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  キリスト教と現代

4. 日本キリスト教史の概略

日本におけるキリスト教の歴史については、第三章「教会とその歴史」の項にも手短に述べられているが、少し異なる視点から、読み物風に述べてみたい。日本におけるキリスト教の歴史は、以下に述べるように、三つの時期に分けて理解することができる。

第一期 キリシタン時代

~キリスト教の伝来から鎖国・禁教令の発布と迫害期まで~

ヨーロッパにおけるルネッサンス(文芸復興)運動を背景としながら、カトリック教会の司祭であったマルティン・ルターは、当初はエラスムスと同様、教会内の改革を目指した。しかし一五一七年一〇月三一日にヴィッテンベルグの城教会の扉に九五箇条の提題を掲示したことから、宗教改革運動は急展開し始めた。この改革運動はジュネーブの学者カルヴァンらによって継承されたが、その結果、オランダの教会は改革派に、デンマークや北欧のスェーデン、ノルウエー、フィンランドなどの諸国はルター派に傾倒していった。これに対抗して生じたのがカトリック陣営内における反宗教改革運動である。彼らは形勢挽回の望みをいだき、新しい地域における宣教活動を推し進め、領地の拡大に着手した。そのような修道会組織の一つが一五三四年にイグナティウス・デ・ロヨラおよびフランシスコ・ザビエル(シャヴィエールとも発音される)によって創設されたイエズス会である。ザビエルはスペインから海路、アフリカ大陸南端の喜望峰をまわり、インドやフィリピンで宣教活動の後、一五四九年(天文一八)にコスメ・デ・トーレスらと共に鹿児島にやって来た。初めてのキリスト教の伝来である。ザビエルは当初、九州北部や山口地方で伝道した。また新興勢力の織田信長らとも会見する機会を得て歓迎されたが、その隠れた理由の一つは、宣教師たちと同行してきた商人が持ってきた新しい武器である鉄砲を入手しやすくすることであった。この時代に、一般にキリシタン信仰と呼ばれるキリスト教は大いに歓迎され、領主および城主のレベルにおいても長崎の大村純忠が一五六三年(永禄六)に入信したのをかわきりに、大村氏の兄で島原の城主・有馬義貞が一五七六年(天正四)、その子・有馬春信が一五八〇年、豊後(大分)の大友宗麟{そうりん}が一五七八年、高山飛騨守が一五六三年(永禄六)、高山右近が一五六四年、また蒲生氏郷{がもううじさと}、小西行長らの入信があい継ぎ、かなりの数のキリシタン大名が現れ、その支配下にあった民衆も多数が入信した。当時の仏教が戦国時代の混乱の中で影響力を失っていたことも背景にあったと考えられる。

ザビエルは長崎を中心として九州北部、山口などで伝道活動をした後、一五五一年(天文二〇)には天皇に拝謁して宣教活動の許可と支持を取り付けようと京都へ上ったが、その実権のなさに失望した。ザビエルは日本の歴史を精査し、日本人の優秀さを認めた。それとともに、日本が中国の文化圏内にあることを知り、効果的な宣教活動をなすにはまず中国から着手するのが良策であると考え、一時インドのゴアに戻った後に中国宣教へ向かった。しかし、一五五二年に中国に上陸したところで四六歳で病死した。この時代にキリシタンに入信した人数は四〇万人とも六〇万人とも言われる。当時の日本の人口を考えると、かなりの改宗者を得たことが分かる。 一五八二年(天正一〇)、九州のキリシタン大名・大友宗麟らは協力して「天正遣欧少年使節」を組織し、名代として伊東マンショ、中浦ジュリアン、原マルチノ、千々石ミゲルの四人をローマへ派遣した。彼らは一五九〇年に帰国し、グーテンベルグ印刷機など西欧の技術を伝えたが、国内では、すでに反キリシタン政策がとられ始めていた。

一五八二年六月、織田信長は本能寺において明智光秀の謀反により攻められ、自刃した。

一五八七年になると、堺および伊賀・甲賀地区で鉄砲の国産化が可能になったこともあって、豊臣秀吉はバテレン(宣教師)の国外追放令を出した。赤石(現在の明石)城主であった高山右近には城主の継続か棄教かという二者択一を迫り、結局、追放策を実行した。また京都、大坂の南蛮寺(キリシタンの教会堂)を破却し、迫害し始めた。

