スペイン黄金世紀の大衆演劇

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佐竹謙一 著

4,500円 A5 480頁 978-4-385-36058-X (品切)

16世紀から17世紀中葉にかけて、古来の厳格な作劇法を脱却して絢爛と花開いたスペイン・バロック演劇。その発展に貢献したロペ・デ・ベーガ、ティルソ・デ・モリーナ、カルデロンに焦点を絞って魅力に迫る。本書の出版は、1999年度スペイン教育文化省の「グラシアン基金」より助成を受けた。

2001年4月 20日発行


【目  次】
まえがき

序章 ロペ・デ・ベーガ以前の演劇

第一章 スペイン大衆演劇のはじまり

	(1) ルネサンス演劇からバロック演劇へ
		時代背景
		バロック演劇のテーマ
		ルネサンス演劇の特徴
		バロック演劇の特徴
	(2) 「コメディア」とは
		「コメディア」の意味
		幕形式
	(3) ロペ・デ・ベーガと「新しい演劇」
		三一致の法則から逸脱
		悲劇的要素と喜劇的要素
		劇構造および筋の展開
		詩的正義(フスティシア・ポエティカ)
		愛と名誉
		信仰
		役柄および言葉遣い
		表現形式

第二章 セルバンテスの演劇

	(1) 劇作家セルバンテスとロペ・デ・ベーガ
	(2) セルバンテスの技法

第三章 劇場と観客

	(1) マドリードの常設劇場(コラール)
		初期の劇場構造
		プリンシペ劇場
		クルス劇場
		上演の日時と形態
		入場料
	(2) 観客
	(3) 劇団と役者たち
	(4) 宮廷演劇
		旧王宮(アルカサル・ビエホ)
		ブエン・レティーロ宮

第四章 演劇論争

	(1) 文学論議
	(2) 道徳論議

第五章 ロペ・デ・ベーガ

	(1) 生涯
	(2) ロペの技法
	(3) 主な劇作品
		不当な権力と戦う農民を描いたドラマ
		国王が権力を乱用するドラマ
		名誉の悲劇
		宮廷を蔑み農村を賛美した作品
	(4) 『オルメードの騎士』
	(5) 『フエンテ・オベフーナ』
	(6) 喜劇
		《マントと剣》の喜劇(コメディア・デ・カパ・イ・エスパーダ)
		『愚かなお嬢様』

第六章 ティルソ・デ・モリーナ

	(1) 生涯
	(2) ティルソの技法
	(3) 主な劇作品
		歴史劇
		《マントと剣》の喜劇(または風俗劇)
	(4) 『不信心ゆえ地獄堕ち』
	(5) 『セビーリャの色事師と石の招客』

第七章 ペドロ・カルデロン・デ・ラ・バルカ

	(1) 生涯
	(2) カルデロンの技法
	(3) 主な劇作品
		宗教劇		農民の名誉を扱ったドラマ
		名誉と嫉妬の悲劇
		聖書を題材にしたドラマ
	(4) 『人生は夢』
	(5) 『驚異の魔術師』
	(6)《マントと剣》と喜劇にみる夜の効果 
		『淑女「ドゥエンデ」』
		『隠れ男と覆面女』
		『戸口の二つある家は不用心』

人名一覧/略号一覧

引用文献

あとがき

参考文献・略号一覧


 

【ま え が き】

 十六世紀後半になると、スペイン各地に劇場が建設され始め、演劇はめざましい発展を遂げるようになった。なかでも古来の厳格な作劇法に則って芝居を書いてきた劇作家たちにかわって、ロペ・デ・ルエダ、フアン・デ・ラ・クエバ、ロペ・デ・ベーガが大衆の好尚に見合った芝居づくりを始める頃から、これまで貴族の城館を中心に演じられてきた演劇が大衆の面前でも演じられるようになった。

