りそでを着ていくわけにはいかない、私はデモの中に参加しますということで、それがきっかけだったよね。

 でも、私はやってきたあなたに、もう大人なんだから、私なんかを利用するのはやめてくださいと断ったんです。

 そのときのあなたの印象は暗い人だなっていうこと(笑)。この男の暗さは何だろうと、そういう意味では気になったということはあるよね。

藤 本:何か諦観みたいなのがあるんですね、達観しているというか。どうかなぁなんて思いながら、しかしともかく、やっていけば何かが見えてくるかもしれないみたいな思いだったから。

登紀子:ところで、あなたから見た私の印象は?

藤 本:えらい大人の女性がいるなっていう感じでしたよ。

登紀子:あ、そう。へーえ。可愛いとかそういうんじゃないの?(笑)

藤 本:先輩っていう感じでした。

登紀子:歌なんか利用するなんてことやめなさいって先輩にしっかり言われた、そういう感じだったんだ。

藤 本:そうそう。

登紀子:だから、その日は政治論争は何にもなかったの。そのとおりです、じゃ、もうあきらめましょうと。で、せっかく父親が経営していたロシア料理店「スンガリー」で会ってたから、そんな話はいいじゃないの、飲んで大騒ぎしようということになって、朝まで飲んで騒いで、じゃあねっていうことで終わるはずだったんですけどね(笑)。

 あの年はあなたは忙しかったね。結局一年のうちに三回くらい拘置所に入ってたんだよね。

藤 本:六月と八月に一カ月ずつ、そして十一月から翌年の六月までね。

登紀子:それが七カ月でしょ。合計九カ月。シャバにいるときにときどき会うっていうか、そんな関係だったわね。

藤 本:そう、僕は六九年、七月に学生運動からは離れて、七〇年は日本キューバ文化交流研究所の事務局長をやって、それから、八王子の「無想庵」という陶房に行ってしばらく陶芸三昧していたんですよね。もう判決はおりたからというので、七二年の四月に下獄した。

登紀子:下獄前に「結婚しよう」って私から言ったのに、「三年も不在にする男がとてもそんなことをお願い出来ない」って言って私はふられちゃった。でもあなたがいなくなってから赤ちゃんが出来てることがわかって、思いきって私からまた決意の手紙を送ったというわけよね。あなたが刑務所から出てきたときには、長女の美亜子は一歳九カ月になっていた。

藤 本:僕は刑務所にいたとき、園芸等々、農業に類する仕事をしたんですよ。塀の外には出られなかったけれど、農業というものに対する興味と関心が深まった。それから、中にいると当然、大の男たちが何を食いたい、あれを食いたいとばかり言ってるわけですから、食べるということはすごいなと。食べ物によって、人間の体も性格もかなり変化するなと改めて気づいたりもした。

 農業に関係する仕事をしたいという気持ちはその前からもずっとあったので、八郎潟の開拓農業に行こうと思ったんですよ。結果的に、もう締め切っていて(笑)行かなくてよかったんだけど。

登紀子:当時、藤本敏夫にとっては私がシャバにいる唯一の諜報部員だったから、私一人が演奏旅行の傍ら八郎潟を観察に行ったりしていた。いろいろ報告して、地図を差し入れたりしたよね。

藤 本:農業はどうしても関係したかったんですよ。

 でも八郎潟はダメだったし、出所してしばらくは、茶わんのたたき売りみたいなこともやってました(笑)。瀬戸へ行って安い茶わんを仕入れてきて、長崎屋とかスーパーの前を借りて、そこで寅さんみたいなことをやってたんですよ(笑)。しかし、結果としてはあんまりうまくいかなくて、七六年に「大地を守る会」を立ち上げる。まだ珍しかった無農薬野菜、無添加食品の流通・販売組織を立ち上げようとした。お茶と卵とかの産直販売をやったのですが、全然売れませんでしたね。

登紀子:四年ぐらい大変だったよね。そのころまだ今のように、無農薬野菜の直販システムなど全然ないころで。五人で始めたんだよね。

 年末になると、配達が終わった後に私の手料理でうちで皆で忘年会をやったり。お金の算段も大変だった。それが七六年から八一年ぐらいまで?

