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  人権規定の法的性格(現代法学者著作選集)

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人権規定の法的性格

山下健次 著   (品切)

4,200円 A5 304頁 978-4-385-32129-5

日本国憲法に内在する社会権の理論的発展と実践的解明に、先進的役割を担った著者自薦の論文集。プログラム規定論、制度保障論を論じ、独自の生存財産権論へと進む、その研究の足跡をたどる。解説=小林武。

2002年 1月25日 発行

著者紹介 はしがき 目次



●著者紹介

1931年 和歌山県に生まれる
1955年 京都大学卒業
1956年 立命館大学大学院特別研究生
1969年 立命館大学教授
現 在 立命館大学名誉教授



●はしがき

 私の主な研究領域は本書のタイトルが示すように人権規定の法的性格である。立命館大学大学院の特別研究生として私が研究生活に入ったのは1956年であった。朝日訴訟の発端となる保護変更決定が出された年である。当時の憲法学ないし人権論の状況をふりかえれば、第一に、新憲法制定以降の「啓蒙的」人権解説期を脱し、第二に、占領期における「超憲法的」人権制限期を過ぎ、そして第三に、50年代前期までを特徴づける右のような状況を克服するために、新憲法によって導入された違憲立法審査制の実質化に向けて違憲審査基準・方法論などがようやく本格的に論じられ始めた時期であった。ここでは、そのような時期に研究生活に入った私が、以後の各時期の各テーマにどのような問題意識で対応しようとしたのか、現時点でそれはどのように軌道修正されるべきかについて簡潔に叙述することとしたい。

 第1章「基本権規定の法的性格――ワイマール憲法成立過程における展開」(1963年)は、サブタイトルが示すように、直接には現代憲法の諸特徴をそなえたワイマール憲法の基本権規定についての法的性格論を検討しようとしたものであるが、執筆当時は、朝日訴訟第一審判決もすでに出され、二五条の法的性格が活発に論じられ始めていた。そこではいわゆるプログラム規定論のなんらかの意味における克服が課題とされていたが、各論としての二五条の法的性格論に入る前提として、まず人権論における三つのレベル――人権の内容、法的性格、担保制度をひとまず区別した上で、それらの相互関係の総論的な検討を試みている。一口でいえば、いかに壮麗な基本権の内容が提示されても、法的性格・効力が否認・弱化されれば、その実現が阻まれ、また担保制度の機能不全も同様の結果にいたるので、適切な内容論の体系的展開とともに、その実現を保障する法的性格論と担保論を構築すべし、とするものであった。残念ながら、ワイマール憲法については、成立過程における諸論の検討に終わり、当初に予定していたワイマール憲法期、ボン基本法期および日本国憲法についての総括的検討にまで及ぶことはできなかったけれども、日本国憲法については、本書第二章以下の論文においてなにがしかの検討をなし得たと思っている。

 なお、この論文の時点では、プログラム論等を念頭に置いて、法的性格論の「基本的な問題は、ほぼワイマール時代に出尽くしているのではなかろうか」との叙述がみられるが、60年代以降の日本における社会経済構造の変化を背景に登場した新しい諸人権をめぐる多面的な法的性格の把握の状況をみるとき、当然に一定の修正が要請されている。ただ、この論文でも、法的性格論が多様な構成をとらざるをえない、あるいはとるべきことについては一般的にではあれ指摘している。その意味では、法的性格論の序論としての命脈を保っていると考えている。

 第二章は、一口でいえば、制度的保障論に対する批判的諸論文である。50年代後半に入ると、制度的保障論は、宮沢俊義教授を始め有力な学者によってかなり広汎に日本国憲法の解釈に導入されてきていた。この理論への関心を向けさせて下さった恩師・大西芳雄先生は、むしろ現代国家において要請される私的企業の利益追求規制の面から、財産権保障の制度的保障化を提唱されていたのであるが、概していえば、わが国に導入された制度的保障論は、人権をよりよく保障するための理論として提唱されていた。私は、人権関連条項に関して、保障と制限の複合態を巧みに構成するこの理論に、一方では魅せられながら、他方では、保障さるべき本質と法律による制限が許される非本質部分とを分ける境界線の曖昧さ、場合によっては恣意に流れるおそれ、さらには特定の体制イデオロギーと結合して体制擁護論となるおそれ等々に疑問を抱くようになった。とりわけ私有財産制度の制度的保障について、この点に気付かせたのは、「すべての者に人間たるに値する生活を保障する正しい秩序という社会進歩の理想が置かれている。しかし、この目的に向かって進むべき車には、個人の経済的自由も制度として維持されなければならないという制動がかけられている」とするW・アッペルト『ワイマール憲法史』の一節であった。これに触発されて執筆したのが、第一節「所有権の保障と制度保障の理論」である。

