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  日本の空襲 全10巻 復刻版


第一巻

企画 松浦総三・早乙女勝元・今井清一

38,000円(分売不可) A5判 平均368頁(別丁写真8頁)
978-4-385-35220-X (品切)
復刻版 2003年5月10日 発行

第2次世界大戦の苛烈を極めた日本の空襲・戦災の悲惨を後世代に伝えるため、北海道から沖縄まで、生々しい体験で綴った戦争告発の記録。1980〜81年にかけて刊行された全10巻を全面復刻。

★ 各巻初版刊行年月日 1巻(1980.6.1)/2巻(1980.6.30)/3巻(1980.4.20)/4巻(1981.7.10)/5巻(1980.6.1)/6巻(1980.4.20)/7巻(1980.9.10)/8巻(1980.7.30)/9巻(1981.9.1)/10巻(1981.10.20)
★ 刊行時、各巻 2,000円(本体価格)

巻構成は以下の通り。

(1)北海道・東北             (責任編集 松浦総三)
(2)茨城・栃木・群馬・埼玉・千葉・東京都下(責任編集 松浦総三)
(3)東京23区・伊豆諸島         (責任編集 早乙女勝元)
(4)神奈川・静岡・新潟・長野・山梨    (編集代表 今井清一)
(5)愛知・三重・岐阜・福井・石川・富山  (責任編集 小田幸平)
(6)近畿                 (責任編集 君本昌久)
(7)中国・四国              (責任編集 岡田智晶)
(8)九州       (編集 空襲・戦災を記録する会九州連絡会)
(9)沖縄                (編集代表 池宮城秀意)
(10)補巻・資料編

図書館流通センター(TRC)の専売商品です。 (品切)

お問合せ先 : 図書館流通センター 「三省堂」係 電話 048-480-1305
(平日9:00〜17:00、12:00〜13:00昼休み)

 内容構成の特色
 刊行にあたって
 第六巻 近畿編の目次
 第十巻 補巻・資料編の目次
 刊行を終えて



●内容構成の特色

(1)基礎資料は,各都市の空襲を記録する会より刊行された「空襲・戦争体験記録」を中心として,その他の主要都市の記録及び新しい書き下し原稿も収録。
(2)記録の蒐集は,庶民の体験記録を6割,その他の記録(政府,自治体,マスコミ等)を4割とした。
(3)記録は各都市を単位として編集した。
(4)適宜,米軍側資料(本邦初訳を含む)を収録。
(5)米軍撮影の未発表写真を多数収録。
(6)各都市の戦災地図も判明するものについては収録。
(7)戦後復興につとめる,焼跡,闇市の模様も収録。



●刊行にあたって

一九八〇年。敗戦後三五年──。

 戦後生まれの世代は、すでにこの国の人口の過半数をこえた。戦災・引揚・玉砕の痛ましい、悪魔のような傷痕も、歳月とともに風化して、歴史の片隅に追いやられようとしている。日露戦争の二〇三高地や、二・二六事件の映画が無批判につくられ、戦犯の記念碑建設から徴兵制導入の発言までふくめ、戦後の平和と民主主義の“見直し”が声高に叫ばれている。

 このような流れに抗して、あの悲惨きわまりない空襲や戦災の体験を「戦争を知らぬ世代に伝えよう」「戦争でひどいめにあうのは弱い庶民だけ」「真実の記録を次代の平和のために」と考えた人びとも多くいたのである。

 一九七〇年、それらの人びとによって「東京空襲を記録する会」が誕生した。会は、平和を願う庶民の立場から、死者一〇万以上の大被害をうけた東京大空襲の忠実な記録を、後世に残すために努カした。当時は、革新都政であった東京都の協力をえて、アメリカ側資料の取材調査もおこない、七四年に『東京大空襲・戦災誌』(全五巻)を完成した。この記録は、文化界でも高く評価され菊池寛賞をうけた。

 東京空襲を記録する会のスタートは、日本中の平和を願っている人びとの胸に大きなとも鳴りを呼びおこした。七〇年から、燎原の火の如く、全国の多くの都市に空襲を記録する運動がおこった。