一五九〇年には、九州天草で起こったキリシタンを主体とする百姓一揆を鎮圧するために加藤清正およびキリシタン大名でもあった小西行長の軍が派遣され、鎮圧に当たらせられた。

一五九五年、宣教師フロイス(一五九七年没)は有名な『日本史』を執筆し、ヨーロッパに極東地域の状況を伝えた。その中でフロイスは日本人の資質の高さに注目し、ことに九州の大友宗麟を安土の織田信長と並置し、その信仰と政治姿勢を高く評価している。

一五九七年(慶長二)には豊臣秀吉の命で、京都において宣教師・修道士六名、および一二歳から一四歳の日本人少年三人を含む信徒一八名を捕縛して長崎に連行中、さらに二人の信徒を捕らえ、合計二六名のキリシタンを多数の信徒が見ている前で処刑した。これは「二六聖人の殉教」と呼ばれ、現在、長崎の西坂の丘に記念会堂が建てられている。

一六〇〇年、関ヶ原の戦いが起こるが、大坂城を本拠とする西軍の将・石田光成は細川忠興{ただおき}を味方につけるために、明智光秀の娘で、忠興の妻であったキリシタン信者・細川ガラシャに大坂城入りを命じたが、彼女はこれを拒んで召使いの手によって自死した。東軍勝利に終わった戦いの後、敗軍の将の一人となった小西行長は、石田光成らと同様に、京都で斬首された。この時代に入信した信徒の多くは、キリシタンの教える天国のイメージに深い感銘を受け、現実の苦悩からの解放を強く期待したものと思われる。

一六一二年、徳川家康はキリシタン禁止令を発布した。

一六一三年、仙台藩・伊達政宗の家臣であったキリシタン支倉常長は「遣欧使節団」の長としてイスパニア(スペイン)、ローマまで旅し、一六二〇年(元和五)に帰国したが、彼らが帰郷したころには大阪冬の陣、夏の陣における豊臣軍の敗北によって時代が大きく変わり、江戸時代のキリシタン迫害期に入っていた。

一六二四年(寛永元)、第三代将軍・徳川家光は高山右近や在日宣教師らをマニラやマカオへ追放した。高山右近は翌年、マニラで病没した。

一六三七年、再びキリシタン民衆を主体とし、天草四郎を指導者として天草・島原に一揆が起こり、原城跡に立てこもった。徳川家光はこれを鎮圧し、三万人以上の信徒を惨殺した。

一六三九年、家光は鎖国令およびキリシタン禁教令を発布し、迫害を強めた。その結果、表面上は仏教寺院への回帰を装いながら、実質的にキリスト教を奉じる隠れキリシタンが生じることになる。しかし、鎖国中でも唯一開港されていた長崎の出島にやってきたオランダ商人の多くはプロテスタント信仰を持っていたことが考えられる。

このようにして第一期のキリシタン時代の宣教は、江戸幕府の禁教令と迫害の強化によって収束していった。

第二期 明治時代以降のキリスト教

~プロテスタント宣教も始まる~

一八六七年(慶応三)、江戸時代末期、カトリックの司祭が九州の浦上地方を踏査中に、多数の隠れキリシタンが発見された。彼らが検挙されたことを発端にして多数の信徒が迫害され、棄教を迫られることとなった。

一八六八年(明治元)、徳川慶喜から大政奉還がなされ、王政復古により明治政府が成立した。当初、明治政府は江戸幕府の禁教政策を継承し、多数のキリシタンを見つけ出して拷問にかけ、棄教を迫り、萩、津和野、福山などに流罪とした。その最大規模のものが三千人以上の信徒を巻き込んだもので、「浦上四番崩れ」と呼ばれている。

欧米からの圧力に屈した明治政府の開国政策により、多数のキリスト教宣教師が来日し、カトリック、プロテスタント、ロシア正教会(ハリストス正教会)の布教活動が再開された。

