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からだ言葉・こころ言葉

からだ言葉・こころ言葉

秦 恒平 著

1,400円 B6変型判 216頁 978-4-385-36100-X (品切)

「からだ」と「こころ」にまつわる言葉─熟語・ことわざ・慣用句等について、著者ならではの含蓄に富む解説と奇抜なさし絵(下谷二助氏)でたどる興趣あふれる本。日本語の核心が、そして日本が見えてくる。

 まえがき
 初出一覧
 目  次
 見本原稿
 気の多い話──あとがきにかえて

2002年 10月30日 発行



 ●まえがき

「からだ」から「こころ」への旅

秦 恒平

 「こころ」か「からだ」かといえば、「からだ」の方にはやく好奇心をもった。皮膚を切り裂いたり分解したりはできなくても、関心を寄せるに足る微妙なものを、「からだ」は、あちこちに持っていた。痛かったり、くすぐったかったり、痒かったりした。血が出たし、腫れたし、膿んで崩れたりした。赤くなり青染んだ。

 ことに「手」は、開いても握っても、曲げても伸ばしても、皺ひとつの伸び縮みまでが、石川啄木ではないが、「ぢつと見」ていて不思議だった。

 「からだ」のいたるところに名がついていた。その名が、また、不思議だった。名前に安住していない。行儀のわるいほど名前から意味がはみ出し、溢れていた。そのことに、比較的はやく気がついた。

 「頭が痛い」のも「骨が折れる」のも、べつにほんものの頭痛や骨折を起こしてもいず、別の意味が付着していた。面白かった。「面白い」にしてから、べつに顔が白い意味ではなかった。だが、どこか顔色が晴れるほどの感嘆や感動があるから「おも白い」のだと分かっていた。そういう機微が、子供心に面白かったのである。

 最初は、「手」への興味が優先してひろがった。

 なにごとにも、たとえば玩具をはじめて使ったり、ゲームをはじめて覚えたりするのに、まず費やす努力は「手順」「手続き」というか、何からはじめて、次にはどうして、あげくどう成って行けばいいのか、うまく仕上げたり早く勝ち上がったりするための「手」の使い方を会得しなければならない。

 「じょうず」なら人の「うわて」に出て「かみて」を占め、「じょうて」の結果を作りまた用いて、「じょうしゅ(じょうず)」と敬意を払われる。「へた」ならやむをえず「したて」に出てはついつい「しもて」に立ち、「げて」ものしか作れず使えずに「げしゅ(げす)」扱いに甘んじねばならない。文明の歴史はじまってこのかた、おおかた、人と人との位取りは、どうも、そんなようにして為されてきた。しかも、その全貌が「上手」「下手」というたったの三文字で言い表せる。これはすごい。面白い。

 「手さぐり」の「手当たり次第」からはじめた人間が、いつしか「手順」「手続き」という文化をもちはじめて、しかもそれらを、より良く、より良くと「手直し」し続けてきたのだと思うと、「手」はほんとうに面白い生き物であった。いわば自由のひとつのシンボルだと想われてならなかった。「手」で、たくさんな道具を順序よく美しく用いつづけて、一座を建立して行く「茶の湯」という遊藝を子供の頃から叔母に習い出したことも、決定的に「手」への興味を増幅した。「手は面白い。出した先で世界が動く」と実感できた。

 その興味が高じて『手さぐり日本・「手」の思索』(筑摩書房)という本を書いた。「技術と人間」という雑誌にまず連載し、それから本にした。いまでも「秦恒平・湖(うみ)の本エッセイ」のシリーズ(4)で読むことができる。

 しかし「手」だけで興味はつきてしまうことはなかった。「からだ」の各部位に熟した物言いが面白くてたまらず、エッセイを書くかたわら「からだ言葉」を拾い集め、語彙集をつくりたくなった。ついでに「こころ言葉」へも手をひろげ、それは、「こころ」と「からだ」とを相関させて、逆に「ことば」の働きを確認するのにも役立った。面白くて楽しい作業だった。創作の、まこと格好の骨やすめにすらなってくれた。「骨やすめ」も、また、なかなかの「からだ言葉」であり、それに相当のことをべつに言おうとすればかなりの言葉数を必要とするだろう。

