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「つながり」の教育 「つながり」の教育

木村浩則 著

1,600円 四六 224頁 978-4-385-32196-X (品切)

「ゆとり教育」「父性復権」「子どもの荒れ」「若者の自立」などのさまざまな現象・局面から、現代の学校・家族がかかえる病理を分析。「教育危機=人間危機」の克服の道すじを、<つながり>の創造のなかから展望する。

2003年6月10日 発行



●著者略歴

木村浩則(きむら ひろのり)
1961年 福岡県生まれ。1999年 東京大学大学院教育学研究科博士課程単位取得退学。現在、熊本大学教育学部助教授(教育哲学)

主な論文、著書
「ルーマン・システム理論における『教育関係』の検討」(日本教育学会編『教育学研究』第64巻、1997年)、 「アレント教育論における『保守』と『革新』―ハンナ・アレントの教育理解再考―」(教育思想史学会編『近代教育フォーラム』第10号、2001年)、『教師という〈幻想〉』(共著、批評社、1998年)、『沈黙する教師たち』(共著、批評社、2000年)



●はじめに

 われわれは、二一世紀という新世紀のとば口に立っている。この「新世紀」という言葉は、希望に満ちた時代のイメージを喚起させる。思えば、子どもの頃、私が想像していた二一世紀とは高度の科学文明に支えられたバラ色の未来社会であった。しかしながら、現実の「新世紀」の始まりを飾ったのは、九月一一日、ニューヨークで起こったあの出来事であった。そしてその後に続く「新しい戦争」は、悲しみと憎悪、絶望と不安、恐怖と危機意識を、世界の人々の心に強く刻印した。暴力と憎悪の連鎖は、アフガニスタンからパレスチナに飛び火し、さらにイラクへと際限なく拡大し続けている。

 この日本も、危機と不安の時代を抜け出すことのできないまま新しい世紀を迎え、いまだ暗闇の未来の前に立ち尽くしている。多くの国民は、「改革」という政府のスローガンに一縷の望みを託そうとしているかにみえるが、その先にバラ色の未来があるなどとは誰も信じていない。悲観主義と無力感が社会に浸透し、その結果、消費意欲は減退し、景気は低迷を続けている。他方で、憲法・教育基本法の「改正」、有事法制や個人情報保護法の制定といった「きな臭い」動きに対しては、無関心、傍観者的態度がますます蔓延しているように思える。おそらく日本社会の本当の危機は、経済や暮らしの悪化それ自体ではない。それらが人々にもたらす悲観主義、無力感、無関心が、危機を危機たらしめている。

 世界の危機あるいは日本社会の危機がこのように深刻化している下では、教育の危機について語ることに何か気後れさえ感じてしまう。しかしそれでも私は、「教育の危機」の背景を探り、克服のための見通しを多少なりとも明らかにすることを、本書全体の主要課題としたいと思う。なぜなら「教育の危機」は、そのまま「人間の危機」につらなるものであって、その克服こそが、二一世紀の日本と世界に賭けられていると考えるからである。

 本書は六つの章から構成され、それぞれは独立したテーマの下に書かれている。第一章では、文部科学省の「ゆとり教育」に対する原理的な批判を試みた。最近「ゆとり教育」批判は一種のブームとさえなっているが、そのほとんどは学力問題の視点からの批判である。ここでは教育現場にゆとりを実現するという課題をより原理的に考察した。第二章ならびに第三章は、現代の「家族」「教師」の抱える困難を、親や教師の中に潜在する教育的な「とらわれ」あるいは「強迫」という観点から問題化しようとしたものである。第四章では、子どもに対する社会のまなざしというものをテーマにした。強権的な社会のまなざしが強まる昨今、それに代わる社会的なまなざしと保護の原理を探求することを試みた。第五章では、現代の若者における自立の困難の背景とその克服の道すじを、いくつかの現代若者論を素材としながら明らかにしようとした。第六章は、危機にある教育を回復させる試みを〈つながり〉というキーワードの下に理論化しようとしたものである。

 以上のように各章はそれぞれ独立したテーマと内容をもっているが、そこにはある一貫したモチーフが存在する。それは、「とらわれからの解放」と「つながりの創造」という二つのキーワードに集約することができる。前者は主に第二章と第三章で扱われ、後者は第一章、第四章〜第六章の内容に関連している。本論に入る前に、この二つのキーワードの内実とそれらについての私なりの問題意識を紹介しておこう。