 その主な地域を北からあげてみよう。北海道では、根室、釧路、室蘭、網走。東北地方では、青森、釜石、仙台、郡山。関東地方では、日立、水戸、宇都宮、前橋、熊谷、狭山、千葉、銚子、八王子、立川、東京、川崎、横浜。中部地方では、長岡、富山、敦賀、福井、甲府、静岡、浜松、豊川、岡崎、名古屋、津、岐阜、大垣など。近畿地方では、大津、京都、大阪、和歌山、神戸、姫路。中国地方では、岡山、福山、広島、呉。四国地方では、徳島、高松、高知、宇和島。九州地方では、北九州、福岡、長崎、佐世保、大分、熊本。そして、沖縄……。

 これら各都市の「空襲を記録する会」は、分かっているだけで六〇団体をこえ、ほかに、各市町村史誌や県史誌でも、空襲・戦災を庶民の立場から記録しているものも、数多くある。空襲・戦災の記録活動は、ほとんどが七〇年代を通じておこなわれたものである。

 各都市の「空襲を記録する会」は、相互援助、親睦、連絡などを目的として、「空襲を記録する会全国連絡会議」を結成した。第一回連絡会議は一九七一年、東京で開かれたが、集まったのはまだ数団体にすぎなかった。

 その後、連絡会議は、東京、名古屋、横浜、神戸、宇都宮、福山、高松などで開かれ、参加団体は年毎に多くなった。この会議は、毎年慣例として八月に開かれた。敗戦後の日本の“八月”は、八・一五敗戦記念日や八・六と八・九の原爆記念日があり、一種の平和運動月間の観があった。そして、これに私たちの「空襲・戦災を記録する会全国連絡会議」も加わったのである。

 一九七五年に神戸で開かれた第五回全国連絡会議では、各都市の空襲・戦災の記録を集大成しようという申し合わせがおこなわれ、満場一致で決定した。全国都市空襲・戦災記録全集ともいうべき『日本の空襲』(全一〇巻)の企画は、この連絡会議をもってスタートを切った。

 あの無謀きわまりない戦争で、日本全国の約一五〇都市が焼かれた。が、どれだけの一般市民が殺されたのか──当然わかっていなければならぬ数字さえも──判然としない。公的資料の基礎となっている経済安定本部の集計によれば、沖縄県をのぞく全国の市民の死者数は約三〇万人。アメリカ戦略爆撃調査団報告では約三三万人。全国戦災都市連盟の調査では五一万人。さまざまな資料から推計して、日本全国で「死者約五〇万人、負傷者一〇二万人程度」というのが、今日につたえられる「真実に近いと思われる数字」なのである。本書は、これらの数字を、より事実に近いものにすることができると信ずる。

 この企画の狙いは二つある。第一に、全国空襲・戦災を鳥瞰し、総合的に検討できることにある。空襲・戦災の体験は、本質的に「点」の体験であり、虫視瞰的なものである。おなじ、東京空襲の体験でも、江東地区のそれと山の手とは異なる。さらに、昼間空襲で五〇〇キロ爆弾の投下を受けた体験や、戦闘機の機銃掃射をうけた体験はまたまた違っている。高射砲や日本戦闘機が迎撃した東京や大阪の夜間空襲と、それもなかった地方都市空襲体験はさらにちがう。このような「点」の体験を「線」の体験に高め、空襲体験と庶民の戦時生活の全体像をあきらかにすることが、この企画の狙いの一つであった。

 第二に、各都市で刊行された戦災誌は、地方出版物のために、発行された地域の人びとしか入手できない。たとえば、青森や仙台や高知の戦災誌は、東京や大阪では容易に手にできず、公共図書館でも揃えているところはすくなく、地方市町村誌も同様である。私たちの仕事は、そうした戦災誌や地方誌を、民衆の戦災と戦時生活という視点から網羅し、集大成することをめざしている。

 本来ならこのような大事業は、国がはじめた戦争であるかぎり、国がやるべき仕事であった。だが、“戦時”を想定しての有事立法や防衛費増額や徴兵制に執心する政府が、真実の戦禍の記録をつくることは望むべくもない。

