荷風極楽

写真

松本 哉 著

1,600円 四六 240頁 978-4-385-35899-X (品切)

『永井荷風ひとり暮し』に続く、永井荷風探索の決定版。若き日の荷風の逸話から、谷崎潤一郎との交流、断腸亭・偏奇館などの住い探索、女性の話、葬儀の顛末まで、縁者提供の新資料を含め多彩に紹介。『ふらんす物語』のほろ苦さ/明治の二代目/両雄の青春/狐の出た庭/伝通院/日暮里月見寺/荷風のいた風景/震災の頃/女のかけひき/骨肉の文学/身長のことなど/葛飾あたり見聞記/葬儀の顛末、からなる。

1998年12月10日 発行


●はじめに

 ちょいと情緒に欠けるタイトルかも知れないが、『荷風極楽』つまり「荷風極めて楽し」である。
 荷風に親しむ極楽気分を読者と共にしたいというわけである。

 永井荷風というあの御仁も極めて楽しい生き方をしたのではなかろうか。ありったけの感性を訴えつづけた人である。裏には悩みも苦渋もあったに違いないが、結果として求めた「極楽」をこれまた共感したいと思うのである。

 スケッチや地図やカット絵を書くことも、荷風から得たじつに楽しい作業であった。幸運にも興味深い写真まで手に入った。

 すでに同時代の人と言うには遠い人になってしまったが、今なおこんなにも楽しめるというところを見せられましたかどうか。街歩きの記録、名文章の数々をたどりもするが、荷風の訴えていた文学的感動がまず第一である。それさえあればどんなことを書こうが、どんなものの見方や生き方をしようがかまわない。そんな感動が荷風にはあったはずで、それこそ「極楽」というものであろう。


●荷風のいた風景(本書の一部)

 荷風ゆかりの地というのは一応回ってみなければいけない。そう思ってときどき見歩き、スケッチもしてきた。当然そのスケッチにはなんらかの荷風にまつわる話があるはずなのであるが、「言い古された話を取って付けても、何をいまさら」などと思って衝撃的な話の糸口を考えたりする。その内にいつしか忘れさられてしまったかのような絵がいくつか手文庫の底に眠っていた。
 その何枚かを取り出して眺めてみると、描いた日々のことがさすがに懐かしい。そして、ここ三、四年の間にも、現在では同じ光景を再び目に出来なくなっていることにまず驚く。情け容赦のない変貌で東京の風景はどんどん変わってゆくのだ。これらの絵の中にはいずれも、かつて荷風がいたはずで、いささかなりとも残んの香りくらいは求め得たはずなのであるが、その時代はあまりに遠くはかなき彼方である。荷風を語ろうと訊ねても、風景は何も答えてはくれない。そんな気がするのも無理からぬことなのだろうか。

■大久保余丁町

 こんなに変わってしまっているのに、まだ変わるのかと思ったのがここだ。かつては牛込区大久保余丁町と言っていたが、今では単に新宿区余丁町である。永井家の皆さんがここに越してきたのは明治三十五年。その十年後、荷風の父親はここで亡くなった。敷地内に小さな庵を建て、荷風が仕事場としていた「断腸亭」もここにあった。
 向こうに見えるのが東京女子医大。手前左手に見える三階建てが「余丁町郵政宿舎」で、永井家の跡地として有名だ。道路拡張工事のため駐車場のように見えている場所も元々は永井家だったが、荷風が一人で住むようになって、余りに広すぎるとばかり売り払った半分の土地であるらしい。
 いつぞや古本屋の店先の均一棚で『余丁町停留所』(昭和五十二年、人文書院)という本を見つけて買ってきた。著者は入江相政(スケマサ)。昭和天皇の侍従としておなじみだった人だが、永井家の敷地の半分を買ったのはこの人の父親、入江為守子爵である。その本を開くと次のような一節が目についた。
 「亡父は永井荷風から地所の半分の五百余坪を譲り受けた。私は小学六年生。当然ながら越してからのしばらくは、見るともなく、庭を散歩する荷風の姿を見たものだった。わざわざのぞいたわけではない。少し尾篭で恐縮だが、私の使う便所の窓から、自然荷風のうちの庭が見えた。だから荷風が庭にたたずんだ姿を、一度だけ見たのである」
 半分で五百余坪だったとは、永井家の敷地はいかに広大だったことか。その屋敷を訪れた一人にかの石川啄木がいた。貧困と病弱の内に短い生涯を終えた啄木である。広大な屋敷に住む荷風がどのように写ったか。まあ察するに余りあるが、啄木の書いた文章の一つだけ引用しておこうか。
 「荷風氏の非愛国思想なるものは、じつは欧米心酔思想なり。も少し適切に言へば、氏が昨年まで数年間滞在して、遊楽これ事としたる巴里生活の回顧のみ。彼は日本のあらゆる自然人事に対して何の躊躇もなく軽蔑し嘲笑す。しかして、二言目には直ちに巴里の華やかさを云ふなり。譬へて言へば、田舎の小都会の金持の放蕩息子が、一二年東京に出て新橋柳橋の芸者にチヤホヤされ、帰り来りて土地の女の土臭きを逢ふ人ごとに罵倒する。その厭味たつぷりの口吻そのままに御座候。しかして荷風氏自身は実に名うての富豪の長男にして、朝から晩まで何の用もなき閑人たるなり」(明治四十二年『胃弱通信』)
 荷風の歓楽主義は啄木には通じなかったようである。