 初期の劇場といえば四方を棟続きの建物に囲まれた中庭に舞台を設置し、上演するという非常に簡素なものであったが、時代とともに徐々に内部に手が加えられ、十七世紀後半ともなると劇場全体の構造がかなり複雑化していった。十六世紀末のマドリードには数軒の常設劇場(コラール)があったが、1579年にクルス劇場が、1582年(柿落としは1583年)にプリンシペ劇場が完成すると、やがてこれらは二大劇場として他を寄せつけない存在となった。劇場に足を運ぶ客層は王侯貴族、聖職者、学識者、郷士、兵士、商人、従僕、馬丁、女性客などさまざまで、客席もその人たちの身分に見合った造りになっていた。観客はそれぞれの身分や地位や経済力にふさわしい席に陣取り、芝居を存分に楽しんだ。とはいうものの、さまざまな階級の人々がそれぞの思惑を抱きながら、狭い芝居小屋にひしめき合っていたため、場内が想像を絶するほど騒然となることも度々あった。特に、平土間の立ち見席の客は、劇が気に入らないとなると舞台に物を投げ入れたり、役者に野次を飛ばすなどして、時には上演が中止になることすらあった。当時の劇場はスペイン社会の雛形といってもおかしくないほど、さまざまなタイプの人間が集まる一種の社交の場だったのである。

 劇作家たちはこうした観客の期待を裏切らないように、彼らの好みに合わせた出し物を舞台に掛けようと努めた。大衆の思いや感情を舞台に反映させようと、喜劇・悲劇・悲喜劇のジャンルにおかまいなく、観客がもっとも興味を抱きそうな話、すなわち愛、名誉意識、信仰のテーマを優先的にプロットのなかに採り入れた。さらに、歴史的事実を自由に歪曲し、自分たちと同時代の社会通念でそれを物語化するという風に、時代錯誤もお手のものであった。主人公が古代ギリシア・ローマの偉人や英雄であろうと、親近感をもたせるためには平気で当世風の衣裳を着用させ、同時代の因襲になずむよう仕組んだ。この時代の劇作家たちはこうした作劇上の常套手段を手をかえ品をかえ、何度もくり返し用いながら大衆の演劇熱を煽り、芝居を一大文化にまで発展させたのである。

 一方、演劇が徐々に大衆に浸透するにつれて、社会の風紀を乱すという理由から、何度か劇場令が布かれたり上演禁止の憂き目にあったりしたが、フェリペ三世(1598ー1621)、フェリペ四世(1621ー1665)の時代をとおして、政治・経済の衰退とは裏腹に、芝居は盛況を呈し、数多くの劇作家が輩出したのである。しかし、この芝居の人気もカルロス二世の時代(1665ー1700)になると下火となり、1681年のカルデロンの死を境にかつての勢いは失せ、それ以降これといった大作家もあらわれず、一部で細々と創作活動が続けられるにとどまった。

 本書は、スペイン黄金世紀の芝居すべてを網羅するものではないが、十六世紀最後の四半世紀から十七世紀中葉にかけて、闘牛とならんで当時一世を風靡した大衆演劇を展望していただく目的でまとめたものである。全体の構成を大きく二つに分け、一章から四章までは演劇事情にページを割き、五章から七章までは大衆演劇の普及に大いに貢献したロペ・デ・ベーガ、ティルソ・デ・モリーナ、カルデロンの作品に的を絞り、その魅力に迫ってみることにした。また同時に、こうした芝居の楽しみとあわせて、作品の端々に込められた苦言や忠告に、果たして人々を教え諭すという劇作家の意図が込められていたかどうか、という点にも注目することにした。なぜなら、一般的にスペイン演劇は楽しみを提供する要素にこと欠かないものの、教育的要素に欠けると言われるからである。だが、めぼしい作品を読んでみると、かならずしもそうとは言い切れないところがある。最初から教え諭すことを目的として創作された戯曲の数はさほど多くはないにしろ、ジャンルによっては登場人物の台詞の節々から教訓的な言葉や人生に有益な言葉が漏れてきたり、反面教師として観客に何かを訴えようとする気迫を感じさせる作品もなかには何篇かある。こうした点も含めて、本書がスペイン黄金世紀の大衆演劇をいろいろな角度から展望してもらえるきっかけとなれば幸いである。


 