〈とらわれの教育〉からの解放

 近代社会はわれわれに自由をもたらしたと言われ、また近代教育の目的は子どもを自由な市民へと形成することだと言われる。だが現在の教育と社会のありようをみるとき、近代の社会と教育が本当の意味で人間に自由をもたらしたかどうかは疑わしい。たしかに諸個人は、国家や共同体という「全体」による支配や束縛から脱却したかにみえる。また代議制民主主義を建て前とする国家、自由な市場を前提とする経済の下で、われわれは一見自由を謳歌しているかのように振る舞っている。しかし現実には、支配や束縛は解体されたのではなく、細分化され偏在化されたにすぎない。巨大な支配のシステムは形を失ったが、微細な支配の網の目がわれわれをとらえて離さない。支配の力は、家族と学校という二つの装置を媒介にして、諸個人の内面に奥深く浸透し、自由な自己を束縛し抑圧する。

 このような自己規範化について、「反教育」を唱える人々は、それが大人による子どもの「教育」によって生じるものだとし、「教育」の廃棄によってこそ個人の真の自由が実現されると考える。だが、この見解は二つの点で疑わしい。一つは、はたして教育と規範化は同一視しうるのかという疑問であり、もう一つは、「教育」の廃棄によって子どもを脱規範化することで、本当に自由は実現されるのかという疑問である。

 まず第一の疑問について考えてみよう。教育という営みを、かりに大人から子どもへの一方的な働きかけとしてのみとらえるならば、たしかに教育と規範化は同じものなのかもしれない。しかし、現実の教育はけっして一方的な行為ではなく、相互的あるいは応答的なダイナミズムの下に成り立つものである。むしろ問題はそうであるにもかかわらず従来の教育論・教育学が、大人から子どもへの一方的な働きかけを「教育」とみなそうとしてきたことにある。批判されなければならないのは、「教育」という営みを、成熟した大人から未成熟な子どもへの一方向的な行為、あるいは「〜すべし」という当為的な働きかけとしてとらえるようなタイプの教育観である。それは規範主義的教育観とも呼ぶことができるが、このような教育観が、親や教師を縛り、彼らをして「とらわれの教育」に駆り立てているのである。

 ここで「とらわれ」とは、人があることがらをあまりに規範的にとらえてしまい、その結果、現実感覚が失われてしまうことを意味する。本書では、親や教師における教育への「とらわれ」を、「家族強迫」(第二章)あるいは「教師の権威」(第三章)という言葉で表わしている。この「とらわれ」から親や教師自身が解放されることは、病理的とも言える今日の学校と教育の状況を回復へと導く上で決定的に重要であるように思われる。なぜなら教育への「とらわれ」、言い換えれば教育の規範主義化は、教育的関係の土台にある、ありのままの大人と子どもの関係性を見失わせてしまうからである。学校現場では、服装や髪型といった外見的、形式的な指導にとらわれればとらわれるほど、子どもたちの教師不信、人間不信が増幅される。親が育児書や心理学書にとらわれて子どもを育てようとすればするほど、ありのままの子どもの現実や思いが無視、抑圧され、子どもは心を閉ざすようになる。規範的で、一元的な教育言説が、教師を、親を、そして子どもをそれぞれに拘束し、互いのコミュニケーションを遮断し、いらだちとストレスを増幅させている。

 今日の大人に求められるのは、この〈とらわれ〉の教育からいったん自由になってみることである。教師であるとか、親であるとかいう権威の鎧を脱いで目の前の子どもに向き合ってみることである。そのことを本書においてまず提起したいと考えている。しかし単なる心がけ論では、問題は解決しない。さらに検討しなければならないのは、なぜ大人は「とらわれ」の教育に陥ってしまうのか、という問題である。それを解く手がかりとして、本書では、人間の「孤立化」をあげているが、詳細については本論に委ねたい。

 さて残された第二の疑問に議論を移そう。それは、「教育」を廃棄し、子どもを脱規範化すれば、自由は実現されるのか、という問いであった。これも答えは否である。束縛から解放された後の脱規範的状態は、自由と言うよりも、混沌と呼ぶのがふさわしい。しかもその混沌は人間のめざすべき理想とは到底なりえない。混沌は人間を孤独にし、不安にするからである。エーリッヒ・フロムが『自由からの逃走』で指摘したように、人間は自由がもたらす孤独と不安に耐えられなければ、むしろ積極的に自由を放棄する存在なのである。そのような人間の孤独と不安に対する処方箋が、次に示す「つながりの創造」というキーワードである。