■西向天神

 余丁町の荷風旧居にほど近く、現在の新宿六丁目二十一番地にこの神社がある。この絵は真夏の盛りに二日がかりで描いた。一日目に下半分しか描かなかったら、どうも現場の雰囲気が出せなかった。上空に高々と伸びる木々をてっぺんまで描き尽くす必要があると悟り、二日目に描き足したのであったが、東京の風景は横に広がっているばかりでなく、縦に伸びているものでもあることを知った思い出のスケッチである。
 「東都の西郊目黒に夕日ケ岡と云ふがあり、大久保に西向天神といふがある。ともに夕日の美しさを見るがために人の知る所となつた」とは荷風の『日和下駄』の一節であるが、ボクがここをスケッチした理由はここが東京の名所だったからではない。荷風にとっては古い友人が亡くなった場所だったはずで、その話をしたかったのだ。
 本名は井上精一といった人物だが、筆名は通常「唖々」だったが、「夜烏子」とも称した。荷風とは竹馬の友というべきで、中学校時代の同級生であり、荷風曰く「十六、七の頃にはともに漢詩を唱和し、二十の頃より同じく筆を小説に染め、またともに俳諧に遊べり」という仲であった。年齢は荷風より一つ上で、第一高等学校を病気で中退、荷風以上の世捨て人のような暮らしの末、大正十二年七月に四十六歳で亡くなっている。荷風の小説『祝杯』のモデルであり、『夜の女界』という荷風との共著まである。
 その唖々の亡くなったのが当時の東大久保四三八番地、この西向天神祠畔であった。唖々の生涯については荷風の『断腸亭日乗』昭和五年七月十一日の記事に譲るとして、荷風の随筆『深川の散歩』の一節を引用して唖々の人となりを偲んでおきたい。
 「わたくしは夜烏子[唖々の別号]がこの湯潅場(ユ カンバ)大久保の裏長屋に潜みかくれて、交りを文壇にもまた世間にも求めず、超然として独りその好む所の俳諧の道に遊んでゐたのを見て、江戸固有の俳人気質を伝承した真の俳人として心から尊敬してゐたのである。……俳句のみならず文章にも巧みであつたが、人に勧められても一たびも文を售(ウ)らうとした事がなかつた。同じ店に雇はれてゐたものゝ中で、初め夜烏子に就いて俳句のつくり方を学び、数年にしてたちまち門戸を張り、俳句雑誌を刊行するやうになつた人があつたが、夜烏子は之を見て唯一笑するばかりで、其人から句を請はれる時は快く之を与へながら、更に報酬を受けなかつた。
 夜烏子は山の手の町に居住してゐる人達が、意義なき体面に累はされ、虚名のために齷齪してゐるのに比して、裏長屋に棲息してゐる貧民の生活がはるかに廉潔で、また自由である事をよろこび、病余失意の一生をこゝに隠してしまつたのである」
 隔意なき親友はかけがえのないものであったが、唖々こそは荷風の一風変わった生き方の身近な手本でもあった。

