この本は、日本近代文学を学ぶ大学生を対象とした、新しいタイプの教材集です。タイトルを『大学生のための文学トレーニング 近代編』としました。「文学でトレーニング?」といぶかしむ声が聞こえてきそうです。確かに文学は、好きなものを好きなように読めばよいというのも事実なのです。それなら、教室で文学を学ぶことにどんな意義があるのか─この問題に悩みながら大学で教える教員が、各自の授業プリントを持ち寄り、意見交換の中で一つの答えを出そうとしたのがこの本です。
私たちの共通意見は、「学生が参加できる授業作りを」ということでした。「文学の終焉」を自明のように語る大人がいる一方で、教室で見る限り、文学に寄せる若者の関心は、昔も今もさほど変わらないようです。発言が苦手な学生が、すぐれた見解をアンケートに書く場合も少なくありません。インターネットによるコミュニケーションが常態化した現代、文字による自己発信の機会は格段に増えています。聞くだけの授業は退屈でも、書くことで参加したいという学生の意欲は健在なのです。
この本で学ぶ対象は、明治から昭和までの文学です。一見、学生には縁遠いようですが、実は「青空文庫」などの電子書籍を通じて、いま近代文学はもっとも親しみやすい分野になりつつあります。また、国立国会図書館が公開している「近代デジタルライブラリー」や「写真のなかの明治・大正」を使えば、今まで一部の研究者しか知らなかった貴重資料を容易に探し出し、自宅で閲覧できるという、夢のような時代になりました。
しかし、デジタル化の恩恵がいかに偉大であっても、それを活かすのはどこまでも個人のスキルです。好き嫌いを超えて、説得的に対象を「論じる」ためには、最低限身につけていなければならない、読むための姿勢や分析するための方法があります。この本では、それらのスキルを、作業や議論を通じて教室で習得できるように工夫しました。スタンダードにしてニュータイプ。それが私たちの目指した教材です。
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この本は、以下の3部構成になっています。
Section 1 文学理論の基礎概念
Section 2 歴史のコンテクスト
Section 3 活字の外側へ
これらは、相互に独立していますので、どこから読み始めてもかまいません。
日本の近代文学研究は、七〇年代までの作家論・作品論の時代、八〇年代以降の批評理論の時代(テクスト論・読者論・都市論・身体論など)、九〇年代以降の文化研究の時代(ジェンダー論・ポストコロニアル批評など)というように、めまぐるしく推移してきました。おおざっぱに言うと、本書の1部が批評理論の時代に、2部が文化研究の時代に、3部が作家論・作品論の時代に、対応しています。
かつては、新しい方法論が導入されるたびに大きな論争が闘わされることもありました。しかし、現在の状況は、研究方法のイデオロギー的対立の時代を脱して、流行の変転の中で活かし切れなかった様々な方法論の可能性を、いま一度検証し直す時代に入っているようです。
本書はこの状況にふさわしく、研究方法のサンプル集とする意味もこめて、欲ばりにもそれらすべてを総合し、多様な方法論の中から、学生が自分に最もふさわしいアプローチを選択できるように配慮しています。
こうした明確な意図をもとに構成されていますが、それでもどこから読み始めるのが良いかと聞かれれば、やはりSection 1から読んでもらいたいと思います。なぜなら、Section 2やSection 3が主として分析や調査の方法を扱っているのに対し、Section 1は、研究的に読むための基本的な意識について学ぶことを目標にしているからです。
研究的な読み方とは何でしょうか。簡単に言えば、趣味の読書とは違うということです。詳しくはSection 1で学びますが、ここでは文学研究のもっとも基本的で、もっとも大切なことについて、説明しましょう。
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皆さんは、「羅生門」という小説を知っていますね。高校現代文の定番教材です。こんなオハナシでした。
数年来の飢饉や天変地異ですっかり荒廃してしまった京の都。ある日の暮れ方、平安京の羅生門の下で、一人の下人が雨のやむのを待っている。下人は四五日前、主人から暇を出され、このまま飢え死するか、はたまた盗人になるか、と思案していた。下人は、夜を明かそうと羅生門の楼上に上がる。するとそこには怪しげな老婆がいて、死人の髪を抜いていた。正義感に燃えた下人が問い詰めると、老婆は、「髪を抜いてカツラにしようとしていたところである、悪いことではあるが、いま髪を抜かれた女などは生前、蛇を魚と偽って売っていたのだから、そうされてもいいような人間だ、その女も自分も、そうしなければ飢え死にする身なのだから仕方ないのだ。」と答えた。それを聞いた下人は、さっきまでの正義感はどこへやら、「なら俺もそうしなければ飢え死にする身だ。」と言い放ち、老婆の着物を剥ぎとって、夜の闇に駆け出して行った。