序章 ロペ・デ・ベーガ以前の演劇

 一般的にスペイン黄金世紀(シグロ・デ・オーロ)といえば、小説家セルバンテス、画家エル・グレコやベラスケスなどが活躍した時代をさすが、歴史と文芸ではその定義が多少異なり、研究者のあいだではいまだ意見の一致を見ていない。歴史的な見方をすると、スペインの国情を考えた場合にベナサールが示唆するように、黄金世紀の始まりをカルロス一世が即位した1516年、もしくは彼が神聖ローマ皇帝に選出された1519年、あるいは政治的に国家が安定し始める1525年とし、その終焉をオランダの独立を承認した1648年とするのが一般的な見方ではないかと思われる。一方、文芸の視点からみると、その範囲はもっと広くなる。説教師として有名なバルタサール・グラシアンの死が1658年、画家ディエゴ・デ・ベラスケスの死が1660年、同じく画家フランシスコ・デ・スルバランの死が1664年、劇作家ペドロ・カルデロン・デ・ラ・バルカの死が1681年、そして最後に画家バルトロメ・エステバン・ムリーリョの死が1682年という具合に、この時代の文芸の発展に貢献した偉大な作家や芸術家たちの活動範囲が世紀の後半にまで広がっていることもあって、今のところフェルナンド・デ・ローハスの『ラ・セレスティーナ』が出版された一四九九年からムリーリョが亡くなる1682年まで、あるいはもう少し広義に解釈するとして、十六・十七世紀全体とするのが通例である。

 本書では、文芸の視点にもとづいた上記の範囲よりもいくぶん時期を狭め、ロペ・デ・ベーガの芝居が徐々に大衆に認められるようになる十六世紀末あたりから、演劇が人々の娯楽の中心となる十七世紀中頃までをおおよその守備範囲として黄金世紀の大衆演劇を考えていくことにする。しかしその前に、大衆演劇がどのようにして人々に受け入れられるようになったかという経緯を簡単に見ておくことにしよう。

 十六世紀初頭のスペインではまだどの都市にも劇場というものは存在せず、演劇を生業とする人たちもまだあらわれなかった。上演されるとすれば、個人的に宮廷または貴族の城館で演じられる芝居か、教会の内部またはその周辺、または祝祭日に公共の広場で演じられる宗教劇にかぎられていた。

 十六世紀の宗教劇のなかでもっとも重要なものといえば、マドリードの国立図書館所蔵の『古き聖史劇(アウト)の写本』であり、これはレオ・ルワネによっ1901年に刊行された。これらの聖史劇は1550年から73年にかけて書かれたもので、数篇をのぞけば作者不詳である。全体が96篇からなる一幕物の作品集であるが、十六世紀末から各地で盛んに上演されることになる聖体劇(アウト・サクラメンタール)とはまた様式が異なる。各作品には前口上(ロア)や筋書(アルグメント)がついているところをみると、どうやら大衆の面前で演じるために書かれたものらしい。なかには全体が二つに分かれ、そのあいだに幕間劇(エントレメス)が挿入されている作品もある。テーマはさまざまで、キリストの降誕、受難、復活、聖母マリアのエピソード、聖人たちの生涯などを中心に、大半が旧約聖書・新約聖書の物語や聖体の秘跡と関連したものとなっている。これらの聖史劇はのちに聖人劇(コメディア・デ・サントス)および聖体劇へと発展していくことになる。作品によっては、のちの大衆演劇にあらわれる道化(グラシオーソ)に匹敵するような、「ボボ」または「シンプレ」とよばれる剽軽者が登場し、各場面に滑稽味をそえる。

 そのほか大学や神学校の校内でも、学生たちによりラテン語や雄弁術の習得を目的とした劇が盛んに演じられた。アルカラ、サラマンカ、バレンシアの各大学では、キリストの降誕祭、謝肉祭、復活祭、聖体の祝日(コルプス・クリスティ)などになると、ラテン語を流暢に話すプログラムの一環としてだけでなく、キリスト教の教義を強化する意味においても、演劇が有効な手段として導入された。十六世紀前半には大学で上演される芝居の脚本として、ローマの劇作家、プラウトゥスやテレンティウスなどがラテン語で書いたテクストが使用されていた。しかし、時代とともに徐々にスペイン語の台本にとってかわるようになった。