 「頭が下がる」「目が高い」「地獄耳」「口の減らぬ」「鼻っ柱」「首がまわらぬ」「顔役」「歯向かう」「腹藝」「胸三寸」「肩すかし」「腰抜け」「尻ごみ」「爪はじき」「舌打ち」「お膝元」「顎を出す」「背に腹はかえられぬ」「揚げ足」「肘鉄」「掌をかえす」「唇を噛む」「頬笑む」「乳臭い」「股旅」「胴上げ」「臍(ほぞ)を噛む」「腕が立つ」「雨脚」「後ろ指」「拳をふりあげる」「脛をかじる」「股(もも)引き」「踵(きびす)を次ぐ」「脇役」「節回し」「一肌脱ぐ」「嘘の皮」「皺寄せ」「瘤付き」「裸になる」「毛並み」「うしろ髪を引かれる」「眉に火がつく」「腸が煮える」「肝が太い」「心臓が強い」「身の程」そして「血も涙もない」「唾を付ける」等々、みな同じことが言える。

 特徴的なのは、語源さだかでないものが多いのに、意味不明といったものが、無い。また、あまり褒めたものがなくて、どっちかと言えば「手きびしい」ものが多いのである。そしてこういう「からだ言葉」に裏打ちして、「心根」「心がけ」「心得る」「心構え」「心づかい」「心丈夫」「心の程」「心から」等々無数の「こころ言葉」も味わうと、どんな観念論より勝った「からだ」「こころ」の貴重な索引に思われてならなかった。これは即ち「日本人の言葉」であり、それ以外のなにものでもない。それなら、ここから「日本」が見えて来るに違いないと思って、「からだ日本誌」「こころ日本誌」も試みた。

 私ふうに「こころ見た」のであるが、「こころ見られる」ことにもなった。

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 ●初出一覧


「からだ日本誌」──「共同通信」1992年4月〜1993年3月
「こころ日本誌」──「共同通信」1993年4月〜1994年3月
「古典の、こころとからだ」──書き下ろし
「恋の、こころ言葉」──「言語生活」1987年4月号
「からだ言葉と日本人」(原題「ことばと暮らし」)──NHK文化講演会(1984年1月、和歌山県新宮市にて)

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 ●目  次

「からだ」から「こころ」への旅 1

からだ日本誌 9

手はじめ 10/身にあまる 11/口を出す 12/目はながつく 13
うつつ顔 15/決まり手 16/二枚腰 17/足を出す 18
肩書 19/手落ち 20/顔役 21/尻をもちこむ 22
手八丁 23/頭に来た 24/太っ腹 26/頬笑む 27
皺寄せ 28/手くばり 29/耳ざわり 30/合い口 31
変わり目 32/あごあし 33/奥の手 34/目が光る 36
脛をかじる 37/骨惜しみ 38/手がたい 39/鼻をあかす 40
お手のもの 42/裏腹 43/腕前 44/骨抜き 45
手ぐすねひく 46/眉唾 47/腹藝 48/及び腰 49
手だて 50/目にとまる 51/口車 52/手先 53
面白い 55/毛嫌い 56/ハダカになる 57/ひと皮むける 58
手加減 59/歯痒い 60/へそくり 61/頭が切れる 62
鼻つまみ 63/腹が立つ 64/首ッたけ 65/手じまい 66

こころ日本誌 67

しづ心なく 68/無心 69/こころみる 70/気は心 71
心細い 72/心根 73/心丈夫 74/心を配る 75
心やすい 76/大きな心 77/心づかい 78/心の糧 79
心外な 80/心ここにない 81/心おきなく 82/心にもなく 83
心の程 84/心から 85/心貧しい 86/心も軽く 87
下心 88/こころもち 89/はやる心 90/心劣り 91
心変わり 92/心得た 94/こころよい 95/こころにくい 96
魚心あれば水心 97/心の鬼 98/心苦しい 99/なにごころ無く 100
手心 101/心づけ 102/心化粧 103/心行く 104
心ざま 106/心ならずも 107/心がまえ 108/心あたり 109
心がけ 110/心ねじけた 111/心ときめき 112/心底見えた 113
心づくし 114/心のこもった 115/心中 117/心せよ 118
心迷い 119/心を許す 120/心まかせ 121/こころ・ごころ 122