■麻布偏奇館跡と居住地一覧図

 谷間をへだてて眺めた麻布偏奇館跡。これもみごとな縦の風景になる。高速道路の都心環状線「谷町ジャンクション」の近くから六本木一丁目の丘を眺見た風景である。深い階段を下って、改めて道源寺坂あるいは御組坂を上ったところが偏奇館跡。そこにはマンションが建っていたが、それもまもなく取り壊されるということだった。足元の谷底のようなところに洗濯物を干している木造家屋はどうなったことやら。この絵を描いた日付は平成七年十二月となっているから、すでに三年経っている。ただでさえ再開発の盛んな場所であったが、向こうに見える城山ヒルズの出現には度胆を抜かれたものだった。おしゃれな名店街と高級マンションが合体した三十七階建てのビルで、まことにバブル景気の象徴みたいな建物だ。
 偏奇館跡に来てみるとヴィラ・ヴィクトリアというマンションの敷地の片隅に標識が一本立っているだけで、荷風在住当時の面影はどこにもない。標識の背後に木造家屋が一軒あったので、そんなのをスケッチしたのだが、ちょうど自転車で通りかかったご婦人から忠告の声がかかった。しきりに右の方を指差し、「このおとなりですってよ」と叫ばれる。偏奇館のあった場所はマンションの建っているところでなく、隣の木造家屋のところだとおっしゃる。そんなはずはないのだが、強いて反論はしなかった。それより、そんな忠告が飛んでくるということは、ここを訪れる人がいかに多いかを物語っている。江戸の残影を追い求めていた荷風が、今や多くの人によって追慕されているのである。 元は麻布市兵衛町と言われたこの地にペンキ塗りの洋館を購入して荷風が住み始めたのは大正九年五月。そして昭和二十年三月九日払暁、空襲で焼かれるまでじつに四半世紀、荷風の最も充実した執筆活動はここで行なわれたことになる。

 ……というようなスケッチ散歩をしてみたが、行きがかり上、荷風がその生涯を東京のいずこを移り住んだか地図で示してみたくなった。大久保や麻布のように長期間定住した場所の他に、仕事や生活、女の都合などで転々と住まいを替えている。大久保では『大窪だより』、麻布では『偏奇館漫録』や『偏奇館吟草』、築地では『築地草』などと住まいの場所を冠した作品も多いことだから、「居住地一覧」地図を作っておくのも無駄ではなかろう。


●自著自讃『荷風極楽』

ぶっくれっと 1998 NOVEMBER No.133」より

松本 哉

 久しぶりの書き下ろしである。永井荷風を書くのはこれで三冊目となるので、それなりの成果と新鮮味を出したいと思っているうちに、ずいぶん時間を費やしてしまった。過去の二冊は『永井荷風の東京空間』(平成四年、河出書房新社)と『永井荷風ひとり暮し』(平成六年、三省堂)であったが、前者は荷風の足跡をたずね、後者は人物像と生き方の面白さを主にさぐってみたものであった。世に「三部作」という言葉があるように、こんどの三冊目では、荷風に関してめでたく完結させたいものだ。
 足跡や生活の実態をより深く探る。どうしてもそんな方向へ行くのであったが、あるとき、ふと疑問がわいた。そんな「研究」みたいなことでいいのだろうか。人を病みつきにさせる荷風の魔力に引きずられるように、どんどん深みにはまってゆくようで息苦しい。書く立場の自分にとっても、それを読まされる人にとっても、そんなしんどいことでなく、嬉々として荷風を楽しむことはできないものだろうか?

 それに、最近の実感として、荷風もだんだん遠い時代の作家になりつつある。ボクが初めて荷風を読んだのはまさに荷風の衝撃的な死からまもなくの頃であった。それが来年で没後四十年、あと十年で著作権の保護期間も切れるのである。そこらをひょこひょこ荷風が歩いていた時代は遠くに去ってしまっているのだ。足跡にしろ人物像にしろ、すでに身近にたどる時期は過ぎた。

 一年くらい前だったが、身辺多事の情況があって、東京と故郷の神戸とを頻繁に往復した。その道中、新幹線の中で読み耽ったのが荷風の『あめりか物語』『ふらんす物語』である。この作品によって荷風は新しい文学の旗手として立ち上がったはずだから、この作品のどこがそんなによかったのか見直してみたかった。

 明治の時代の単なる古い旅行記ではないことに今さら驚き、荷風の原点を十分知ることが出来たような気がした。恋もあれば、異国の美しい風景も語られているが、全編にみなぎる旺盛な創作欲にはげしく感動した。読んでいるこちらが、大いにそそのかされるのだ。本をしばし閉じて、車中もかえりみず、自分の記憶に残る恋の体験をこっそり文章にしてみたくらいである。

