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  日本の街道ハンドブック 新版

日本の城ハンドブック 新版

小和田哲男 監修

1,500円 A5変 304頁 978-4-385-41050-7

歴史愛好者・城ファンのための小事典。北海道から沖縄まで、日本の古城・名城239の歴史と現状を簡潔に解説。城にまつわる伝承・伝説、戦国武将のプロフィールも紹介。図版160点。巻末に城郭用語事典。本書は1984年4月30日にサンレキシカ・シリーズ 7「日本の城事典」の書名で刊行された。

1933年 7月 1日 初版発行
2005年11月 3日 発行

序 歴史のなかの城 目次 北海道・東北・関東の城 東海・甲信越・北陸・近畿の城 中国・四国・九州・沖縄の城 見本ページ(松本城) ハンドブック・シリーズ



●序 歴史のなかの城

小和田哲男

戦乱の歴史と城の発達史

 城といえば多くの人は江戸時代の近世城郭のことを思い浮かべるにちがいない。それも、石垣とか堀だけの城ではなく、白堊の天守閣がそびえるような城であろう。

 しかし、城の歴史からみると、そのような白堊の天守閣に代表されるような城の出現は、実は、きわめて新しいことなのである。極端ないい方をすれば、城の歴史は、人類の歴史とともにあったといってもよいのではないかと私は考えている。

 人と人が戦い、殺しあいをするようになる前から、原初的な城はあった。それは、集落のまわりに堀を掘る環濠集落がすでに縄文時代の村から発見されていることからも明らかで、野獣から自分たちの身を守る何らかの備えをしたことから城の歴史ははじまったといえる。

 よくいわれるように、城という字は「土」と「成」という二字から成っている。土によってできたものともいえるし、「成」を「盛」とみて、土を盛りあげた構築物が城だったとみることもできる。

 事実、「城」という字は「しろ」「じょう」ともよむが、「き」ともよみ、古代、九州の大宰府の守りのために築かれた水城は「みずき」である。「き」は、関・垣・牧などに共通する、内と外とを限るといった意味で使われており、土を掘り、その掘った土を盛り上げて外敵から身を守る構築物がそもそもの城であった。

 弥生時代になり、人間同士が戦うようになってからは城の必要性が増し、守りを強化するための工夫もはかられるようになり、城は発達するようになる。戦乱が城を発達させたといっても過言ではない。

 そうした中で、古代律令国家が、西南防備のため、さらに、東北の蝦夷征討の足場として築いた城柵があらわれる。各地の古代城柵の発掘調査が急速に進んだ結果、これまでは『日本書紀』などの文献史料でしか明らかにされてこなかった古代城柵の姿がわかるようになってきたのである。

 戦乱が城を発達させたということは、その後の日本歴史の展開からも裏づけられる。戦乱がたえなかった南北朝内乱期と戦国期に、やはり城が発達しているからである。

 南北朝内乱期の城がけっこう残っているが、多くの場合、南朝方の城だったところである。それは、南朝方が山岳ゲリラ戦をくりひろげ、そのため、山城を築いたからである。南朝方の築いた山城は、大抵の場合、人里離れたところに位置しており、その後の歴史において使われることがあまりなく、遺構がそのまま残るということが多かった。それに対し、北朝方の武将の築いた城は、街道や集落に近かったり、また、峻険な場所というわけではなかったので、室町・戦国、さらには江戸時代に城地として再利用されることが多く、残りにくかった側面がある。

戦国の城から信長・秀吉・家康の城へ

 応仁・文明の乱の戦火が地方に飛び火した一四八〇年代の後半から戦国時代に突入する。現在の通説的理解では、豊臣秀吉の小田原攻めによって天下統一が成った天正十八年(一五九〇)までを戦国時代とよんでいる。「戦国百年」というわけだ。

 その間、戦国時代という名の通り、各地で戦国大名同士の戦いがくりひろげられた。合戦の場所は、原・川原・峠など、すなわち野戦で決着がつけられることもあるが、より多いのは、城をめぐる攻防戦だった。

 城を守る側からすれば籠城戦ということになり、城を攻める側からすれば攻城戦である。もちろん、城を守る側は落とされまいとして工夫を重ねる。城への出入口、つまり虎口が複雑になってくるのはこの「戦国百年」の間であった。知恵と工夫の足跡、それが戦国城郭発達史だったのである。

 そうした戦国争乱を戦い抜き、最終的に統一の覇者とよばれるのが織田信長・豊臣秀吉、そして徳川家康の三人である。この三人も当然のことながらわが国の城郭発達史に大きく貢献している。信長からみていこう。

 信長の場合、特筆される点が二つある。石垣と天守閣である。戦国武将が築いた城をみると、たとえば南近江の六角氏の本拠だった観音寺城のように、すでに石垣を積んでいるケースもあった。しかし、多くの場合は、せいぜい三段か四段で、石垣というよりは土止めの石積といった程度だった。

 信長は、天正四年(一五七六)、その観音寺城の隣りの安土山を城地にし、安土城の築城にかかるが、そこで、近江の石工集団だった穴太衆を使って本格的な石垣作りの城にしているのである。観音寺城の石垣、さらにはその近くの百済寺や金剛輪寺などの石垣をまねたものと思われる。