 このように全国にわたる大規模な仕事を私たち市民(団体)の力でまとめあげることは、いうは易く、おこなうこと極めて難事であった。

 しかし、まことにさいわいにも、私たちの企画に対して、出版社三省堂が熱情をかたむけて協力してくれることになった。

 作業は開始された。思えば、企画されてから、五年の歳月がたっている。

   一九八〇年三月

日本の空襲編集委員会
代表 松浦総三
早乙女勝元
今井清一



●第六巻 近畿編の目次

第一部 大阪の空襲

大阪市の空襲─2

大阪空襲下の人心の動向/小山仁示─12
三月一三日の夜間大空襲─19
消え失せたわが故郷/庫内威 二人の子供を亡くした日/織田よし子 炎の御堂筋/近藤寿恵 花柄模様の小さな防空頭巾/住田睦雄 幼稚園のカバンとお位牌/長谷川三枝
六月の各週連続大空襲─37
死体だらけの街/大江とし子 大正区鶴町附近の被爆状況/市岡和子 動員学徒と共に/金野紀世子 地獄の長柄橋/中島千鶴子 爆弾倉の開くのを見た/源内ちづ子 昭和二〇年六月七日/大西久雄 戦争の恐ろしさを二度と味わいたくない/丸毛義光 四人を亡くした日/酒野信子 人相もわからぬ焼死体/上田信太郎
最後の大空襲─63
此花区桜島一帯の大爆撃/梅本タカ 大阪陸軍造兵廠で被爆して/矢嶋種子 桃谷駅での母の体験記/森本君子

堺の空襲─76

豊中の空襲─88

私の家に墜落したP51/岩崎定子 豊中の母と家族四人が死んだ/直居欽哉 忘れられぬ日/前澤文代

吹田の空襲─101

池田の空襲─106

第二部 兵庫の空襲

神戸の空襲─114

川崎・三菱造船所の爆撃─126
三月一七日の夜間大空襲─131
地獄の大輪田橋/三木谷君子 家族五人が焼死/高瀬武二 父母と姉と兄二人を失う日/湯本良子 死んでいた私/西村多満子 師団管轄救護班/稲田朝美
五月一一日の爆弾空襲─157
六月五日の大空襲─162
三の宮駅の惨状/宮田實 隣にいた兄へ直撃弾/藪下三重 朱に染まった妙法寺川/西松五郎 突然の休暇命令で帰神/足立巻一

明石の空襲─186

昭和二〇年一月一九日/津本陽 バラバラの遺体を拾う/田上ゆみ 裸で首のない死体が自分の娘だった/上田とみ 川崎航空機跡の挽歌/木村栄次

姫路の空襲─205

姫路川西空襲記/森本清四 首のない赤ちゃんを背負って─朝鮮人の被災/柳志民 戦争末期の学校と川西空襲/黒川録朗 数千人がなだれを打って避難/高原敬二 首のない母の火葬/小岩善之助

尼崎の空襲─224

西宮の空襲─230

芦屋の空襲─237

宝塚の空襲─240

川西航空機宝塚工場体験記/横田正造 海軍航空隊に接収された宝塚歌劇場/新藤兼人

伊丹の空襲─249

昆陽での体験/岩佐多鶴子

兵庫県郡部の空襲─254

第三部 和歌山の空襲

和歌山市の空襲─262

七月九日の夜間大空襲─265
鬼畜となってわが子を焼く/田辺貞雄 戦後三〇年、まだ子供達の声が/保田たつ 娘よ、息子よ「なぜ返事をしないの」/井野はな 七割が破壊された和歌山市駅/中山記一郎 負傷者を収容した旅館/和中幸雄

下津町の空襲─286

田辺の空襲─292

勝浦の空襲─296

新宮の空襲─303

第四部 京都・滋賀・奈良の空襲

京都の空襲─308

京都府下の空襲─312
舞鶴・宮津・中郡・榎・保津町・馬町・酉陣・太秦・大久保「日本国際航空」・佐山町・笠置町・多賀村・奈良電鉄沿線・神足
一一名の学友の命を奪われて/吉岡時夫 警報がでているから出勤するなといったのに/市場スガ