高校国語では、先生が「芥川龍之介はこの小説を書くことで、何が言いたかったのでしょうか?」と問い、生徒がいろいろと意見を出した後、最後には「人間には誰にでもエゴイズムがあり、生きるためにはそれをむき出しにしてしまうこともある。そうした誰もが持たざるをえないエゴイズムがテーマですね。」とか、「人間のこころは何と変わりやすいものか、そのこころの脆弱さがテーマです。」などと、まとめておしまいとなります。しかし、大学の文学研究では、そもそもそのような問いの立て方自体を行いません。先ほど、「羅生門」とは「こんなオハナシでした。」と書きました。わざとカタカナで書いたのですが、この場合のオハナシとは、要するに、〈あらすじとしてまとめられる物語の内容〉のことです。
大切なことの一つめ、それは〈どんなオハナシか〉(イストワール)ではなく、〈そのオハナシが、どのように語られているか〉(ナラシオン)をきちんと読むことです(用語は次ページ下段・第5章参照 ← 書籍ママ)。
「羅生門」で具体的に考えてみましょう。次の引用はその冒頭部です。
或日の暮方の事である。一人の下人が、羅生門の下で雨やみを待つてゐた。
広い門の下には、この男の外に誰もゐない。唯、所々丹塗の剥げた、大きな円柱に、蟋蟀が一匹とまつてゐる。羅生門が、朱雀大路にある以上は、この男の外にも、雨やみをする市女笠や揉烏帽子が、もう二三人はありさうなものである。それが、この男の外には誰もいない。(中略)
作者はさつき、「下人が雨やみを待つてゐた」と書いた。しかし、下人は雨がやんでも、格別どうしようと云ふ当てはない。ふだんなら、勿論、主人の家へ帰る可き筈である。所がその主人からは、四五日前に暇を出された。前にも書いたやうに、当時京都の町は一通りならず衰微してゐた。今この下人が、永年、使はれてゐた主人から、暇を出されたのも、実はこの衰微の小さな余波に外ならない。だから「下人が雨やみを待つてゐた」と云ふよりも「雨にふりこめられた下人が、行き所がなくて、途方にくれてゐた」と云ふ方が、適当である。その上、今日の空模様も少からず、この平安朝の下人の Sentimentalisme に影響した。申の刻下りからふり出した雨は、未に上るけしきがない。そこで、下人は、何を措いても差当り明日の暮しをどうにかしようとして─云はゞどうにもならない事を、どうにかしようとして、とりとめもない考へをたどりながら、さつきから朱雀大路にふる雨の音を、聞くともなく聞いてゐたのである。
「羅生門」の作者は誰でしょうか。もちろん芥川龍之介です。それでは、本文に出てくる=傍線部の「作者」とは、いったい誰のことでしょう。「え? それが芥川龍之介なんでしょ?」と答えたくなりますね。たしかに、この「作者」と名乗る語り手は、芥川龍之介その人によく似ています。フランス語を知っていますし、何といっても小説家を名乗っているのですから。でも、違うのです。もっと正確にいえば、違う存在だと意識して読むことが大切なのです。
考えてみてください。この「作者」は、あくまでも紙の上の存在でしかありません。「羅生門」という小説がフィクションだとすれば(それは、誰もが認めることですね)、フィクションの中の存在はすべて、しょせんフィクションの存在でしかないのです。
高校国語の授業では、先生が「作者はどんな人だろう?」とか、「作者はこの小説を通して、いったい何が言いたかったのかな?」などと質問するのが普通です。また、ある小説を読めば、それを書いた人がどんな人なのか、とても気になります。「今年の芥川賞受賞者は、○○氏です。」などというニュースを聞けば、「いったいどんな人だろう。」という興味がわきます。しかし、小説を読むときには、それがかえってジャマになるのです。なぜなら、作者に対する興味を抱いて小説を読む人は、小説そのものよりも作者を気にしているからです。
「じゃあ、どうすればいいの?」 答えは、これです。
作者ではなく〈語り手〉を意識して読む。
作者が何を言いたかったかを考えるから、ついオハナシだけを追ってしまう。だから作者ではなく、語り手はその出来事をどのように語っているかを意識して読むのです。