 イエズス会の経営する各地の神学校でも同様に劇が上演された。退屈な教義や説教を動きのある生き生きとした対話形式のものに置きかえるのが目的であった。上演する側も観劇する側も神学生であったが、劇を書くのは神父たちであった。彼らは学識才幹ともに優れた人たちで、聖・俗を問わず傑作を書き綴った。特に、ペドロ・パブロ・デ・アセベード神父、フアン・ボニファシオ神父などが有名である。

 またこの頃になると、カトリック両王時代の劇作家と呼ばれるフアン・デル・エンシーナ(1468?ー1529?)、ルカス・フェルナンデス(1474ー1542)、ジル・ビセンテ(1453?ー1536?)といった人たちが活躍し始めるようになった。しかし、いつどこでどんな状況下で彼らの作品が上演されたかについては、ほとんどわかっていない。宗教劇に関していうと、おそらく慣例となっていた儀式の際に、教会か寺院の敷地にて上演されたであろうとの推察はつくが、世俗の演劇に関してはそれすら困難な状況にある。大概、自分たちが仕えていた主人の城館にて、入場料を支払わない宮廷貴族を対象に上演されたのではないかと考えられる。というのも、城主の身分と階級を正当化しその権勢に媚びることによって、彼らの保護を受けていたからである。

 ルネサンス演劇の祖とよばれるエンシーナは、写実主義的手法によりスペイン演劇を教会から解放し、大衆へと近づけた人である。サラマンカでは宮廷詩人・音楽の師としてアルバ公爵家に仕え、ローマではアルボレア枢機卿やアレキサンデル六世の寵愛を集めた。十六世紀前半の劇作家たちに多大な影響を与えたとされる彼の『カンシオネーロ』Cancionero(サラマンカ、1496)には、全詩集と八篇の歌や踊りをふくむ陽気な牧人劇(エグロガ)が収録されている。八篇のうち三篇は、キリストの降誕、受難、復活をテーマにしたもので、中世から受け継がれた伝統的な典礼用としての劇であり、残りは非宗教的テーマを扱った作品である。『カンシオネーロ』は1516年までに七版を重ね、1507年と1509年の版ではさらに数篇がつけ加えられた。このなかには彼がイタリアで学んだ技巧が採り入れられ、筋展開をより重視したとみられる作品が何篇か含まれている。また、さほどイタリアの影響がみられない劇として、『クリスティーノとフェベアの牧人劇』Egloga de Cristino y Febea や、黄金世紀最初の悲劇と考えられ、実らぬ恋ゆえに主人公が自殺する『フィレノとサンバルドとカルドニオの牧人劇』Egloga de Fileno, Zambardo y Cardonio、そして女主人公が失恋したと勘違いし自殺するが、最後の場面で女神の介入があり、生き返ってハッピーエンドを迎えるという『プラシダとビクトリアーノの牧人劇』Egloga de Pl*A@cida y Victoriano などがある。これらの短い牧人劇はいずれも個人的娯楽として公爵の城館で上演されるか、あるいは教会関係者用に書かれたものであり、エンシーナみずからが演じている。

 エンシーナの弟子であり、ライバルでもあったルカス・フェルナンデスは、『笑劇と牧人劇』Farsas y eglogas(サラマンカ、1514)という劇作集を残している。ここに収録されているのは、世俗劇三篇、宗教劇三篇、それにふたりの牧人が愛について語り合う対話が一篇である。フェルナンデスは一時期ポルトガルに滞在したようだが、人生の大半をサラマンカで過ごし、特に1522年から亡くなるまではサラマンカ大学の音楽の教授職に就いていた。そのため、エンシーナのように文芸を保護してくれる貴族はいなかった。なお、牧人劇のほうはキリスト降誕祭や復活祭などに教会で演じられたものと思われる。

