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三省堂出版小史
「模範六法」の初期
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「ぶっくれっと」NO.2(1975年12月10日 発行)から 三省堂は昔から「辞書の三省堂」又は「教科書の三省堂」といわれてきましたが、大正10年には、六法の分野にも進出し、『模範六法全書』を創刊しました。ポケット判610ページ、装幀は羊の本皮装、収録法令数は少なく、今の司法試験用六法に毛のはえた程度のものでした。編者名は三省堂編修所ですが、東京控訴院判事佐藤竜馬氏が編修顧問として指導に当たられました。次いで昭和3年には『特輯六法全書』(サブタイトルは現行法令条約集)を創刊しました。これは三六判1,360ページで、収録法令数も断然多く、施行令や施行細則に至るまでを採録し、実務家用の大六法ともいうべきものでした。編者は小野清一郎・佐藤竜馬の両氏でした。続いて昭和9年には、『新輯六法全書』を創刊しました。これは参照条文・事項索引つきで、四六上判、1,850ページ、編者としては佐藤竜馬氏が総括主宰し、宮沢俊義・尾後貫荘太郎・赤木暁・金沢潔・河本喜与之等の諸氏が分担執筆されました。さらに、昭和17年には川島武宜・来栖三郎・津田実の諸氏にも参加して頂いて、新輯六法の改訂版を出しました。基本法律の活字を大きくし、参照条文に説明を加えるなど、今日六法の常識となっているようなことは、この改訂版が先鞭をつけたようなものです。引き続いて、特輯六法を改訂すべく、小野先生の熱心な指導の下に原稿を作成し、その完成を見た頃、不幸にして空襲に際会し、その発行を断念するのやむなきに至ったことは、返す返すも残念至極というほかありません。 昭和20年の空襲によって、三省堂は蒲田の印刷工場と小石川の資材倉庫を全焼し、大打撃を受けましたが、清刷りや紙型などの版下類は事前に疎開してあったため、全部助かりました。それで辞書類の復刊は意外に早くはかどりましたが、六法の方は、法令の改廃がめまぐるしく、それを正確に把握するのに手間取りました。それでも昭和23年7月には他社に先んじて『模範六法全書』を出すことに成功しました。コンサイス判920ページで、編者名は三省堂編修所で、最高裁の河村又介・尾後貫荘太郎、東大の川島武宜・金沢良雄の諸氏が編修指導に当たられました。最高裁判所憲法判例集を収載しましたが、これは今日の判例六法の萌芽とでもいえるでしょう。当時、六法の需要は相当なものでしたが、用紙割当制がまだ続いていましたから、割当て以上の部数をつくることができない。それで、広告もしないのに発売と同時に売り切れとなる状態でした。とに角、戦後最初の六法ということで、大変羽振りがよかったのですが、何分参照条文も事項索引もつかず、条文だけですから、読者にとって物足りない所があったらしく、段々尻つぼみの状態になって参りました。そこで、構想を新たにし、勝本正晃・河村又介・薬師寺志光・江家義男・尾後貫荘太郎・村松俊夫・吾妻光俊・赤木暁・田中真次・恒田文次の諸氏を編修委員として迎え、昭和30年に全く面目を一新した模範六法を誕生させました。その特色は、 参照条文の全法律への拡大
など画期的なものでした。判例を入れることについては、編修委員の間に意見が一致せず、やむなく妥協策として、最高裁の判例を憲法・刑法・刑訴法・労働法に入れるということに落ち着いたわけです。編修方針の不統一という批判を免れませんが、これで判例六法の橋頭堡ができたといってもいいでしょう。その後、読者カードによって調査したところ、判例の拡大を望む声が圧倒的に強かったので、昭和32年版では、大審院・最高裁の判例を民法・商法・民訴法に入れ、昭和35年版では、これを刑法・破産法・和議法にも及ぼしました。これで判例六法としての体裁を一応整えたことになります。 なお、当時の『模範六法全書』は収録法令数が200内外で、実務家用としては不十分ですから、別に実務家用に『大六法全書』を昭和30年に創刊しました。これは模範六法の版をそのまま利用し、それに収録法令400を追加したものです。造本上特別の工夫をこらし、本を開く時の便宜のため、憲法・民法……という編名を小口に押捺するというような手間のかかることまでしたのですが、不幸にして採算が悪い。昭和36年になりますと、そのせいではないのですが、会社の経理が芳しくない状態に陥り、赤字路線の面倒を見るだけの余裕がなくなりましたので、昭和36年版を最後に、絶版のやむなきに至ったことは、誠に痛恨の極みです。 昭和31年に、初学者用として、憲法・民法・商法に注解をつけた『明解六法』を創刊しました。昭和45年から46年にかけて、明解六法の改訂版、『解説教育六法』の創刊、「模範六法」の改訂版が次々と刊行されましたが、これはもう御覧のとおりで、今更喋々する必要もないと思います。 (元三省堂編修所長 佐久田昌弘) |