 制度的保障論一般について、私が最も肯定的に接近したのは、「制度保障の法的性格とその問題点」(公法研究26号、1964年)であるが、本書には収録していない。第二節から第四節までをお読みいただければわかるように、私のこの理論に対する基本的立場は、よりよく人権を保障するためにという視点からこの理論を肯定するわが国の理論に対する問題点の指摘ないし批判にあるからである。そこでは、保障さるべき本質と法律による改変可能な部分との境界線の曖昧さ、したがって前者のミニマム化・後者の不当な拡大による人権保障の縮減・相対化のおそれを指摘している。

 今日、制度的保障論は、最高裁でも採用され、有力な学説の一つであるが、他方では、芦部、佐藤(幸治)教授らによる批判ないし限定的採用が説かれていることは周知のとおりである。

 第三章は、第一章を承けての社会権の法的性格に関する各論である。さきに述べたように、法的性格論への関心は、朝日訴訟の進展によって触発されたものであり、いわゆるプログラム論の克服に向けられたものであるが、私としては、プログラムか具体的権利かという二者択一ではなく、憲法二五条が、さらには憲法そのものが、もともと法令による具体化を予定しているという意味では、立法等に対するプログラムとしての性格をもつことを当然のこととして受けとめた上で、裁判規範として作用しうる場合もあること、憲法(人権)規定の法的性格の多様性・複合性を指摘したかった。その一般的な指摘は、本章第一節の導入部「社会権における法的性格の複合的構造」で概説しているが、その契機となったのは、日本国憲法制定直後に、生存権的基本権の「法律効果」の多面性を指摘された我妻栄博士の一連の論文であった。

 第二節は、執筆当時多彩に展開されつつあった生存権訴訟の実際を念頭におきながら、生存権がいかなる意味で、またいかなる形態で裁判規範としての効力をもちうるかを訴訟類型ごとに検討したものである。これは、学生を対象にした解説であるにもかかわらず、事例にそくした詳細な説明を省いたため、学生諸君からは理解しにくいと不評であったが、同様な視点から、中村睦男教授がより綿密な見解を展開されていることはよく知られている。

 第三節は、生存権のいわゆる「自由権的効果」の問題である。「自由権的」という言葉が、自由権「としての」法的効果を指すのか、あるいは単に不作為請求という保障請求方法を意味するのかは、この表現のみでは必ずしも明らかではない。この時点では、「自由権的効果の二つのあらわれ方」として、右の両方を含むとしつつ、教育の自由や団結の自由・団体行動の自由は、前者の意味ないし側面が問題となりうるけれども、二五条自体についていえば、前者の場合はほとんどないとし、作為請求を本来の権利構造としていることを前提としつつ、これに対する不当な介入を排除する効果が問題となりうるとしている。この点について、最近の問題状況に照らして一つだけコメントしておきたい。それは秋田生活保護費預貯金訴訟(加藤訴訟)以降の一連の事案をどうみるかである。まず、右の前者の場合=生存権に基づく生活保護費の使途に対する介入を端的に生存権の自由権「としての」側面に対する侵害とみるか、それとも後者の場合=法律によって具体化された作為請求の結果としての生活保護費を前提とし、その使い方に対する介入排除とみるか。もし後者とみれば、私のかつての分類に収まるが、前者とみることもできよう。あるいは、自由権的効果論にかねてから加えられている批判的見解に従って、それは二五条ではなく一三条問題として処理するという立場もありうる。いずれにせよ、ここでは、生存権保障に関連して介入の排除という保障方法が問題になっていることだけは確かである。したがってそこでは、介入排除=不作為請求という法的性格問題を通じて、生存権の内容ないし本質の問題――自由権「としての」側面をもつか、本質はあくまで自由権とは異なる社会権であり、ただ保障方法・法的性格の一つとしての作為請求があるにとどまるか、あるいは、この不作為請求は生存権の内容及び法的性格とは別問題であり、条文上の根拠を生存権規定以外に求めるか等々が問われる。つまりここでは、人権規定の性格論と内容論の交錯と対話が行われるのであって、この対話を通じて、内容と法的性格のあり方を含む人格保障論の一層の深化が期待されるように私には思われるのである。