一八七二年、未だ禁教令の高札が撤去される以前、日本初のプロテスタント教会が横浜に成立した。

一八七三年、諸外国からの圧力を背景にして切支丹禁制(禁教令)の高札が撤去された。しかし、禁教政策自体が撤廃されたのでなく、明治政府においては、「すでに事(つまり禁教)は明瞭なるが故に」という暗黙の了解を背景とした苦肉の策であった。このころ来日した宣教師として、米国聖公会のウイリアムズ、リギンズ、米国改革派のフルベッキ、ブラウン、シモンズ、米国長老派のヘボン、ロシア正教会のニコライらがいる。ウイリアム・クラークは札幌農学校の教頭として赴任してきた。「Boys, be ambitious!」というクラークの名言はよく知られている。この時代の日本人リーダーとして、旧武士階級からの出である植村正久、同志社を組織した新島襄、その後継者・海老名弾正、メソジスト教会から「無教会主義」に転じた内村鑑三、東京女子経済専門学校(現・東京文化学園)の創立者で、旧五百円札の肖像となった新渡戸稲造らがいる。彼らの活動はまず英語塾などの教育施設を開設することにより、同時に伝道活動をなして後のキリスト教学校の基礎が築かれていった。今日、「○○学院」「○○女学院」という名称をもつ学校のほとんどが、この頃に創立されたミッションスクールである(少数の例外もある)。

一八八九年、天皇を国家体制の中心とする「大日本帝国憲法」が成立し、日本人は天皇支配のもとに存在する臣民であると宣言された。文部大臣・森有礼{ありのり}は実際はキリスト教信徒ではなかったが、クリスチャンとみなされて刺殺された。

一八九〇年、大日本帝国憲法を日常生活に浸透させるために「教育勅語」が発布され、明治政府は実質的にキリスト教信仰を拒否する態度を明らかにした。

翌九一年、第一高等中学校の教員であった内村鑑三は掲示された教育勅語への最敬礼が不十分であると訴えられ、病気療養中に解雇されるという「不敬事件」と呼ばれる事態が生じた。

一九三九年(昭和一四)、戦争遂行への協力体制を構築するために宗教団体法が成立し、一九四一年には日本のキリスト教諸派を統括するために日本基督教団が組織された。キリスト教伝道の布教内容も著しく制限され、神の絶対性の主張やキリストの再臨などの教えは説教できなくなったと言われている。それに従わなかったホーリネス派系の牧師などは一斉検挙をうけ、中には獄中死を遂げた者も数人、存在する。一九四五年八月の第二次世界大戦終結まで、日本のクリスチャンは政府による抑圧政策の下に置かれていた。 このような困難な時代の中にも、国木田独歩、金森通倫{つうりん}、中田重治、生活共同組合の創始者・賀川豊彦(一九六〇年没)、『平民の福音』の著者・山室軍平、岡山孤児院の創立者・石井十次らがクリスチャンとして活動を展開した。ヴォーリス宣教師は建築設計会社を設立し、また「メンソレータム」(現「メンターム」)の製造で知られる近江兄弟社の創設に尽力した。白洋社の創設者・五十嵐健治、森永製菓の創立者・森永太一郎らの名も、クリスチャンとしてよく知られている。

第三期 第二次世界大戦以後

~初めて信教の自由が得られた時代~

日本のプロテスタント信仰に立つキリスト教会は、戦前からの四つの流れを形成してきた。第一は横浜バンドと呼ばれる教会形成重視型である。植村正久ら日本基督教団の中核をなした一群であるが、改革派教会など多数の教派は後に分離独立して、別個の教会形成を始めた。第二は札幌バンドと呼ばれる聖書研究型である。内村鑑三、藤井武、塚本虎二らによる無教会派の運動などがこれに属する。第三は熊本バンドと呼ばれる社会奉仕重視型である。熊本洋学校から始まり、京都に拠点を移して同志社を組織した新島襄らがこれに属する。さらに第四は、これまであまり注目されてこなかった福音主義派ないし伝道重視型であって、イギリス人B.F.バックストンの最初の活動地から、仮に松江バンドと呼ぶことができるであろう。笹尾鉄三郎、米田豊らによって継承された運動がもとで、国内において多数のプロテスタント諸派が活動を展開していった。