滋賀の空襲─336

東レ被爆の聞き書き記録/田中真佐子 一〇キロ爆弾の思い出/福田杲正 グラマン戦闘機の兵を見た/甲良幸雄

奈良の空襲─349

あとがき─355



●第十巻 補巻・資料編の目次

第一章 太平洋戦争と民衆・家永三郎─1

第二章 戦時下の報道統制・松浦総三─17

第三章 空襲下の民心動向に関する政府資料─45

郵便検閲に現れたる民心動向調書/昭和二〇年三月分 通信院通信監督局─49
今後採ルへキ戦争指導ノ基本大綱/昭和二〇年六月八日 最高戦争指導会議決定─54
空襲激化に伴ふ民心の動向/昭和二〇年七月 内務省警保局保安課─62
沖縄島失陥に伴ふ民心の動向/昭和二〇年七月一〇日 内務省警保局保安課─66
流言蜚語取締状況/昭和二〇年八月 内務省警保局保安課─74
罹災者、とくに壕舎生活者の生活断面/安藤政吉─78

第四章 空襲被害状況─87

太平洋戦争による我国の被害総合報告書/昭和二四年四月 経済安定本部調査─89
全国戦災都市空爆死没者数一覧/昭和三一年 全国戦災都市連盟調査─116
全国一四七都市戦災調査/昭和四三年「週刊読売」編集部編─121
日本本土空襲概報/昭和五〇年 東京空襲を記録する会編─149

第五章 空襲下の生活日誌・東京空襲を記録する会編─173

第六章 「空襲を記録する運動」 一〇年史・斉藤秀夫─207

座談会 空襲を記録する運動──その歴史と継承──143
出席者(五〇音順)─今井清一/黒羽清隆/小山仁示/早乙女勝元/松浦総三

付 録 ドレスデン空襲・斎藤瑛子─283

刊行を終えて─307



●刊行を終えて

『日本の空襲』(全一〇巻)も、ついに最終巻のあとがきを書く時がきた。

 思えば、この企画の出版を三省堂が受けてくれたのは、一九七六(昭和五一)年末のことだった。完成までに五年間もの歳月を要したことになる。空襲・戦災を記録する運動が、全国的な流れになってからは、実に一一年目になる。私たちの運動は、去年から今年にかけて、時代のファシズム化と相俟って、新しい段階に入りつつあるように思う。そこであらためて、これまでの足どりをたどってみたい。

 空襲・戦災を記録する運動が開始されたのは、一九七〇(昭和四五)年夏であった。

 その年は、日本の津々浦々を震憾させた一九六〇年安保闘争の一〇年目にあたったが、大衆的なデモのうねりにはならず、いろいろな事件が起こった。創価学会出版妨害事件、よど号ハイジャック事件、プロ野球黒い霧事件。大宅壮一と三島由紀夫が死んだ。東京空襲を記録する会のスタートは、これらの事件に劣らず大きく報道された。戦災後二五年目のことで、東京空襲について、これだけ大量の報道がなされたのは、戦後初めてのことである。

 記録する会発足以前には、原爆に匹敵するほどの大空襲を受けながら、いや、あまりにも被災が深刻すぎたためか、戦後四半世紀にわたって、空襲を記録しようという動きはなかった。戦災についての報道も全く少かった。マスコミの流れの中で、“反戦ブーム”や“戦記ものブーム”はあったが、“空襲フーム”らしいものは影もかたちもなかった。戦後の占領下には、原爆と焼夷弾空襲は、全く禁止されたわけではないにせよプレス・コード(新聞遵則)で、戦災の惨禍を伝える記事は占領政策違反とされたのである。

 こうした中で、体験者の証言ゼロの公的な資料集『東京都戦災誌』(東京都)が刊行されたのは、講和後二年目の一九五三年である。そのころ、米国戦略爆撃調査団報告をデータにして武谷三男の『みな殺し戦争としての現代戦』も出版された。五四年三月一日、ビキニの水爆実験で第五福竜丸が被爆し、「死の灰」を浴びて船長が死んだ。同事件により、戦後日本の最大の平和運動ともいうべき原水禁運動が澎湃として起ったが、運動の中心は原水爆反対のみであり、空襲・戦災は含まれなかった。この間に、空襲・戦災の記録・資料といえば、内田百閒(『東京焼尽』)、永井荷風(『断腸亭日乗』)、大屋典一(一色次郎)、早乙女勝元、有馬頼義などの個人的記録が、散発的に出版されたにすぎない。