つながりの創造

 現代が教育あるいは人間にとって危機の時代であるとするなら、その危機をつくりだしている根本の要因は何だろうか。それは、現代を生きる人間における〈つながり〉あるいは〈つながり〉の感覚の喪失、そしてその人間の危機を誤った仕方で克服しようとする企てであると私は考える。そもそも人間は、次のような二つの〈つながり〉の感覚の中で生きていると言うことができる。

 一つは、過去・現在・未来の時間的な〈つながり〉の感覚である。われわれは、将来への希望と見通しがあってはじめて現在を豊かに生きることができる。だが相次ぐ企業倒産とリストラによる失業不安、職場における不安定雇用の増加と成果主義・業績主義の導入、社会保障の切り捨ては、われわれからこの〈つながり〉の感覚を奪い、将来への不安をつくりだしている。村上龍は小説『希望の国のエクソダス』の中で、主人公の中学生をして「この国には何でもある。本当にいろいろなものがあります。だが、希望だけがない」と言わしめたが、それは現代の子どもたちの心情にきわめてリアルに響くに違いない。

 もう一つは、他者との〈つながり〉の感覚である。われわれは、地域や学校でのさまざまな人間的〈つながり〉を通じて自己形成していく。しかし、地域社会の崩壊、家族の孤立化、学校や職場での競争主義、消費文化の浸透が、人と人との〈つながり〉を断ち切り、われわれをバラバラの「欲望し消費する個人」へと変えていく。親や子どもは自らを孤独な教育サービスの消費者と位置づけるようになり、その結果、早期教育や学校選択の自由化が積極的に支持されるようになる。

 現代社会のこうした〈つながり〉の感覚の危機は、人間の危機そのものにほかならない。それをまず体現しているのが、現代の子どもたちと教育の現場である。少年犯罪は第四のピークを迎え、とりわけ「よい子」の凶悪犯罪が人々を驚かせている。学校では、校内暴力や学級崩壊が増え続け、不登校は一三万人を超えた。また「いま現在が楽しければよい」という子どもたちの時間感覚は、「学びからの逃走」と言われる教育(学力)問題を生み出している。さらに一〇〇万人とも言われる若者のひきこもり、急増する児童虐待と家庭内暴力、心病む教師たちの問題も深刻である。これら教育の危機の背景に、人間の危機としての〈つながり〉の感覚の喪失があるということを本書の中で示したい。

 危機の第二の背景は、こうした〈つながり〉の感覚の喪失によって引き起こされていると考えられる教育の諸問題を、政府や文部科学省が、まったく誤った復古的な仕方で解決しようとしていることである。彼らが進めようとしているのは、学校教育を自由化・市場化の波に投げ入れることで、この〈つながり〉を寸断すると同時に、その寸断された個人を、戦前のように国家という共同体と民族の伝統という物語(ヒストリー)の中に回収することである。その具体的なあらわれは、日の丸・君が代の強制、「奉仕活動」の義務化、道徳教育の強化、歴史教科書の「修正」、そして教育基本法「改正」の動きなどにみることができる。これらは、「戦後民主主義が子どもをダメにした」という俗論、強いリーダーや「誇り高き国家」を待望するファシズム的気分と重なって、社会の中にしだいに浸透しつつある。この流れは、私の職場である大学においても例外ではなく、現在計画されている国立大学の「法人化」は、個々の大学を「競争原理」の渦中に投げ入れながらも、大学の教育・研究へのいっそう露骨な国家介入を可能にする。しかし、こうした危機克服の企ては、危機を災いに変えるものにほかならない。なぜなら、現代の学校や家族が抱える病理は、〈つながり〉の喪失それ自体によってだけでなく、この誤った克服の試みとの矛盾によって引き起こされているからである。

 いま求められるのは、国家共同体や伝統への回帰ではなく、新たな〈つながり〉の時空を創造すること、すなわち子どもを含む市民の「参加」と「共同」を通じて、新たな関係の網の目を編みだしていくことである。しかも、その〈つながり〉は、人間の画一化に反対し、互いのかけがえのなさと多様性を承認しあう場でなければならない。このような新たな〈つながり〉のモデルを、萌芽的ではあっても構想することが本書の、とりわけ第六章におけるテーマである。