 金銀細工師であり、劇作家、役者、演出家でもあったジル・ビセンテは、世俗劇・宗教劇を問わず広い範囲で多くの劇作品を書いた人である。四八篇のうち20篇をポルトガル語で、12篇をスペイン語で、残りを両方の言語で書いた。彼の作品を大別すると、聖史劇、喜劇、悲喜劇、笑劇の四つに分類される。一番数の多い聖史劇のなかでも、神話や聖書のモティーフ、それにキリスト教と異教の要素が混ざりあう『巫女カサンドラの聖史劇』Auto da sibila Casandra、『東方の三博士の聖史劇』Auto dos Reis Magos、『聖マルティンの聖史劇』Auto de S. Martinho などが有名である。いずれも祝祭日に上演された可能性が高い。しかし、ビセンテの傑作はなんといっても『船の三部作』Trilogia das barcas とよばれる、『地獄の船』Auto da barca do inferno(1517)、『煉獄の船』Auto da barca do purgatorio(1518)、『天国の船』Auto da barca da gl*O@ria(1519)------最初の二作はポルトガル語、あとの一作はスペイン語------である。これは罪深い生き方をした者は死後にそれなりの船に乗せられるというもので、中世の「死の舞踏」を彷彿させるが、高貴な魂がキリストに慈悲を乞えば、キリストが姿をあらわしお赦しになるという筋書きである。そのほか、結末にいたって身分の高い恋人同士が結ばれることになる喜劇『ドン・ドゥアルドス』Don Duardos や、『独身男の喜劇』C*O@media do vi*U@vo などがある。総じて、ビセンテの初期の劇作品はエンシーナの影響を少なからず受けているが、のちに筋立てや人物描写の面で独自の文体を確立することになる。

 バルトロメ・デ・トーレス・ナアーロ(1485?ー1520?)は人生の大半をローマとナポリで過ごし、作品も当地で書いていることから、客層も当然のことながらエンシーナの場合とは異なってくる。代表的な作品集には『プロパリャディア』Propalladia(1517)があり、このなかには『セラフィーナ』Seraphina、『ソルダデスカ』Soldadesca、『トロフェア』Trophea、『ハシンタ』Jacinta、『ティネリャリア』Tinellaria、『イメネア』Ymenea といった傑作が収められている。殊に『イメネア』には、のちの《マントと剣》の喜劇(コメディア・デ・カパ・イ・エスパーダ)を予測させるような筋運びが見受けられる。

 1570年から1590年にかけて、ミゲル・デ・セルバンテス(1547ー1616)、クリストバル・デ・ビルエス(1550?ー1609?)、ヘロニモ・ベルムーデス(1530?ー1599)、ルペルシオ・レオナルド・デ・アルヘンソーラ(1559ー1613)などによる古典派演劇の復活が叫ばれるが、同時期に大衆の人気を博しはじめた「新しい演劇」をまえにしては太刀打ちできず、降参せざるをえなかったようである。

 長篇小説『ドン・キホーテ』Don Quijote de la Mancha の作者として有名なセルバンテスも、演劇となると小説ほど問題にされることはなかった。詳しくは章を改めて論ずることにするが、彼はアルジェでの捕虜生活(1575ー80)を終えて本国にもどったあと、本格的に劇の創作にとりかかったらしく、本人によれば数十篇の戯曲を書き、実際にそれらを舞台に掛けたというのである。しかし現存する作品は、『ラ・ヌマンシア』La Numancia、『アルジェの捕虜生活』El trato de Argel、それに『新作コメディア八篇と幕間劇八篇』Ocho comedias y ocho entremeses nuevos 所収の作品群だけで、あとは紛失したのか現存しない。

 ドミニコ会士ヘロニモ・ベルムーデスは、ポルトガル人アントニオ・フェレイラ(1528ー1569)の書いた五幕物の悲劇『カストロへ』A Castro から換骨奪胎した、同じく五幕物の『嘆きのニーセ』Nise lastimosa を、またその後同じく五幕物の続篇『勝利のニーセ』Nise laureada を書いた。いずれも一部の教養ある客層を対象に書かれたものである。