「羅生門」でいえば、以前の研究では、下人と老婆のやりとりや最後に下人が盗みをするという結末ばかりを解釈してきました。それが、批評理論の導入以後、がらりと変わりました。源氏物語の研究で有名な三谷邦明に「『羅生門』の言説分析―方法としての自由間接言説あるいは意味の重層性と悖徳者の行方」(『近代小説の〈語り〉と〈言説〉』、一九九六・六、有精堂出版)という論文があります。要旨だけをかいつまんで書きます。
下人の未来は、飢え死にするか盗人になるか、という二者択一ではない。乞食や芸能・出家・遊行・売人など、さまざまな選択肢があるはずなのだから、〈語り手〉が下人を盗人に追い込んでいるともいえるのだ。「作者」を名乗るこの〈語り手〉は、得意げにフランス語を振りまいたりする嫌味な奴で、下人や老婆の抱える問題に正面から立ち向かうことが出来ない。「羅生門」は人間のエゴイズムを描いた作品などではなく、こうした悲しい近代知識人の姿を描くテキストなのだ。
この結論に賛成するかどうかは別として、この論文の画期性を一言でいえば、見えていなかったものを見た、ということにあるといえます。
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下の図は、有名な「ルビンの盃(壺)」です。
中央の「図」を見れば盃ですが、周囲の「地」を見ると、向かい合う二人の横顔に見える、という心理学の実験で用いられる絵です。三谷の論文が指摘したのは、この絵の地にあてはまります。それまでの「羅生門」研究が、さまざまな解釈を施しながら、すべて盃のかたちを研究していたのだとすれば、三谷の論文は、その見方を変え、見えていなかったはずの人物の横顔を初めて見たということになります(批評理論では、この盃を〈物語内容(イストワール)〉、横顔を〈語り(ナラシオン)〉と見なします)。
とはいえ、この本では、「作者」を厳密に排除しているわけではありません。しかし、その場合でも、その「作者」は、かつて考えられたような、肉体をともなった生身の作者のことではありません。小説やその原稿から立ち現れる、仮設の主体としての「作者」、あくまでも理論的な存在としての「作者」のことです。
「作者」という概念を排除しないのは、結局のところ、どのような理論的立場に基づいて研究を行うかということは、個々の学生が自らの問題に応じて選び取れば良いことだと考えるからです。私たちは、この本がそうした研究の入り口として活用されることを願ってやみません。
Section 1 文学理論の基礎概念
010 1 作者は神様ではありません?! 志賀直哉「小僧の神様」
020 2 視点が変われば世界が変わる 国木田独歩「鎌倉夫人」
032 3 描写することと説明すること 横光利一「蠅」
039 4 女の語り、狂気の語り 太宰治「千代女」
053 5 探偵はあなたです 佐藤春夫「女誡扇綺譚」
Section 2 歴史のコンテクスト
068 6 読者は時代とともに 森鷗外「舞姫」
085 7 都市が生む欲望 田山花袋「少女病」
099 8 私の記録、大衆の記憶 林芙美子「放浪記」
113 9 〈同時代〉というレファレンス 坂口安吾「真珠」
128 10 語りの遠近法 石川淳「焼跡のイエス」
Section 3 活字の外側へ
142 11 小説の本文の生成 夏目漱石「坊っちゃん」
156 12 自筆原稿を読む 樋口一葉「たけくらべ」
165 13 開化は踊る 芥川龍之介「舞踏会」
174 14 テクストは誰のもの? 井伏鱒二「山椒魚」
186 15 活字と挿絵の多重奏 谷崎潤一郎「蓼喰ふ蟲」
Section 1 文学理論の基礎概念
001 1 作者は神様ではありません?! 志賀直哉「小僧の神様」
003 2 視点が変われば世界が変わる 国木田独歩「鎌倉夫人」
005 3 描写することと説明すること 横光利一「蠅」
007 4 女の語り、狂気の語り 太宰治「千代女」
009 5 探偵はあなたです 佐藤春夫「女誡扇綺譚」
Section 2 歴史のコンテクスト
011 6 読者は時代とともに 森鷗外「舞姫」
013 7 都市が生む欲望 田山花袋「少女病」
015 8 私の記録、大衆の記憶 林芙美子「放浪記」
017 9 〈同時代〉というレファレンス 坂口安吾「真珠」
019 10 語りの遠近法 石川淳「焼跡のイエス」
Section 3 活字の外側へ
021 11 小説の本文の生成 夏目漱石「坊っちゃん」
023 12 自筆原稿を読む 樋口一葉「たけくらべ」
025 13 開化は踊る 芥川龍之介「舞踏会」
027 14 テクストは誰のもの? 井伏鱒二「山椒魚」
029 15 活字と挿絵の多重奏 谷崎潤一郎「蓼喰ふ蟲」