古典のからだ言葉・こころ言葉 123

古典の、こころとからだ 124
恋の、こころ言葉 156

からだ言葉と日本人ことばと暮らし 175

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 ●見本原稿

手はじめ

 人間だけが「手」をつかうのでは、ない。しかし人間だけがつかう「手」が、ある。たとえば売り・買いをする。それに金銭を用いる。こういう「手」を考えだして、暮らしや世渡り、さらには世の中というものを造りあげてきた生き物は、人間よりほかにいない。

 人の何ももたない手─素手─は、ある意味で不気味である。手の出たさきで、世界が動く。ひとつ間違って誰かが核や何ぞのボタンを押そうなら、地球も壊れかねない。

 胴体にくっついた二本の手は、ごく短い。にもかかわらず人は、おびただしい「手」をつかう、遠く、広く、あけッぴろげに、またかげへまわして。その、あの手この手は、政治にも経済にも学問研究にも、また恋にも戦争にも、また藝術藝能にも、碁将棋や相撲にも、むろん製作・生産にも、無際限に伸びた。あまつさえ遙か宇宙にまで伸びた。

 おもえば人類歴史のそもそも「手はじめ」に、人は、なにへ、どう、どんな「手」を出したのだろう。道具へか。異性へか。食物へか。その「手あたり次第」の「手さぐり」から適切な「手順」「手続き」をみつけ出し、また「手直し」していく、微妙な段取り。いろんな「文明」のちがいは、その辺から始まったかもしれない。

身にあまる

 人の「からだ」には数えきれないほど、部分部分に名がついている。頭、手、足、顔。顔のなかには、目、耳、鼻、眉、頬、額、そして口がある。口のなかにも、舌も歯も喉(のど)もある。胸、腹、背、肩、胴、尻、腰。性器になると方言や隠語も多い。そして内臓。分泌物には、涙や唾や汗があり、むろん肉体の一部に、血のことも忘れてはならない。

 「手はじめ」で始めたから、察しのいい人はたやすく見当がついただろう。「目利き」「地獄耳」「鼻じろむ」「眉をひらく」「頬かむり」そして「口を割る」等々、部位本来を超えて出た、はみ出した、まこと「身にあまる」と言いたいほど面白い「物言い」や「表現」が、無数に我々の「からだ」にはまつわりついている。

 これを「からだ言葉」と名づけ、以前に、辞書までわたしは作ってみた。一つ一つの表現力の確かさ強さに驚いた。しかも日本人なら、だれもみな、ほぼ正確に意味を察している。たとえば五体にあふれる意味で「身にあまる」などと言ってみたのは、「からだ言葉」としては正しくないと、たいてい分かる。分かった上で「身にあまる」なんて結構なハナシのめったに無いことも、くやしいが、我々はあまりによく分かっているのである。

口を出す

 金は出すが「口は出さない」、いや出せない日本であることを、国をあげ世界中に示したのが、何年も昔の湾岸戦争であった。そういう日本でこの先もやっていけないと、よほど日本政府は懲りたらしい、昨今は金も出して軍艦や兵士まで送り出している。そのくせ、割り前負けしないほど「口を出し」てはいない、やはり誰かさんの言いなりに、従順、従順。しかし人の世では、企業でも家庭でも、金は出さずに「口を出す」例が多いと、昔からその方が相場だ。出す方は出しつづけ、「口をつぐむ」側はつぐみっぱなし。