 クリストバル・デ・ビルエスは、セネカの影響を受けて五篇の悲劇を書いた。『偉大なるセミラミス』La gran Sem*I@ramis、『残酷なカサンドラ』La cruel Casandra、『狂えるアティーラ』Atila furioso、ルドヴィーコ・アリオスト(1474ー1533)の『狂えるオルランド』Orlando Furioso からヒントをえた『不幸なマルセラ』La infelice Marcela は三幕構成で、ここでは古典の最良の演劇様式と当代の技法をともに用いることを心がけている。『エリサ・ディド』Elisa Dido も五幕構成ではないが、ギリシア・ローマの作劇法にもとづいて書かれたもっとも古典的な悲劇である。五作品とも勇壮で、道徳的要素に富んでいるが、やはりここでも観客の対象は一部の学識ある人々が中心であった。

 アルヘンソーラはセネカ風の悲劇『フィリス』Filis、『アレハンドラ』Alejandra、『イサベラ』Isabela を書き残した。『フィリス』は紛失したが、あとの二篇は三幕物として現存する。『イサベラ』の序でも述べているように、彼はもともと厳粛な悲劇の様式を重んじる作家だけに、大衆演劇に対しては最初から背を向けていたといえる。

 時代の変化とともにこうした人たちの演劇理念は、十六世紀後半から十七世紀前半に見られる大衆演劇の繁栄ぶりを尻目に、古典派演劇を擁護する博識者たちのむなしい反駁の声に支えられつつ徐々に形骸化していくことになる。

 しかしその一方で、ロペ・デ・ルエダ(1510?ー1565)やフアン・デ・ラ・クエバ(1550?ー1610)のように大衆演劇誕生の基礎を築くうえで大いに貢献した前ロペ派の劇作家たちもいた。 商業演劇の先駆者として知られるロペ・デ・ルエダ(Fig. 1)は、みずから役者として活躍するかたわら、劇作にも力を入れ、座長としても活躍した。1540年ごろから一座を率いて、バリャドリード、セゴビア、セビーリャ、トレド、マドリード、コルドバといった町を渡り歩き、貴族の館のみならず、入場料を支払って芝居見物にやってくる大衆を相手に、旅篭の内庭や町の広場や袋小路などさまざまな場所で芝居を演じた。当時はまだ特定の場所に常設劇場(コラール)というものが存在していなかったため、簡素な仮設舞台を戸外に設置し、その上から観客を大いに喜ばせた。その当時の舞台を実際に観たというセルバンテスは、『新作コメディア八篇と幕間劇八篇』の「読者への序文」で次のように回想している。

 有名なわが同胞〔ロペ・デ・ルエダ〕の時代には、一座の舞台衣装や道具はすべて大袋の中に納められ、その中身も黄金色のなめし革で飾りつけが施された毛皮の外套四着と、顎髭とかつらが四つずつ、それに柄の曲がった杖が四本といった程度であった。そのときのコメディアといえば牧人劇(エグロガ)のようなもので、二、三人の羊飼いの若者と一人の少女のあいだで交わされる会話から成り立っていた。コメディアを引き立たせたり長引かせたりするのに、黒人女、悪党、薄のろ、ビスカヤの人間などが登場する幕間劇が二、三本上演された。こうした四種類の人物やその他多くの人物を描くことにかけては、のちのロペ〔ロペ・デ・ベーガ〕と称する者が想像以上に見事に、独特な筆致で仕上げている。当時は舞台仕掛けなどなく、徒歩や馬上姿のキリスト教徒とモーロ人との戦いすらなかった。また迫出しから舞台上に姿をあらわす、あるいはそう思わせるような仕掛けもなかった。舞台は四角い四つの台の上に四枚または六枚の板を乗せただけのもので、地面からの高さは四パルモ〔約八四センチ〕であった。ましてや天使や霊魂が雲に乗って空から降りてくるという仕掛けなどなかった。舞台を飾るものといえば、舞台の端と端を結ぶ二本のロープにかけられた古い布切れであり、これによって背後に衣装部屋というものが設けられるようになった。そこには楽士たちが席を陣取り古いロマンセを歌っていた。