藤 本:うん。それからずーっとそのラインの中で仕事をしてきたわけですよ。大学一年のときに若干体験もした共同体というものについて、もういっぺん大きな円環でまた戻ってきているわけです。政治運動の新しい質というものについて再考する一つのきっかけとして、もう一度共同体という問題に行き着いた。

 六〇年安保を指導した青木昌彦さん、六〇年安保ブントの副委員長をされた理論指導者ですが、彼が運動が終わった後、岩波から一冊の本を出していて、それを改めて読んだ。いわゆる資本主義の市場経済というものの持っている強さと限界性をどう解決するか――今日まさにそういう状況なんですけどね、グローバルに市場経済原理が貫徹していっていますから――そういう問題が生み出す矛盾、問題点を解決するのは、共同体に対する多くの人々の具体的な思いや実践が大事ということを書いていたんですよ。直接お目にかかったことはないけど、僕たちにとっては安保ブントの指導者ということだけは知ってますから、青木さんもこういうことを考えているんだなと。今僕が思考しているようなことは当たらずとも遠からずだろうなという思いがますます強まったわけです。

 日本の農業は、旧来、市場経済からはブロックして、保護しながら補助行政でやっていたけども、これはなかなか大変。しかし、もう一つ、最近の「定年帰農」という言葉にもあるように、人々の農業とか、食べ物への関心は非常に強まっています。都会から参入したいという人は極めて多くなっている。しかし、必要なのは、生活としての農といいますか、農的な生活のあり方を考え実践をすれば、健康や環境や生命教育の問題の解決策がそこに見えてくるだろうということを思い、それを何とか具体化しようということで、房総の鴨川なんかに行かしてもらっているということなんですけどね。

登紀子:そうやって、一大決心して貯金をおろして都会からたくさんの人が農業を目指して入っていくんだけれど、失敗する人も多いらしいわね。

藤 本:そうそう、当然失敗するのね。

 今僕は、鴨川では地元のお百姓さんと農事組合法人をつくって――何でも代表になるのが好きな性格ですから(笑)、代表理事として多目的農業というのを追求しようとしているわけです。農業というのは、生産する、販売するということだけじゃない。生産現場が子供たちの生命教育の現場にもなるし、健康空間にもなるし、新しい滞在型リゾート基地にもなるという意味で、多目的に農業の現場を利用しようとすることを「多目的農業」と表現しているわけですけど、それを実践するための組合なんですよ。

 学生運動の僕らの仲間でも、農村現場へ入ったやつが多いんですよ。有機農業研究会なんかに参画している連中の一割は絶対に学生運動経験者ですよ。そして、失敗したやつもいっぱいいる。それはまなじりを決して入っているからですね。全部をそこに投入しているわけさ、経験と金と人間を。しかし、やっぱり農業の生産現場はそんななまはんかなものじゃないんです。だって、そこでだめだから都会に出てきている人もたくさんいるわけで、反対に技術も何にもないのにまた入っていこうというんですから。金も何もかもつぎ込んでいると、失敗したら引き返しがきかない。こういう形の入り方はやっぱり大変苦しいなと。だから、ちょっと様子を見たらどうですかと、楽しみながら。

登紀子:ときどき農村とおつき合いをしながら、徐々にフェードインしていく方法。

藤 本:そうそう。つまり、ここに価値判断を最初に挟まない。今までの政治運動も全部そうだったんですけど、農村に入って一生懸命百姓仕事をしているのが一番偉い。時たま行っているやつはその次に偉い。東京で食ってだけいるやつは一番悪いと、こうなってまして、ここに価値判断の序列ができている。人間を判断しちゃっているんですよ。これは大体よくない。

 その人の可能性に応じて選択肢はいくつもあるんです。ときたま行って楽しむのもいいし、半定住するのもいいし、定住しちゃうのももちろんいい。そして地元もそのことによって楽しく、若干の金になって生きていけるようにするべきだろうということで、これは農村では「農業の生活化」と言っているわけです。