 第四章は、財産権規定の法的性格というより、財産権の内容に関わる。ただ、私有財産の制度保障論の批判的検討から始めた私にとって、その制度保障論における保障ないし制限されるべき財産の内容と規定の法的性格――制度の本質の立法による制限からの保障および非本質部分の立法による改変許容――とは初めから密接に関係している。つまり内容論と性格論の対話が、その制度保障論には存在したのであった。

 第一節は、二九条の文言形式上財産権一般として規定されている財産権について、戦後憲法学の発展の中で、生存財産・小さな財産といわゆる独占財産・大きな財産を区別する見解が説かれてきたその軌跡を学説史的に追い、私なりの生存権的財産権の再構成と「独占」財産の非人権化を提示したものである。制度的保障論との関わりでは、ワイマール憲法期におけるその出自から端的にいえば、それは、資本主義的私有財産制度の根幹防衛という問題意識から主張されたのに対し、わが国の場合は、福祉国家・社会国家の見地から生存財産保障の側面ないし生存権保障のための私有財産に対する制約の側面が強調された。しかし、多くの場合資本主義的私有財産制度の根幹保障論は維持された。これに対して、生存財産保障を制度保障の中核とする社会主義志向的少数説もあらわれた。私としては、この説が、生存財産の保障を積極的に主張した点を評価しつつも、私有財産制度保障論が、資本主義的私有財産制度の根幹防衛論という出自をもつ以上、それを全く捨象して生存財産保障論的制度保障論に組み替えることには疑問があること、また、制度保障論一般が制度の本質と周辺部分を区別する客観的メルクマールに欠け恣意的線引きを導くおそれがあることなどの理由から、この少数説に与することに消極的であった。むしろ端的に、労働基本権や生存のための財産権を精神的自由や人身の自由と並ぶ人権体系の機軸に据えた上で、これらの人権保障に必要な独占財産等々の制限を論証すれば足りると考え、「全人権体系における諸財産権の評価」を試みたのであった。

 第二節は、現代における財産権の保障と制限の問題を都市環境管理という具体的課題に関連させて論じたものである。そのかなりの部分は、財産権保障の意義を「自律的人格を基点とする人権保障全体の価値体系から摘出する作業によって、同時に財産権保障の限界を明らかにする」という視角から、前節における私見を不徹底と批判される棟居快行教授からの批判に応えるために割かれている。そこでは、図式化すれば、「ロック的古典的財産権(古典的生存財産権)→諸生存権(規定)への価値移転による生存財産権の狭まり→現代の自律的人格的生存財産権論による再価値移転・再構成=例:都市住民の居住用財産権を単なる物理的存在としての不動産に対する権利にとどまらず、勤労・消費・レクリエイション等々の具体的住民の全生活に必要不可欠とされる居住財産諸機能にまで広げられた保障へと再構成」という財産権論展開の論理があるとし、そのような財産権の具体的な中身と範囲さらにその実現方法を探る課題を提起している。

 第五章は、地方自治規定の性格と地方自治権の内容の検討である。60年代から70年代へかけては、高度成長政策の矛盾が噴出し、住民運動の発展と革新自治体の相次ぐ誕生があった。それは、中央政治に対する抵抗にとどまらず、問題を地方自身の目線で解決しようとするいわば地方自治創造への気運が台頭した時代であった。

 第一節は、1971年度全国憲法研究会の秋期総会における報告をまとめたもので、住民のトータルな人権保障という地方自治の存在理由を確かめ、自治体を抵抗体から創造体へ発展させるといういささか気負った観点から、事務配分、条例制定権等々についての再検討の課題と展望を述べたものである。

 第二節は、1980年度日本公法学会第45回総会第三部会「『地方の時代』の“地方自治”」における問題提起者としての発言をまとめたもので、地方自治規定の法的性格を制度的保障とする見解に対する批判の部分と、地方自治権の本質を人権保障・国民(人民)主権の原則の地方における具体化とみる場合、まず一元的中央政府の不十分さと地方自治の有用性ないし可能性の双方をまず現実認識として確定した上で、それまでに公害をめぐって活発に展開されてきた地方自治論を総括し、そこから新たな規範論を構築すべしとする提言の部分から構成されている。