 以上が「教育の危機」とも呼びうる事態に関する私なりの理解と問題意識である。以下の各章における議論において、それらが十分説得的に明示されえたかどうかは、読者諸氏の判断に委ねるほかない。



●目  次

はじめに

第一章 教育に<ゆとり>をとりもどす

 1 <ゆとり>の規範化
 2 <ゆとり>とは何か
 3 生きられる時間・空間の変容と<ゆとり>の喪失
 4 近代の学校における時間と空間
 5 教育に真の<ゆとり>をとりもどすために
 6 ボルノウの空間論と不登校の子どもの居場所

第二章 <家族強迫>をこえて

 1 家族の危機
 2 文部省「家庭教育」論における「父性」の復権
 3 「父性の復権」論とは何か
 4 「父性の復権」論がめざすもの
 5 家族強迫をこえて
 6 「近代家族」は普遍的か
 7 「近代家族」のダークサイド
 8 理想の家庭教育はありうるか
 9 変容する家族と教師の役割

第三章 教師、<権威>からの解放

 1 「教師の権威」という呪縛
 2 <権威>復権論の何か問題か
 3 子どもの「荒れ」は「甘やかし」が原因か
 4 <権威>の喪失と「新たな荒れ」
 5 教師はなぜ<権威>の呪縛にとらわれるのか
 6 <権威>からの解放とその新たな創造

第四章 大人は子どもの暴力にどう向き合うか

 1 度重なる少年犯罪にとまどう家族
 2 少年法「改正」論とその政治的背景
 3 子どもの暴力の今日的背景
 4 子どもの病理を生み出す<つながり>の喪失
 5 家族のケアと新たな<つながり>の創造のために

第五章 若者の「自立」をどう支えるか

 1 近ごろの若者は変?
 2 「青年」概念の成り立ちがたさ
 3 若者はなぜ自立できないか
 4 「大人」とは何か
 5 大人への発達モデルの再構成
 6 ポストモダンの若者論
 7 自立への「小さな物語」を紡ぐ若者たち

第六章 <つながり>の教育を求めて

 1 <つながり>の感覚の喪失
 2 <つながり>とは何か
 3 子どもの発達と<つながり>
 4 見捨てられていること
 5 他者とのコミュニケーションを通じた「承認」
 6 アレントの公的空間論
 7 <つながり>の回復を求めて



●あとがき

 この「あとがき」に取りかかる直前に一本の映画を観た。ロマン・ポランスキー監督の「戦場のピアニスト」である。私はこの作品を観ることで、本書で提起した人間にとっての〈つながり〉の意義についてあらためて思いをめぐらせることができた。

 これはドイツ占領下のポーランドで、大量虐殺(ホロコースト)を逃れ、戦火の中を奇跡的に生き残った一人のユダヤ人ピアニストの実話をもとにした作品である。つまりここに描かれるのは、ある一人の人間のサバイバル(生き残り)物語なのである。だがそれはこれまでハリウッド映画が描いてきたタイプのサバイバル・ストーリーとはまったく異質なものである。アメリカ映画の主流とも言うべきアクション映画やパニック映画において主人公の生き残りはいわば定石である。主人公は、どのような危機や難関に遭遇しても、強靭な肉体や精神力、あるいは明晰な頭脳によってその危機を切りぬけ、さらには窮地に陥った仲間やヒロインを救出する。ところがこの「戦場のピアニスト」の主人公は、他者の援助なしには生きることすらできない徹底して無力な存在である。そして彼自身は誰一人として救いを求める人間を助けることができない。

 戦争という暴力と迫害に対してまったくと言っていいほど無力な一人の人間が生き残ったという事実の意味こそが、この映画のモチーフである。一人の無力なピアニストはなぜ生き残ることができたのか。それは彼の傍らに、つねに彼を助け、支える誰かがいてくれたからである。しかも彼の命を救い、支えたのはユダヤ人仲間やレジスタンスの闘志だけではない。ドイツ兵に寝返った裏切り者のユダヤ人、そして敵の将校までもが、彼を危機や飢えから救い出した。無力な人間の生き残りという「奇跡」を引き起こしたもの、それは戦場という空間にはおよそ似つかわしくない、彼を取り巻くさまざまな人間の〈つながり〉であった。