 一九六四(昭和三九)年、日本政府は無差別爆撃の直接的な指揮者カーチス・ルメイ将軍(当時米空軍参謀総長)に対し、日本の航空自衛隊建設に貢献したとの理山で、勲一等旭日大綬章を贈った。翌六五年、政府は日韓条約を締結した。同年、アメリカは北ベトナム爆撃を開始し、佐藤内閣は“北爆”を支持した。日韓条約は韓国にたいする再侵略に途を開くもの、“北爆”は沖縄基地から行われているとして、日本の民主勢カは、まなじり上げて反対運動にたちあがった。

 とくに、ベトナム戦争反対と“北爆”反対は国民の合言葉となり、市民・学生・労組など各階層による平和運動は大きなうねりとなった。六〇年安保以来沈滞していたマスコミも再生した。「安保で死んだ報道は.ヘトナムで蘇った」ともいわれた。アメリカのB52爆撃機の下のベトナム人民のたたかいや生活がなまなましく報道されているうち、日本人はおなじアメリカのB29に爆撃された恐怖の日々を思い起こし、かって被害者だったものが一転して加害者になった悔恨に悩み、それが空襲・戦災を記録する運動の思想的背景になった。

 空襲・戦災を記録する運動の端緒は、一九七〇年に、東京空襲を記録する会の創立と共にはじまる。

 東京空襲を記録する会は、ベトナム報道を精力的に続けた新聞と放送の協カと、革新都知事の経済援助によって幸運なスタートをきり、都民参加による総合的な大資料集『東京大空襲・戦災誌』(全五巻)を完成した。この編集作業と並行して「空襲を記録する会全国連絡会議」が結成され、運動は全国各都市に広まった。なにより、戦争で最大の被害を受けながら戦後の繁栄の恩恵に浴すことが少かった庶民大衆の参加と協力があった。戦争による庶民の犠牲をあきらかにし、庶民の立場から戦争の本質を問いなおす仕事は、ルメイ将軍に最大級の勲章を贈った政府はもとより、官僚や大資本の立場からは不可能である。このような庶民大衆が、東京だけでなく全国各地の記録する会のたしかな基盤となり、「空襲・戦災を記録する会全国連絡会議」をも発足させたのである。

 「全国連絡会議」の第一回集会は、一九七一年八月に東京で開かれた。参加したのは、ごく少数の団体にすぎなかったが、年を追うごとに増えつづけ、第二回東京、第三回名古屋、第四回横浜、第五回神戸、第六回宇都宮、第七回岡崎、第八回福山、第九回高松、第一〇回那覇、そして第一一回は、本年八月小田原(箱根)で開催された。

 第一回、第二回はそれぞれの経験と情報を交換することでいっぱいだったが、第三回には、空襲・戦災を客観的に記録するためには必要不可欠な、占領時代にアメリカに押収された資料の返還と公開を要求することが決議された。この決議にしたがって「アメリカ押収資料の返還・公開を要求する会」がつくられ、国会へ陳情した。国会の法務委員会でも、何回か質疑応答が行われ、会はその都度資料を提出した。この会は、その後の情報公開運動の先駆をなすものである。

 第四回の横浜の集会では、記録が完成した後は、その資料によって、空襲・戦災記念館をつくる運動を起こすことが決議された。この記念館づくりの運動は、すでに広島や長崎では歴史的なものが建設され、沖縄が後に続くが、仙台、大阪、神戸などでもそれなりの成功を収めている。第五回目の神戸集会になると、参加団体も飛躍的に増加し、「全国連絡会議」は毎年八月の一つの行事となった感があったが、すでに戦災誌の編集を完了した都市も多くなった。全国の体験証言、資料集を集大成しようということが発議されたのもまた必然であろう。

 これにより『日本の空襲』の出版は、第六回全国連絡会議(宇都宮)で、東京より提案され、第七回(福山)で具体化し、第八回(岡崎)で最終決定した。さらに第九回に至って、各巻の担当が決まり、一九八〇年の春から出版が開始されるということになる。