 この回想はセルバンテスが亡くなる一年前の1615年に刊行されたもので、1615年といえばすでに都市の劇場ではある程度手の込んだ舞台装置が導入されていた時期である。セルバンテスにとって半世紀ほどまえのロペ・デ・ルエダの舞台装置があまりにも粗末で簡素な造りに思えたとしても無理はない。おそらくロペ・デ・ルエダが町のどこかに即席の舞台をセットして演じたときの模様を、セルバンテスが目にしたとおりに描いたものであろう。もっともロペ・デ・ルエダが、貴族の館ないしはどこかの建物の中庭を利用して上演した際には、『エウフェミア』Eufemia、『アルメリーナ』Armelina、『騙された人々』Los enga*N@ados、『メドーラ』Medora に出てくる登場人物の台詞にもあるように、場面の要求に応じて窓や扉を効果的に使ったようである。ロペ・デ・ルエダのすべての芝居を自分の目で見たというフアン・ルーフォの証言によれば、いずれも内庭が舞台として使われ、小道具としての衣装は羊飼いが着る革のコート(ペリィーコ)が六着、旅行用の衣服が三着、横笛が二本、タンバリンが一張りだけであった。またレパートリーはほんの一作か二作程度で、入場料はたったの銅貨一枚、それでも夏場は燃え盛る鍛冶屋の炉のように暑く、冬場は氷の川のように身震いするほど寒かったせいか、場内はほとんどがら空きだったそうである。いずれにしても、巷間での演劇活動が人々の注目を浴びるようになるのは、この劇作家の存在に負うところが少なくない。これまでの教会の祭壇での上演や宮廷貴族のみを対象とした演劇を、市井の人々の娯楽へと発展させた貢献度を考えると、彼の登場によってはじめてスペイン国民演劇の基礎が築かれたといっても過言ではない。

 ロペ・デ・ルエダには、上記のコメディアのほかにも、散文で書かれ民衆的雰囲気をもつ一連の『パソ』Pasos(『仮面』La car*A@tula、『招待客』El convidado、『オリーブの実』Las aceitunas など)や、数人の牧人同士の対話からなるものが数編、それに聖体劇が二篇ある。『パソ』は幕間に上演される短い作品で、物語性のない笑劇集のようなものである。このスタイルはのちにセルバンテスやキニョーネス・デ・ベナベンテ(1589?ー1651)によって「幕間劇」(エントレメス)として受け継がれ、十八世紀にはラモン・デ・ラ・クルス(1731ー1749)によって「サイネーテ」というかたちで継承されることになる。

 もう一人のフアン・デ・ラ・クエバは作劇するにあたり、自国の伝統的な詩歌(ロマンセ)の集成「ロマンセーロ」や歴史などから題材をとることによって、演劇を国民的なものにした最初の作家である。四篇の悲劇と10篇の喜劇(初版が1584年、二版が88年に上梓)が現存し、なかでもスペイン中世の俗謡を題材にしたということで、『ラーラの七人の貴公子の悲劇』Tragedia de los siete infantes de Lara 、『ドン・サンチョ王の死とサモーラの挑戦』Comedia de la muerte del rey don Sancho y reto de Zamora 、『ベルナルド・デル・カルピオによるスペイン解放』Comedia de la libertad de Espa*N@a por Bernardo del Carpio は、ロペ・デ・ベーガの先駆者的存在としての価値をもつ作品である。一方、喜劇には歴史物とは関係のない『アルセリーナの貞節』La constancia de Arcelina、『老いらくの恋』El viejo enamorado、ドン・フアンの原型とされる『侮辱者』El infamador (1579年上演、1588年印刷)などが含まれる。そのほか、オウィディウス、ウェルギリウス、リウィウスなどの古典作品に主題を求めた『アヤックス・テラモンの悲劇』Tragedia de Ayax Telam*O@n、『ムキウス・スカエボラによるローマの解放』Tragedia de la libertad de Roma por Mucio Sc*E@vola、『ウィルギニアとアピウス・クラウディウスの死の悲劇』Tragedia de la muerte de Virginia y Appio Claudio などがある。これらの作品は1579年から81年にかけてセビーリャのドニャ・エルビーラ劇場、アタラサーナス劇場、ドン・フアン劇場などで、当時の有名な役者アロンソ・ロドリーゲス、アロンソ・デ・カピーリャ、ペドロ・デ・サルダーニャ、アロンソ・デ・シスネーロスなどによって上演された。具体的な舞台イメージを想定していることから、卜書きや台詞には、舞台背景、衣装、小道具などの設定がロペ・デ・ルエダの劇以上に詳しく記されている。しかし、クエバの作風はさほど優れているわけでもなく、個々の場面は確かに興味深いにしても、劇構造全体からするとまとまりの悪い印象を受け、登場人物の設定や台詞にも不自然さが目立つ。