登紀子:ただし農村に入って軸足をそっちに置くためには、主婦の力が必要だと、この間あなたも発言していたわね。確かに、向こうに行くと、農事組合法人の寄り合いに出てくる男たちは、家で全部奥さんがそのあとを賄っていますよ、牛のえさをやったりとか。男たちはすぐそうやって、新しい時代をつくるぞということで動き出すけれど、そうなると毎日牛のえさをやるとかいう日常をだれかに押しつけた状態でないとできないというような構造が今まだあるわけなのよ。

 ただ、私が見ていた限りでは、奥さんたちは日増しにきれいになるよね。生き生きしているもんね。そういう意味では、やっぱり農村の中にいろんな空気が入って、奥さんも対等になってきている。

藤 本:僕は株式会社ネフコという会社の経営もさしてもらっています。今は小さな規模で、そんなにもうかりませんけど、多少安定はしているんです。納豆とか、今、中断してますが、春からまたやり始めるヨーグルトなど、これはと思ったものを商品化して、会員制度を中心にして販売しています。

登紀子:昔は地ビールなんかもやったんだよね、地ビールが解禁になる前に。解禁になったときにはもうやってないわけよ(笑)。何でもちょっと早くて。ブームになる前に大体そこを卒業しているから、いつも実入りが悪いのよね(笑)。

藤 本:そうそう、ほんとだ。帯広の「自然王国」をやっている平林という男がいますが、彼はそれを事業化して帯広ビールという会社をつくって、ビールをつくってますよ。

 僕は今やっているのは納豆とかヨーグルトぐらいですけど、あとは「自然王国」というブランドを育ててきましたから、ときどきはコンビニにも、ジュースとか紅茶とか売ってもらったりしていますけどね。


歌手 加藤登紀子。妻 加藤登紀子

登紀子:それではここで、妻加藤登紀子の歌について一言。

藤 本:僕は専門家じゃないから、専門的な評価は言えないけど、素人が聞いて非常にいいと思いますよ(笑)。それに、非常にすばらしいタレントだと思います。

 それはどういうことなのかというと、時代背景というものがあなたの歌の中には浮かび出てくるんですね。言葉を直接論理的に表現するというわけではないけれども、時間の流れというものを人々に対してちゃんと感じさせる。そういう意味では、加藤登紀子という人の持っている能力、表現力については非常に感嘆し、かつ尊敬を申し上げているということに尽きますね。それに専門的にはどうかよくわからないけど、低めの声の質がちょうど心地いいところできているんじゃないかなと思う。

 団塊の世代からちょっと前の年代にとっては、先ほどの六八年組じゃないけど、六〇年代のことをどうしても想定する。そことの関係において今というものを見詰めるので、何か自分のことを身につまされるというようなことがあるんじゃないかなあ。

登紀子:私は、いつも、その後の世代への思いで歌っている気がする。

 次の質問は、私のいい面とよくない面ですって。

藤 本:いい面はやっぱり、コンサート活動などでいつもいないことですよ。

登紀子:いい面ですか?(笑)

藤 本:いつもいると、僕にとってはかなりきついかなと思うんですね。存在感がそれなりにあるから、いると常に意識するということになるでしょうからね。

登紀子:あなたの方も東京から二時間半の鴨川で「自然王国」をやっているから、お互いいたりいなかったりの関係。ただ、さっきも言った、都会なのか農村なのか、どっちかを選ぶんじゃなくて、子供たちはどっちにも行けるという感じはすごくよかったと思う。

藤 本:それと、加藤登紀子さんが妻であるのは気楽ですよ。

 つまり、明らかに自立していらっしゃり、お金も、社会的な関係においても一つのステータスを持っているわけですから、僕がそのことに対して、こうしてあげないかんとか全然考えなくてもいいという意味では、僕自体が自由放任ができる、それは非常にいい面でしょうね。でも、あらゆることにはマイナス面も付随しますけどね(笑)。