 いやいや、わが事となれば、だが出すべき口は出さねばならぬ。沈黙は金であるのかもしれないが、たとえ銀でさえなく銅であろうが「口下手」であろうが、それでも「口を出し」「口を利く」ベきは、ハッキリと出したり利かしたりした方がいいと、わたしは思う。憶病に「口をふさがれ」、卑屈に「口封じ」をされていては、あげく「口に糊する」こともできなくなる。そういう口から、「口べらし」の対象にされてしまう。「口はわざわいの元」というのは、言えている。「さし出口」や「へらず口」にはそれが言える。けれどだれかの「口先ひとつ」で尋常な世渡りの「口を奪われ」ていいはずがない。

目はながつく

 ひょっとして「目端がつく」のかもしれない。つまり目に見えたとッかかりが、やっとできた意味。意味はほぼ変わりなく、「目鼻がつく」のも、その物なり事なり人なりに、それ相応の顔が見えてきたという仕儀に相違ない。たとえば雪だるまを作っていて、おおきな白い雪だまに目を入れた、鼻もできた、やっと顔らしくなった、けれど仕残した眉もある、口もある、耳もある、といったぐあいであろうか。

 する事なす事に、その顔が見えてくるまでは、辛抱が要る。いい顔に出会いたければ、目鼻立ちのためにも周到な用意はほしいし、事が大事であればあるほど「あばたもえくぼ」なんぞと、雑な「目こぼし」は禁物である。商いは、飽きないこと。とは言え、商いだけの話でもない。

 辛抱仕事に一字一句をつらねて行くわたしらの小説を書く仕事でも、ほんとうに「目鼻がついてくる」までには闇を「手さぐり」の長い長い模索がつづいて、じつに心細い。それだけに事成就へ「手がかり」「手ごたえ」が感じられてくると「息をのむ」のである。だが、急いては事を仕損じる。日本人は、せっかち過ぎる。「眉目(みめ)よく」「目鼻がつく」までを、我慢して待つことも日々に覚えねばと思う。

決まり手

 「からだ言葉」には、と言っては逆だろう、相撲の決まり手には「からだ言葉」が、当然だろう、けっこう有る。「決まり手」にしてから、それである。テレビを楽しみながら、勝負の瞬間にその「決まり手」を自分でつける。場内放送の告げるそれとピタリ合うと、相撲の楽しみが二倍になる。微妙にむずかしい「手」のときなど、ちょっと息をのむ。いつも「上手」や「下手」の投げばかりではない、奇妙な「肩すかし」も食う。

 それにしても我々の日常。することなすこと、顧みればなんとも場当たりの「手当たり次第」で、しまりが、ない。びしっと決めた、なんてことはメッタにないのである。

 日々の暮らしは相撲とは違う。あれにもこれにも「決め手」を持って取り組むという、余裕も用意もない。さて顧みて何が、「決まり手」で成功したのか、「後手」の「手損」で失敗したのか、見当さえつかずじまいの場合が多い。また、それで大過なく事は運ばれて行く。

 しかし例えば、例の北方領土などの外交交渉に、出たとこ勝負の「勝手気まま」な立ち合いは困る。「手立て」確かに、こぞって拍手を送れる「決まり手」を見せてもらいたい。

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 ●気の多い話──あとがきにかえて

 気は心という、「気」の多い話をして、この一冊を心地よく結ぼうと思う。

 「気が気でない」といわれて、この「気」について解釈せよと注文されては堪るまい。まだしも「気がある」「気がつく」「気に入る」「気が弱い」「気に障る」「気が知れない」などの「気」の方が見当はつけやすい。それとて相対的に、そんな「気がする」程度だが。

 「気をつけて」ということを、日に、家の者に何度となく言うているそうだ。当の私は「気がついて」いない。しかし無用の一言とは思わない。「気くばり」は、だれにも、いつでも、大事なことの一つに数えていい。その一言で、たとえ小さな怪我の一つでも防げるものなら、ありがたいと思う。