 第三節と第四節は、『自治体憲法』(自治体法学全集2、学陽書房)の序章と終章である。前者では、いわゆる「1789年の理念」とされてきた「地方権の思想」についての通説に対してこれを批判的に検討した河合義和教授らの研究に学んで、筆者のそれまでの不徹底な見解を改めている。後者は、この全集全体の編者である兼子仁教授の命名による「自治体憲法」というタイトルに触発されて執筆した。地方自治の場で、人権を生かそうとするとき、精神・人身・経済的自由、生存権というように憲法典上いわば分節化して宣言されている諸人権を、地域住民の具体的な生活サイクルから再整序・再編成し、それを自治体憲章のような形で考えてみてはどうかというのが、そこでの発想であった。同様な観点は、第四章第二節でも貫かれている。

 ふりかえってみれば、いささか体系性に欠ける法的性格論のモザイクであるが、最初に「制度的保障論」という人権規定の現代的把握に目を向けさせて下さった恩師大西芳雄先生に、まず本書を捧げたい。先生が急逝されてすでに四半世紀が過ぎた。先生は、公私にわたる私のわがままを、終始変わらぬ温顔と寛容をもって見守って下さった。

 このような形でまとめるにあたっては、大西芳雄先生の下で兄弟弟子の関係にある南山大学教授小林武氏に並々ならぬお世話になった。同氏の熱心な後押しがなければ、とうてい本書は陽の目をみることはなかったであろう。加えて同氏には、懇切な解説まで執筆していただいた。心からの謝意を表したい。最後に、昨今の困難な出版事情にもかかわらず、「現代法学者著作選集」の一冊としてこのつたない論集を加えて下さり、編集・校正の面でも種々お世話になった三省堂の皆さん、ことに鷲尾徹氏と武内明氏に厚く御礼申し上げたい。

2001年12月

山下 健次



●目  次

はしがき

第一章 基本権規定の法的性格 [立命館法学46号(1963年)所収 原題「基本権規定の法的性格の展開(一)」]

第二章 制度的保障論

 第一節 所有権の保障と制度保障の理論 [立命館法学41号(1962年)所収同名論文]

 第二節 人権と制度的保障の理論(一) [ジュリスト増刊・憲法の争点(旧版・1978年)所収同名論文に一部補訂を加えた]

 第三節 人権と制度的保障の理論(二) [ジュリスト増刊・憲法の争点(新版・1985年)所収に同名論文に一部補訂を加えた]

 第四節 制度的保障論の政教分離、大学の自治原則等への適用とその問題点 [立命館法学150〜154合併号(1981年)所収 原題「制度的保障論覚書――政教分離、大学の自治原則への適用とその問題点」とロー・スクール46号(1982年)所収 原題「政教分離の原則と制度的保障の理論」を統合・再構成]

第三章 社会権の法的性格

 第一節 社会権の法的性格 [ジュリスト500号(1978年)所収 同名論文]

 第二節 生存権の裁判的保障 [ジュリスト別冊・法学教室(第 II 期)3号(1973年)所収同名論文]

 第三節 生存権規定の「自由権的効果」 [立命館法学116・117・118合併号(1975年)所収同名論文]

第四章 財産権の構造

 第一節 財産権の保障 [ジュリスト638号臨時増刊・日本国憲法30年の軌跡と展望(1977年)所収 原題「財産権の保障問題点」と法学教室26号(1982年)所収 原題「財産権」を統合・再構成]

 第二節 生存財産権論の到達点とその再構成の課題 [山下健次編『都市の環境管理と財産権』(法律文化社、1993年)所収同名論文]

第五章 地方自治権の性格と内容

 第一節 憲法と地方自治 [法律時報44巻4号(1972年)所収同名論文]

 第二節 地方自治権の本質・存在理由の検討方法 [公法研究43号(1981年)所収同名論文 ]

 第三節 地方自治――その憲法的保障の意義 [山下健次=小林武『自治体憲法』(自治体法学全集2、学陽書房、1991年)所収「序章」(原題「 地方自治の憲法的保障の意義」) ]

 第四節 地方自治における憲法の保障と「自治体憲法」 [山下健次=小林武『自治体憲法』(自治体法学全集2、学陽書房、1991年)所収「 V 」(同名章)]

主要な著作文献リスト

解説=小林 武(南山大学教授)

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