 もう一つは、歌を歌っている人であること。芸術、芸能をなりわいとしていることが、僕にとってはつき合いやすい面というのは非常にあった。そういう仕事をする人は、感性というか、感ずるところに力点を置いた問題の立て方をする。もちろん論理的にもいろいろ考えていらっしゃるとは思うけれども、芸術とか芸能というのは多分、時代や状況が自分に問いかけるものを率直に時代そのものに返すという手法ですよ。論理は後からくっついていっているわけですから。またそうでないと、芸術とか歌なんか歌えないと思うんですよ。

 一つ、彼女の悪い面は、すぐ方針が変わること(笑)。これはもう、家族、プロダクション、周りの人間が全部迷惑しているわけですね(笑)。自分の思いでぱっぱっと変えていくから。しかし、これは気性ですからしようがないですよね。

登紀子:それは旅人の感覚なのよ。旅人と詩人には予定と論理を与えてはいけないの(笑)。

藤 本:旅人というか、芸術というものの持っている側面だと思いますよ。

 僕はむしろ論理的に行動する方ですから、その意味で、これが論理的にきちっと構築して行動する人間どうしのつき合いだったら、非常にかた苦しくて、一たん意見が相反すると、もう顔を見るのも嫌だとなるかもしれない。

 しかし、うちはそうじゃないんですね、極めていいかげんですから(笑)。きのうまで湯気立てて怒っていて、何だ、このやろうとかっていう形になっても、何時間後か翌日には、もう別にどうということないんですよ。

登紀子:今までにも何度も離婚論争があって、次の日に離婚届を出しに行こうかというところまでいったでしょ。その翌日、朝、起きたときに、どうしようかなあと思っているわけよ。でも、離婚という結論に達しているから、何となく胸の中がすっきりして、もやもやとしていたはずのものが、今日はない。そうすると、朝のみそ汁などもつくったりして、離婚話はそのままになってしまう。論理性はないんだけど、でも私の作戦があなたにとっては結果としてはよかったということよね。

藤 本:そういう意味で、加藤登紀子さんの持っているたぐいまれなきメンタリティーが、僕に対して非常にプラスに働いているということは断言できると思いますよ。

 僕は論理で動くから、頭の中で、結婚とか夫婦、夫、妻とかという言葉の持っている定義にこだわるわけ。妻とはこういうものだという僕なりの定義があるんですが、彼女は全くそういうことに当てはまらない。それはそうですよね、いないとか、歌を歌っているとかさ。彼女と結婚して、ああ、なるほど、夫と妻、あるいは一人の男と女はお互いの成熟というか、関係をつくっていく中で具体化されるもので、最初に言葉ありきじゃないなということは非常に思いましたね。こういう夫婦もあってもよろしいじゃないですかと。

 新しいものを生み出していくという意味では、余り制約がないというか、言葉の持っているものにとらわれがないことはいいことでしょうね。

登紀子:たまたま今日、雑誌の取材で子供をどういうふうに育ててきたかという話をしてきたばっかりなんだけど、私は自分の仕事をしながら子供のスケジュールも全部考えて、必死になって、三人の子供が朝昼晩ご飯は食べられているかどうかとか、保育園に朝、連れていってとか、迎えに行く人はどうなっているかとか、そういうことは私が全部やってきたという意識がどっかにあるわけ。

 だけども、冷静になって考えてみると、私は自分の勝手な性分があるから、自分のやっている行動に専念していて、自分が東京にいて、朝、保育園に連れていったりしているときの記憶が強いんだけど、じゃあ登紀子さんが東京にいないときはどうしているんですかって聞かれて、はたと考えた。自分がしていない時間のことはころっと忘れているわけね(笑)。だからもしかすると、藤本さんも私がいない時間に、おれは相当子育ても分担したぞという気持ちがあるのかなあって、ちょっと思うね。