 同時にこの無力な主人公の存在が象徴するのは、芸術というものが秘める力である。芸術それ自体もまた戦争やホロコーストに対して無力であるほかはない。にもかかわらず芸術は、それに触れる人々を魅了し、彼らの何かを変え、「奇跡」を引き起こす。主人公の弾くピアノの調べが、一人のドイツ人将校を魅了し、戦場に赴く以前はおそらくそうであった一人の芸術を愛する人間に引き戻していく場面がある。それは無力であるはずの芸術の力を観客にまざまざと見せつける。

 さらにもう一つ忘れられないのは、逃げまどう主人公の行く手に、倒壊し、廃墟と化した建物の群がこつ然と姿をあらわすシーンである。主人公は、どこまでも果てしなく続く廃墟の群を目にして茫然と立ち尽くす。思えば、映画には主人公が一人で道を歩き続けるシーンが二度あった。一度は、強制収容所に送られて誰もいなくなったゲットーの路上を歩く主人公の背後に、おびただしい数の遺留品が散乱しているシーンであり、二度目がこの廃墟のシーンである。主人公の背後に映るものが、ホロコーストの悲劇を生み出したあの時代を表わしているとするなら、彼の眼前に広がり無限に続く廃墟の群は、あの時代から現在にいたるまで連綿と繰り返されてきた暴力と破壊の連鎖を象徴している。そして二一世紀を生きるわれわれもまた廃墟の前に立ち尽くしている。

 だが、われわれはただ立ち尽くしているほかないのだろうか。アレントは、「最も暗い時代においてさえ、人は何かしら光明を期待する権利を持つ」という確信について語っている。私もまたそのような確信を共有したいと思う。二月一五日、「イラク攻撃」に反対する一千万人を超える人々の言論と活動が世界中をつないだ。無名の個人をつなぐこの反戦の輪は、その後も日本を含む世界各地に広がっていった。一人ひとりがいかに無力であっても、人間のつながる力によって、もしかしたらこの暴力の連鎖を断ち切ることができるかもしれない。ささやかな確信が、世界と日本の若者たちを突き動かした。たしかにその確信は、三月二〇日(日本時間)、米英軍によるイラク攻撃の開始によっていったんは打ち砕かれた。だがそれでも、暗い時代にわずかに灯されたこの「公的領域の光」はけっして消え去ることなく、いまもいたるところで微光を放ち続けている。

 本書を構成する各章は、この五年間に書きためた小論をもとにしている。そのため、データはできるだけ新しいものに変えたが、それでも多少時機を逸した題材が含まれているかもしれない。また各章はもともと別々に書かれたものであるため、多少内容の重複があることに違和感を持つ読者もおられるだろう。しかし多様なバリエーションを持ちつつも、本書が全体として提起しようとしたモチーフは一貫している。それを、最初、「共同性」や「関係性」といった言葉で表わしたが、それぞれの小論を書き進める過程で、最終的に〈つながり〉という言葉に結実していった。たしかに〈つながり〉という言葉は目新しいものではない。にもかかわらずそれは、教育に限らず現代社会のさまざまな問題にアプローチする上で、決定的に重要なキーワードとなりつつあると私は考えている。「暗い時代」を共に生きる親や教師、そして一般読者にとって本書がかすかな「光明」の一つとなりうることを願ってやまない。

 私は大学卒業後、九年間勤めた熊本の私立高校を退職した後に東京の大学院に進学した。そのため研究者としてはまだまだかけだしである。そんな私の拙い文章をこのように一冊の書物として出版することができたのも、さまざまな方々との〈つながり〉があったからである。まず本書のベースとなった小論を執筆する機会を与えてくださった柿沼昌芳先生、藤野達善先生、民主教育研究所ならびに熊本子育て文化運動交流会の皆さんに心から感謝申し上げる。また、熊本での教師生活にピリオドを打ち、上京を決意した私を、快く送り出してくれた職場の同僚や地域の仲間たち、研究者としては遅いスタートを切った私を温かく迎え、支え励ましてくれた大学院時代の恩師、研究者仲間、東京の友人たち、一人ひとりのお名前をここであげることはできないが、この場を借りて皆さんのこれまでのご厚情に感謝の意を表したい。

 最後になるが、多忙な中、私の想いをこのような形にまとめてくださった三省堂編集部の皆様に心からお礼を申し述べて筆をおきたい。

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