 次に、その間の若干の経緯を書いておきたい。三省堂が渡辺忠治氏(未央社)の仲介で、出版を引き受けてくれたのは七六年冬だった。しかし、七七年はほとんど討議に終始した。東京の松浦総一、早乙女勝元、石上正夫、土岐島雄、横浜の今井清一、斉藤秀夫などで、月に一回ぐらいの割合で編集会議が開かれた。

 さて全体を何巻とするか、各巻を都市別地方別に編集するとして、広島・長崎をどう扱うか、東京だけを一巻で扱うのは妥当か、沖縄を独立させるべきかどうか。さらに、各巻の責任編集者を学者を中心にすべきか、運動の中心人物とするべきか。議論は白熱したが、会議は踊るだけで決議されることは少く、作業は遅々として進まなかった。

 しかし、すでに矢は弦を離れた。タイトルを『日本の空襲』と決めたのは三省堂の今井克樹氏の決断であり、担当の重責を担ったのは同社出版部の山口守氏である。七九年春、もうこれ以上会議を重ねても空転するのみとみて、小田幸平(岡崎)、君本昌久(神戸)、岡田智昌(福山)の上京をうながし、これに松浦、早乙女、今井が加わり、集中的な討議を経て、地方別担当をそれぞれ決定した。当初の予定は全八巻で最終巻が「九州・沖縄」篇だったが、その後、九州・沖縄合同会議の結果、それぞれを独立した巻とし、第八巻「九州」九州連絡会、第九巻「沖縄」池宮城秀意、これに補巻資料篇を加え全一〇巻と決定した。

 作業は具体化した。八〇年四月に、第三巻「東京」と第六巻「近畿」が刊行され、以後、第一巻「北海道・東北」、第五巻「愛知・三重・岐阜・福井・石川・富山」、第二巻「群馬・埼玉・栃木・茨城・千葉・東京都二三区外」、第七巻「中国・四国」、第八巻「九州」、第四巻「神奈川・静岡・新潟・長野・山梨」を刊行し、第九巻「沖縄」と補巻資料篇も、ようやくここに完結の日を見た。

 かくて、『日本の空襲』(全一〇巻)の刊行を終了するわけであるが、この編集作業に要した二年間は、平和を願う人びとにとって、最悪の時代へ進みつつあることを思わせる。

 一九七九年末、ソ連のアフガニスタン侵攻以来、日本のマスコミは“ソ連脅威論”に傾斜し、死の商人の代表は徴兵制を唱え始めた。政府・自民党は、衆参ダブル選挙に大勝した後、霧骨な憲法改悪論議をあおり、軍国主義への途をひたすら歩きはじめた。一九八一年はさらにキナ臭い匂いが濃厚となり、軍靴の音が急迫した。国家総動員法を思わせる行政改革、ソ連の北海道上陸を仮想した日本海の日米合同演習、米原潜の日昇丸当て逃げ事件、核武装空母ミッドウェイの横須賀“帰港”、日本首脳は核持ち込みを承知していたというライシャワー発言、教科書の公然たる検閲、福祉切捨て……。

 そればかりではない。「強いアメリカの再生」を掲げるレーガン政権は、限定核戦争戦略にもとづく中性子爆弾の生産を強行し、これに呼応するかのように日本国内では、国民の思想動員まで含めた自衛隊参戦のための体制が着々と進行しつつある状況は、まさに“新たな戦前”に突入しているといっていい。もはや、空襲・戦災ははるかな過去のことではなく、すぐ目前のことになりつつある。しかし、『日本の空襲』(全一〇巻)に心の底の深い傷痕をえぐり重い筆を執った人びとをかりたてたものは、戦争の暴虐を再び許してはならぬ、という堅い決意以外の何ものでもなかっただろう。今こそ私たちは、声を大にして、空襲・戦災による民衆の惨禍を訴え叫ぶ必要があると思う。

 本書が、全国各都市の戦争を知らぬ世代に広くふかく読みつがれ語りつくされ、声が声を呼んで、現在から未来への確かな平和のエネルギーと、どこかで必ず堅く結び合うことを信じて疑わない。

   一九八一年盛夏

日本の空襲編集委員会
代表 松浦総三
早乙女勝元
今井清一

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