藤 本:まあ、適当にさしてもらいましたよね。保育園に連れていったりなんだかんだで。

登紀子:まあ実際のところ、母がすごく手伝ってくれたわけですが、うちの事務所のスタッフが保育園へ迎えに行くわけにはいかないでしょう。一度、うちの姉の子供が保育園へ迎えに行ったら、子供が子供を迎えに来るのはだめですなんて言われたりして(笑)。

藤 本:今の話との絡みで言えば、僕は子供に対してはこうするべきだというのがやっぱりあるんですよ。子供が自分できちっとした判断ができない時期は、まず子供の話を聞いて、納得して何かするというやり方はできない。教育も、最も初期の段階ではかなり強制的なもので、こういうふうにするべしというものがあるだろうという思いがあった。その点、彼女は違うんですね。それがいいか悪いかは別ですけどね。

 僕のところの三人のお嬢さんたちは、多分、かなり自由に育ったんじゃないかな。母親はこうせいとかああせいとか、あんまり言わないですわね、そうですよね。

登紀子:お父さんが言ったのは、ご飯粒残しちゃだめだとかですね(笑)。私は何も言わなかったもんね。あなたは教育というのは形式だ、形でいいんだと言っていた。

 でも、鴨川があったから、田舎に行って犬の世話をしたり、ニワトリにえさをやったり、卵を取ってきたり。水で洗ったら卵が死んじゃうから、からぶきしなくちゃいけないとか、そうしたことが一番大きな教育的役割だったんじゃないかな。

 教育は母親だけがするものでもないし、学校の先生だけがするものでもないし、やっぱり毎日毎日、いろんなものを見たりして大きくなるわけだから。


夫と妻の心のかけ橋

登紀子:時々、取材でも聞かれることに、東京と鴨川を行ったり来たり、半別居の生活スタイルをとっていることについて、男と女の間ですから、独占とかジェラシーの問題はありませんか、というのがあるのよ。でも、うちは最初から別居だから(笑)。つまり最初の結婚生活は、二年間は彼が別荘つまり刑務所にいたでしょ。私は自由よ。でも、あなたは自由じゃなかった。そのときに不安だったかどうかということは聞いてみたかったけど。

藤 本:いや、当時のことはもうしようがないというあきらめが一つ、当然ありますよね。

 その後のことを言えば、僕なんかはどこで何しようがいいわけさ。しかし、加藤登紀子というのは知られちゃっている、つまり面が割れているわけね(笑)。これは大変でしょうね。浮気はできないよね。追っかけられたり、フォーカスされたりさ(笑)。

登紀子:それがそうでもないんだよね。顔を突き合わせて、ほっぺたくっつけてお酒飲んでたって、飲んでたわねって言われるぐらいで、何かあやしいことがあったのって言われたことないもん。

 逆に、ずっとあなたの方があやしいわけよね。だからそれをどう私が……。

藤 本:感知して、追い込むかというところまでやらにゃいかん(笑)。

登紀子:私は一回だけ言ったのよ。私はそういうことを心配したりしたくないから、気がつかないうちはいいと。だけど本当に別の人の方がいいなあと思ったときには無理に結婚生活を続けることはないんだから、それは早く言ってちょうだいねって。

藤 本:いいですねえ(笑)。

登紀子:ほんとに物わかりのいい奥さんですよ。

藤 本:でも、今はもう全然。

登紀子:今はね(笑)。でも一般的に言って、そういうことがもやもやしているうちっていうのは、やっぱり夫婦の間は安定しませんよね。やっぱり疑心暗鬼とか、もうやっていけないとか、いろいろあるでしょうね。

 それに、もっとすごい人が私の前にあらわれるんじゃないかしらという期待感だってあるよね。

藤 本:そのときはそのときよな。しようがないですよ。

登紀子:次の質問は、離婚も多い、最初からシングルを選ぶ人も多い中で、改めて結婚してよかったと思うことはあなたにとって何ですか?