 「気」は、宋学では、殊に大切で難解な学術語らしい。そう思うと付合いにくいが、またこれくらい日本語になり切って、始終使われている言葉も珍しい。

 「お元気ですか、ボクも元気です。」

 むかし、祖父母に書く手紙の書き出しは、うちの息子の場合、きまってコレだった。どうやら、それも、うちの息子に限っていなかったらしい。だが思えばこの「元気」の一語に、何を籠めてものを言っているつもりか、仔細に考えると、含蓄のほどにおどろく。だがまた、実に簡単なことを言っているとも、思い当たる。それが、決り文句というものの特徴なのだろう。「元」も「気」も、いわばいわば難儀の極みの言葉だが、もはやその詮索一切を省いて、日本人は、便利なこの言葉を、日々のアイサツに、「気らく」に「気がる」に、むろん説明抜きに使いこなしている。説明は要らない、誤解のしようもない。それも、決り文句の効用に数えていい。

 「天気」もそうだ、「電気」もそうだ。「磁気」もそろそろその仲間だ。

 「活気がある」「陰気になる」「本気を出す」「妖気がただよう」「殺気がみなぎる」「意気があがる」「正気に返る」「怖じ気づく」など、便利で端的な物言いだ。同じ意味を、言葉数を費して別に言おうとすれは往生するだろう。

 「陽気な人ですね」と「いい陽気になりました」とは、ちょっと向きは違うが、「気になる」ほどは問違えたりしない。

 「人気がある」「人気がない」と書いても、その訓みが、一方は「にんき」で他方は「ひとけ」なら、様子はかなりちがう。けれど意味の上で通い合う「気配」は、ちゃんと有る。「人気」は「人気商売」の人に限らず、それぞれに日々その場その折に応じて「気にかけ」「気にしている」ことの一つだろう。「気受け」は、悪いより良い方が「気がいい」だろう。もっとも、見えすいた「人気とり」は、はた迷惑で「気が悪い」ものだ。

 「気性」のうちでも、「気さく」で「気散じ」というのは、やはり得難い人徳のように思う。そういう人に会うと、私のような「気をはり」「気をもみ」「気をつかう」タチの者は、とても及ばないと思ってしまう。なにかと「気に病む」のだ。かんたんに「気ばらし」が出来ないのだ。「気骨の折れる」ことだ。

 「味気ない」「呆気ない」「危な気ない」「大人気ない」「気がおけない」「気が利かない」「気が知れない」「気が進まない」「気が済まない」「気がつかない」「気がむかない」「気が無い」「気が許せない」「気心が知れない」「気に入らない」「気に掛けない」「気に食わない」「気に留めない」「気にしない」「さり気ない」「素気ない」「なに気ない」などと、こう並べ立ててみると、まったく人間、「気が多い」のにおどろく。「気をつけない」と「気にし過ぎ」て「気が狂い」かねない。いやいや「気にならない」「気にしない」「気の向くまま」にやり過ごすことも、実は、出来なくはない。ドンマイ、ドンマイ、である。

 「いい気にな」ってこうまで書いて来た。が、これでも「気」の話、まだ尽きない。

 「気は心」など、日常会話の範囲を越えて、言葉そのものが、そのまま思想の域に達している。「気位」にしても、「気品」にしても、いかにも日本製の「気」の考えが出ている。そうかと思うと「浮気」「色気」「山気」「侠気」「りん気」さらには「心意気」などと、「気立て」にもいろいろある。「気の強い」者がおり「気の小さい」者もいる。「気の毒」なほど「気の弱い」人もあれば、「気色の悪い」ほど「気障」な奴もいる。

 とにかくも「気づまり」「気疲れ」の多いのは人の世の常、今さら驚かないが、せめて、「気の持ちよう」で済む程度の「気苦労」でありたい。

 なにはあれ、「気をたしか」に、しゃんとした「気持」で「元気に」「気分よく」老境を生きて行きたい。仕舞い弘法の師走二十一日で満六十七歳になるが、それがどうしたと言っておこう。秦の母は九十六歳まで生きた。もう三十年生きねば追いつかないのである。「気の長ーい」話であるからは、よほど「気丈」でないと身が持たない。

 そうだ、「気は、体」と、これを我が新世紀の「からだ言葉」にしようぞ。

    二○○二年十月一日

秦 恒平

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