 クエバは自作の巧拙およびスタイルとは別に、上演から約30年経った1609年に『試作法の手本』Ejemplar po*E@tico(1606年には完成)を著し、そのなかでギリシア・ローマおよびイタリアの古典演劇のスタイルに対抗し、時代にマッチした作劇法を推賞している。クエバにとって三一致の法則にもとづく古典演劇は、むろんその真価を否定するものではないとしても、当時一世を風靡したロペ・デ・ベーガ風の斬新な芝居にくらべると、全体のまとまり、創意工夫、入り組んだ筋立て、陽気な軽口などの面で一歩も二歩も後退し、あまりにも単調で退屈な出し物のように映ったようである。これはトーレス・ナアーロの「梗概(プロエミオ)」にみられる伝統的な考えとは対照的であり、むしろクエバのコメディアに対する新しい見方、それも観客の趣向を強く意識した見方である。すなわち、時と場所の一致にこだわらないこと、国王や神を登場させることによって喜劇的要素と悲劇的要素を混ぜ合わせること、筋の展開や話の内容によって韻律を自由に変化させること、人々に親しまれている自国の伝説やロマンセをテーマとして採用すること、これまで五幕だった劇の構造を四幕にすること、などの点を実践してきたことが改革派といわれる所以なのである。

 やがて天才的な劇作家ロペ・デ・ベーガ(1562ー1635)の登場によって、あらゆる人々を対象とした「新しい演劇」が流行するようになる。もちろん、そのロペとて初期の頃に書いた作品はなにぶんにも叙情詩的で、お世辞にも上等な出来映えとはいえなかったし、「新しい演劇」の本格的な創始者および推進者はロペであるとしても、それ以前の劇作家たちが採り入れてきたテーマ、筋立て、文体、技巧などに負うところが大きかったのも事実である。たとえばトーレス・ナアーロの『イメネーア』からは《マントと剣》と喜劇の技巧を、またバレンシア出身の劇作家アンドレス・レイ・デ・アルティエーダ(1549ー1613)の『恋人たち』Los amantes からは国民挿話に題材を求めることを学んでいる。それにコミカルな要素はロペ・デ・ルエダから受け継ぎ、誇張気味の抒情的要素はジル・ビセンテやフアン・デ・ラ・クエバに学び、背景の壮観さはセルバンテスの『ヌマンシア』がモデルとなっている。実際に、ロペ・デ・ベーガの作風に変化がみられるのは、バレンシア滞在中に交流することになる地元出身の劇作家たちの影響を受けた後のことである。

 その後、ロペと同時代の劇作家で「新しい演劇」の発展・形成に貢献した、ギリェン・デ・カストロ(1569ー1630)、アントニオ・ミラ・デ・アメスクア(1574ー1644)、ルイス・ベレス・デ・ゲバーラ(1579ー1644)、フアン・ルイス・デ・アラルコン(1581ー1639)、ティルソ・デ・モリーナ(1581?ー1648)などが、それぞれの作風をもってこの時流に便乗し、大衆の嗜好にあった芝居形式を不動のものとする一方、バロック演劇の雄といわれるカルデロン・デ・ラ・バルカ(1600ー1681)がこの劇芸術を見事に開花させることになる。

 スペイン黄金世紀の演劇が絶頂期を迎えるのは、フェリペ三世(在位、1598ー1621)とフェリペ四世(在位、1621ー1665)の時代になってからである。この時期にはスペインの国力や経済はすでに衰退の一途を辿りつつあったが、スペイン文学や芸術は逆に隆盛をきわめ、のちに他のヨーロッパ諸国に少なからぬ影響を及ぼすことになった。

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