 そしてもう一つ。あの二つの『物語』を書いたことが結局荷風のすべてであった。商売女に最高の恋愛を感じ、華やかな表通りではなく不潔な裏通りに最高の美を感じている。それから三十年近く経って書いた『ぼく(=さんずいに墨)東綺譚』という有名な作品があるが、それはあの二つの『物語』を純日本風にしたものだった。わざわざ作り直したのではなく、書いた当人が同じ。舞台が変われど同じ趣向の作品になっているのである。商売女とか不潔な裏通りは、荷風が奇をてらってのことではない。世間の人間や文明に対する痛烈な批判精神が、そこに存在する美を訴えてやまないのだ。

 新幹線の車中では、ビジネスマンらしい男たちがじつに下らない会話をしていた。「なんでおれがあの席なんだ。人を使っている論理自体、わかっていない。バカなんだ」。上役の悪口でさかんにウサを晴らしているらしい。そのようすが、荷風の書いた通りであることにびっくりした。『ふらんす物語』の「晩餐」の章は会社勤めの馬鹿馬鹿しさをみごとに描いていた。おお、荷風は古くない。

 荷風にとっての「極楽」は何だったか、われわれが荷風を読むときの「極楽」とはいかなるものか。三冊目の『荷風極楽』はそんなことで生まれたタイトルである。
 ご縁あって、永井家に眠っていた貴重な写真も収められることになっている。


●あ と が き

 この本を書くに当たってつねに考えていたのは、自分も楽しいし、読む方も楽しいというものにしたかったことだ。ごく当たり前のことのようで、つい邪魔が入る。荷風を取り上げている数多の書物、それらを書いた著者たちに負けまいといったケチな根性。これがずいぶん自分を苦しくさせた。誰しも得手不得手があって、負ける負けないなどでなく、個性が分かれ目なのはわかっているが、ずいぶん小難しい道に入りかけて苦労したものだ。しかし、考えてみれば荷風は時代的にかなり遠い人だとわかったことが、気持ちを楽にさせた。来年で没後四十年、今や荷風の何もかもを理解しようとしても無理なのだ。今の自分が勝手に楽しもうということに相成って急にはかどった。

 「両雄の青春」「葛飾あたり見聞記」はまだ根性がケチだった頃に書いたものだったが、「自分勝手」の良さがあるので生かした。「西日暮里月見寺」は途中で頓挫していて、下手をするとこの章はものすごい「考証」を展開する必要があった。それを必死にこの程度に押さえた。

 生かされずに削除してしまったいくつかの章の名残りが「荷風のいた風景」である。断腸亭および偏奇館という荷風の暮した場所についての話はいくらでもあったが、「今さら」の感がかなりあって、この際全部外してしまったのである。用意してあったスケッチのいくつかを紹介し、すでにほとんど消えてしまった「ゆかり」を偲んでみた。

 面白かったのは「女のかけひき」の章だ。どういう風の吹き回しか「講演」を頼まれることが集中した時期があって、おかげで荷風についての話をいくつもまとめることが出来たが、その最高傑作がこの章だった。この流儀で書けばまだまだ荷風のことが書けそうだと今でも思っている。

 そして、やはりこれがなくてはと最初に置いたのが『ふらんす物語』の章である。ある意味でボクの言いたいことの集約がここにあるはずで、これでもずいぶん頑張って書いた。

 それと今回、荷風の関係者と知り合ったことが、大きな事件だった。荷風の実弟、永井威三郎氏のご長男皐太郎氏と五男久雄氏とにお目にかかることが出来、お話ばかりでなく多くの資料や写真を見ることが出来た。「震災の頃」「葬儀の顛末」「狐の出た庭」などの章はご両人のご助力のたまものである。特に記して感謝を申し上げたい。「自分勝手」のしゃべりを生かしたいがため、詳細な永井家系譜など今回は生かしきれなかったのを申し訳なく思っている。高校時代の同級生が永井家の縁者であって、三十数年後の今ごろになって引き合わせてもらったという裏事情があったことも申し上げておこう。

 とにかく時が経てばそれだけ気分も情況も変化して行くのである。おのれの「修練」にまわりからの援助と衝撃がなければ本など出ない。三省堂の一般書編集部の伊藤雅昭氏はその辺を最もよく理解していて、終始励ましと締め付けにご苦労をおかけした。

 平成十年十月二十八日(水)


●初公開の写真(左が荷風、本文44ページ)

●イラスト4点

断腸亭跡


西向天神


偏奇館跡


荷風居住地一覧

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