藤 本:いや、世の中には結婚という人間関係のつくり方が厳然とずーっとあるわけですから、それを経験できたというのはいいですよね。

登紀子:自分の人生だけ考えれば、大したものでもないし、確たることがあるわけでもない。だけど、ずーっと先祖からの生き物連鎖の中にいて、自分の人生はどっかで終わっていくんだけど、やっぱり一つの木のようなものだなという感じが持てるというのは、自分の子供を持ったからかもしれないし、もしかしたら、あなたの仕事を通して農業とか自然の中にいる時間を呼吸できたからかもしれない。

 女というのは、時間が通り過ぎていくことにも価値があるっていう感じがするのよ。女の仕事ってそうしてなきゃやってられないところもあるじゃない? 毎日毎日ご飯をつくる家事なんていうのは全部消えていく時間だからね。でも、その結果、気がついてみたら子供が大きくなっていたわ、とかということなのよね。

 よく、お仕事だけでもたいへんなのにお子さんを三人おつくりになったのはどうしてですかと聞かれるのだけれど、最初に一人いて、私が仕事に出ていくから、余計に一人じゃさびしそうで、私は仕事にとても出ていけないわっていう感じがあったわけ。それであなたが出所してきた後に、大急ぎで次をつくろうと言ったんだけど、一回ちょっと失敗したのよね。私ってやっぱり欲張りなのかしらねえと思って、あきらめかけたんだけど、やがて次女が生まれた。

 一番大変だった、二人のときは。大変は大変だけど、家庭という車輪の方が重くなって、やっぱり家庭がしっかりするじゃない。それですごくいい調子に生活の形ができてきたときに、男の子が欲しいというあなたの希望もあって、もう一人つくろうと決めたの。

 でも、三番目ができたときには仕事に復帰したの一番早かったですよ。これで仕事に復帰しなかったら、もう完全に子供に全エネルギーを取られちゃうな、仕事が止まっちゃうと思った。

 そうは言っても、私、三十代に三人子供を産んでいるでしょ。その間はやっぱり、仕事をかなり減らしてた。

藤 本:それにもかかわらずこれだけの支持を得つづけたというのは偉いですよね。大変なことですよ。

登紀子:藤本さんは、今後政治的なご活動の予定はないんですか、と時々聞かれるけれど、その点は?

藤 本:政治というものについては、ライフスタイルや生活原理というところで新しい質をつくっていけるかが大事だと思っているから、直接政治活動に参画することはないでしょう。先ほどの話との絡みで言いますと、生活レベルに問題の重点を移しながら、何か新しいライフスタイルをつくっていきたいと思ったときに、運動したいとか仕事したいということじゃなくて、「暮らしたい」という気持ちが今強いですよ。生活をしていくこと自体が新しい運動だし、新しい政治の質をつくっていくんだろうという気持ちなんですね。

 農村で生活したいと思うと、女性の働き、主婦の力を再認識しますよ。女の人がいなかったら、農業現場はできない。鴨川の我が家でも、一緒に生活してきたおふくろももう年だし、ちょっと病気もしたし。この主婦の役割をどなたにやっていただこうかというのが今、大問題になっています(笑)。

登紀子:私もあなたも、全面的に手伝ってくれたそれぞれの母親の存在は大きいよね。

 日本では戦後、同居は嫌ですということで、みんな大家族から核家族にばらばらになっていこうとしたじゃない。それまでは、おばあちゃんが孫の面倒を見てという構図はあったわけよね。私たちも、たまたま親が七十、八十でも元気なわけだから、その世代の力をどうやって自分の生活の中に組み込んでいくかということは、これからすごく考えなきゃいけないテーマだと思う。もちろん、年寄り本人の生きがいと生活を第一に考えた上のことですけどね。

 その上で、家庭や子育て、親子とかに対してすごく自由な感性が生まれてこなきゃいけないと思うの。おまえ、結婚しなくても子供つくってこいよというぐらいに。それが日本の社会の新しい課題だなと思うんですよ。

 これから夫婦が両方働くのがますます当たり前になって、子供なんかつくってられないという女性も圧倒的に増えてきているようですけど、やっぱり、働く女性が望んだ子供をつくれる環境もちゃんとつくらなきゃいけないと思うわね。

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