 ちょうど、種子島に伝わった鉄砲が全国的に普及する時期でもあり、土塁のままの城より、石垣の方が堅固だという安心感も手伝って、石垣作りの城が広まることになった。

 この、土塁の代わりに石垣が積まれることで、城の歴史は大きく変わっている。というのは、土塁の城では、土塁の端まで建物を乗せると、土塁が崩れた場合、建物が崩落するおそれがあるのに対し、石垣だと、崩落のおそれは少なく、天端ぎりぎりまで建てることができたからである。このことが、天守閣などの大規模建造物を可能にした。

 そして、もう一つの天守閣であるが、信長は安土城の前の岐阜城で「天主」とよばれる高層建築物を建てており、安土でも「天主」を建てている。これがのちの天守閣のはじまりであった。

 その信長のあとをついだのが秀吉で、秀吉の場合、注目されるのは、城を巨大にしたことである。天正十一年(一五八三)から築城がはじまった大坂城はそのよい例で、大きさだけでなく、城の内部の装飾もみごとで、文字通り、豪華絢爛そのものである。そこには、戦う城から見せる城への、城そのものの位置づけの転換もみられる。

 秀吉は、「あんなに大きく豪華な城を作る秀吉にはかなわない」と、敵対しそうな戦国武将の戦意を喪失させることをもくろんだのである。戦わずに勝つという秀吉の戦略を地でいったものといえる。

 そのため、豪華絢爛さをさらにきわだたせるため、城の瓦に金箔を押したのである。金箔が目立つためには、素地は黒がいいというわけで、秀吉の築いた城はいきおい、黒の下見板張りとなる。つまり、黒い城というわけだ。秀吉系の武将たちが築いた城に黒い城が多いのもそのためである。

 それに対し、家康は白漆喰を用いた白壁の白を築いている。防火の目的もあったらしい。これが白い城というわけで、近世城郭が白堊の天守閣に象徴されるようになるのは、関ヶ原合戦後、家康の論功行賞で新領地を得た大名たちが、家康好みの白い城にしたからであった。

江戸時代の大名と城

 元和元年(一六一五)、大坂夏の陣が終わった直後、幕府は元和一国一城令を出す。一つの藩に、藩主が居住する城一つを残し、あとは廃城にせよという命令である。

 それまでは、戦国時代の延長で、大名本人が居住する城のほか、一族や重臣が居住する支城がいくつもあったわけであるが、幕府はそれら支城を破棄させている。

 ところで、江戸時代、一万石以上の者を大名といい、その統治組織や領土を含め、ふつうには藩とよばれている。江戸時代を通じて若干の変動はあるが、大体、二六〇から二七〇藩である。「三百諸侯」というのは、概数をいったもので、多いときで二八〇程度であった。ちなみに、版籍奉還時は二七六である。

 では、藩主、すなわち大名は全員、城をもてたのだろうか。答えは否である。大名を格式によって、国主(国持)・准国主・城主(城持)・城主格と無城に分ける分け方があり、無城の大名はその名の通り、城をもてなかったのである。城をもてたのは一七〇から一九〇藩であった。無城の大名は陣屋を設け、藩政をとりしきっていた。

 「武家諸法度」で新規の築城はもとより、修理に際しても幕府に届け出なくてはならず、幕府による城郭統制は徹底していた。また、落雷で城の建物が焼失することも多く、城の維持・管理は大名たちにとってかなりの負担になったことは事実で、幕末には藩財政が逼迫するところも出てきた。

 そして、明治維新を迎えるわけである。明治二年(一八六九)の版籍奉還、同四年の廃藩置県によって城はその存在意義を失い、城地はひとまず兵部省の管轄するところとなった。

 その結果、旧大名のほとんどが東京へと移住することになり、城は取り壊されることとなった。城が封建遺制の象徴のようにとらえられたのであろう。実際、その翌年には、かつて全国で二〇〇近くあった城が、わずか五八城を残して払い下げられてしまったのである。

 払い下げられた城は競売に付され、建物は壊されてしまい、残った城も、その後、軍用地として師団や連隊が置かれ、堀が埋められるなどして江戸時代のおもかげをとどめなくなってしまった。

 そうした受難の歴史を乗り切った城も、今度は一九四五年のアメリカ軍の空襲などによって焼失したところも少なくなかったのである。現在、江戸時代の天守閣がそのまま残っている城は全国で一二城しかない。



●目  次

序 歴史のなかの城

 戦乱の歴史と城の発達史 戦国の城から信長・秀吉・家康の城へ 江戸時代の大名と城

北海道・東北の城  松前城、弘前城、久保田城、山形城、二本松城、会津若松城など27城。

関東の城

 宇都宮城、館林城、忍城、石神井城、小田原城、佐倉城など38城。

東海の城  駿府城、二俣城、長篠城、岡崎城、犬山城、郡上八幡城など28城。

甲信越の城  小諸城、松本城、上田城、高田城、長岡城など20城。

北陸の城  富山城、金沢城、七尾城、一乗谷城、金ヶ崎城など14城。

近畿の城  伊賀上野城、安土城、彦根城、伏見城、和歌山城、姫路城など40城。

中国の城  鳥取城、松江城、備中松山城、福山城、岩国城など21城。

四国の城  丸亀城、伊予松山城、大洲城、宇和島城、高知城など16城。

九州・沖縄の城  小倉城、佐賀城、唐津城、平戸城、島原城、首里城、今帰仁城など35城。

城郭用語小事典

城絵図(8点)

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