一九四五年(昭和二〇)、日本の敗戦とともに宗教団体法は廃止され、国家神道と政治との分離を確立し、信教の自由が保障される時代がやっと到来した。戦後、連合国総司令部(GHQ)の元帥D.マッカーサーは八月三〇日に厚木に飛来し、彼の呼びかけに応えて多数の宣教師が来日した。

同年一二月にクリスチャンであった南原繁は第一五代東大総長に就任した(一九五一年まで)。

敗戦の翌四六年、天皇の人間宣言が公表された。国内の物資不足に対してアメリカなどから教会を介して色々な援助物資が届けられた。そのため戦後、一時的なキリスト教ブームが起こったが、そのブームは長くは続かなかった。

一九四七年五月三日、アメリカ進駐軍の支援の下に日本国憲法が施行されて以後、現在まで信教の自由は一応、保証されている。戦後、プロテスタント諸派は相次いで日本基督教団から独立し、独自の活動を展開するようになった。

一九四八年に組織されて以降、日本でも世界教会協議会(World Counsel of Churches、略称WCC)の活動が活発化され、世界のキリスト教会の組織的一致を促進するエキュメニカル運動が展開されている。他方、宗教改革時代初期からの聖書は誤りなき神の言葉と信じる福音主義信仰にたつ諸教会は、一八四六年以降の世界の働きを継承し、一九五一年に世界福音同盟(旧称、World Evangelical Fellowship)を組織し、二〇〇一年より World Evangelical Alliance(略称WEA)と改称して活動を継続している。

一九四九年(昭和二四)以後、共産化した中国大陸から追放された多数の宣教師団体が来日し、日本各地で活動を始めた。

一九五一年一二月、クリスチャンの矢内原忠雄が南原繁を継いで第一六代東大総長に就任した(一九五七年まで)。

一九五四~五五年、『聖書(文語訳)』(一九一七年版)を改訂して、日本聖書協会より『聖書(口語訳)』が出版された。

一九六五~七五年、長期化するベトナム戦争を背景として反戦運動が盛んになり、同時に各地で大学紛争が激化した。一九六八年には東京大学の安田講堂も占拠された。

一九七〇年、日米安保闘争は教会にも影響を与え、大阪万博会場にキリスト教館を出展することの是非をめぐって論争が激化し、教会の中に賛成運動と反対運動とが起こって対立した。同時期に、国会においては靖国神社国家護持法案の提出があった。これらの運動の拡大によって日本基督教団内部などに混乱が生じ、名の知られたミッションスクールでも学生運動が激化してゆき、一九七二年には複数の大学で牧師を育成するための神学科を募集停止にするなどといった結果を引き起こした。

一九七一年、福音主義諸教会が結集して日本聖書刊行会より『聖書(新改訳)』が刊行された。

一九七八年、カトリック教会における第二ヴァチカン公会議における決議を背景としてプロテスタント教会とカトリック教会が協力することにより、日本聖書協会より『聖書(共同訳)』(「新約」のみ)が出版された。

一九八二年、インドのカルカッタからマザー・テレサが来日し、各地で講演した。

一九八七年、『聖書(共同訳)』を改訂して、『聖書(新共同訳)』(「旧約・新約」および「旧約続編付き」)が出版された。

二〇〇〇年(平成一二)、キリスト降誕二〇〇〇年記念「大聖書展」が東京で開催され、翌年には神戸でも聖書展が開かれて、多数の見学者を得た。

近代に活躍した著名なクリスチャンとして、日本基督教団議長として「戦争責任の告白」を先導した鈴木正久(一九六九年没)、文学者・椎名麟三(一九七三年没)、歴史学者・石原謙(一九七六年没)、一九四七年に社会党党首から首相となった片山哲(日本基督教団・富士見町教会員、一九七八年没)、カトリック信者の妻の影響のもとに病床洗礼を受けた元首相・大平正芳(一九七八年没)、三菱財閥の創立者・岩崎弥太郎の孫娘で、敗戦後に孤児院エリザベス・サンダースホームをたてた澤田美喜(一九八〇年没)、カトリック文学者・遠藤周作(一九九七年没)、プロテスタント作家・三浦綾子(一九九九年没)、作家・阪田寛夫(二〇〇五年没)、現在も活躍中の者として、バプテスト派の作家・森 禮子、カトリック作家・曽野綾子らがいる。

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