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異界の記憶
日本的たましいの原像を求めて

異界の記憶

久野 昭 著

2,800円 四六 448頁 978-4-385-36196-3 (品切)

日本人にとっての「向う側の世界」を、比較思想論史の立場から探究。日本人の「たましい」の来し方行く末の原イメージを、日本とギリシアの古典資料の読みの中からあざやかに引き出して、読者のこころに迫る。

2004年3月1日 発行

 著者紹介
 目  次
 序  文
 あとがき
 本文紹介
 編集者からの言葉


 
●著者紹介

久野 昭(くの・あきら)
1930年、名古屋市生まれ。
1952年、京都大学(旧制)文学部哲学科卒。
東洋大学、広島大学、国際日本文化研究センターの教授を歴任。
現在、広島大学名誉教授・国際日本文化研究センター名誉教授。
主な専攻は、比較思想論。
著書は、「葬送の倫理」(紀伊国屋書店)、「火の思想」(理想社)、
「神秘主義的知の位相」(以文社)、「死に別れる―日本人のため
の葬送論」(三省堂)、「日本人の他界観」(吉川弘文館)ほか多数。


 
●目  次

序文----梅原 猛

第1部 旅の研究

 第1章 隠国の旅(上)
 第2章 隠国の旅(下)
 第3章 六道の辻
 第4章 海界の彼方
 第5章 ある少女の旅---「更級日記」再読

第2部 風の研究

 第6章 大和島根の風
 第7章 西高東低の風
 第8章 不吉な風
 第9章 風振る比礼・風切る比礼
 第10章 秋風ぞ吹く

あとがき---エーゲ海の旅から


 
●序  文

梅原 猛

 久野昭氏は、旧制高校・八高及び京大文学部哲学科における私の後輩であるが、私が久野氏の存在を知ったのは、久野氏が卒業論文に「魔術的観念論」と題してノヴァーリスを論じる論文を提出し、主任教授の山内得立先生が、当時大学院生であった私に「こんな論文が出たよ」といって見せられたときである。

 私はノヴァーリスが好きで、私がドイツ語を学んで初めて原書で読んだ本がノヴァーリスの『青い花』であり、以後ノヴァーリスの小説や詩を愛読していた。しかし文学科ではなく哲学科の卒業論文にノヴァーリスをとり上げるのはまことに異例であり、私は卒業論文には文学的というより科学的な論文を提出した。それなのに、あえて卒業論文にノヴァーリスを選び、彼の説を「魔術的観念論」と把握した久野氏の大胆さと見識に敬意を覚えざるを得なかった。

 その後も久野氏とは相互に著書を贈呈し合う関係が続いたが、彼と特に親しくなったのは、久野氏が、私が所長を務める国際日本文化研究センターの教授に赴任して以後である。センターの哲学関係の教授を誰にするかいろいろ考えたが、日本の哲学者のほとんどは西洋の哲学を研究することのみを哲学の仕事と考えている。そういう学者が国際日本文化研究センターの教授として不適当であることはもちろんであるが、西洋のことをまったく知らず、日本の研究だけを事としている学者でも困る。西洋のこともよく知り、日本の文化にも強い関心を持つ学者が必要であると考えたが、そういう学者として久野氏以外に適当な学者は見当たらなかった。

 久野氏に声をかけたところ、久野氏は快く引き受け、埴原和郎、河合隼雄、中西進、山折哲雄、芳賀徹、村井康彦、速水融、伊東俊太郎、濱口惠俊、村上泰亮、飯田経夫氏などとともに輝かしい国際日本文化研究センターの初代メンバーの一員となって、大いに活躍した。

 この書は、国際日本文化研究センター時代からの研究の集大成であるが、久野氏はここで旅をするのである。その旅はあの世への旅であるが、ギリシャ哲学への造詣が深く、何度もギリシャに旅をしている久野氏はギリシャにも多くのあの世への入り口を見つけ、そこからあの世に侵入し、楽しそうに旅をする。そしてその旅を日本のあの世への旅の参考として古典を旅し、あの世の痕跡を探す。

 私もかつて久野氏と同じような旅をしたが、私の旅は久野氏の旅ほど徹底的ではなく、旅は途中で終わってしまった。久野氏はまことに淡泊な人格のように見受けられるが、その旅はまことに粘り強く、まことに用心深い。一生の傑作を残そうとする久野氏の執念であろうか。その執念が実り、この書は久野氏の多くの著作のなかでもとりわけ傑作であると私は思う。

 久野氏は卒業論文以来、神秘を愛するが、決して神秘主義者ではない。神秘主義者といわれる人たちは、世界は神秘に満ちているとし、その神秘に礼拝し、自らをその神秘の神子として、他人に対して優越を誇る人ではないかと思う。私はこのような神秘主義者が嫌いであるが、久野氏は神秘をごく日常的に語る。久野氏はときには露悪的に振る舞うことがあるが、彼は内実、甚だ鋭敏な羞恥心をもつシャイな神秘愛好者ではないかと私は思っている。

 あの世から帰った人間は長生きするという。しょっちゅうあの世に旅をしてあの世から帰ってくる久野氏はさぞかし長生きをするであろうと思われるが、今後もギリシャや日本のみではなく、世界のいろいろな場所にあるあの世へ旅をし、「世界あの世紀行」なるものを書いてほしいと思うのである。


 
●あとがき

 本文を書き上げてから、旅に出た。とりわけ寄りたかったのは、デロスである。

 後にアテナイの王としてアッティカを統一することになる英雄テセウスは、怪獣ミノタウロスをクレタの迷宮に退治してアテナイへ戻る途中、キュクラデス諸島のひとつ、デロスに立ち寄った。

 キュクラデス諸島の名は円を意味する「キュクロス」から出たものだが、その円の中心に位置するのが諸島中最小の島、このデロスである。かつてレトがゼウスの子を身ごもったとき、それを嫉妬してゼウスの妻ヘラがレトに呪いをかけた。だが、レトは海神ポセイドンが水の天蓋で包み隠してくれたデロスで、ゼウスの子のアポロンとアルテミスを生んだという。そのデロスは、古代ギリシアにおけるアポロン崇拝の中心地でもあった。そして、いつの頃からか、テセウスがクレタからアテナイに無事に帰国したことを感謝してデロスのアポロン神殿に供物を捧げるべく年ごとに船を送り出すことが、アテナイ人たちの習わしとなっていた。

 紀元前三九九年のある日、その船の出帆の準備がことごとく整ったしるしに、船尾に月桂樹の花が飾られた。それがたまたまソクラテスの裁判の前日であったために、船がアテナイに戻るまでの約三十日間、ソクラテスの死刑は延期され、船の帰還した翌日に刑が執行された。

 約三十日間と言えば、デロスでの祭儀などを含めるにしても、かなり長期間である。ひとつの理由は、やはり航海の難儀ということであろうか。いまはデロスには人家は全くなく、デロスを訪れる者はミュコノス島から日帰りで往復するのが普通だが、アテネからミュコノスの空港まではエーゲ海航空のターボプロップ機で約二十五分。ミュコノスの港からデロスの船着場までの約六マイルの所要時間も、高が知れている。ミュコノスで泊まった私がその船に乗ったのは、晴れてはいたが風の烈しい日の午前であった。船名は英語で「オルカ」と書かれている。

 スティーヴン・スピルバーグ監督の『ジョーズ』(一九七五)にも、この船名は出てくる。アメリカのニューイングランド海岸に出現した巨大な人喰い鮫に挑戦する三人の男を乗せ、うち鮫狩りのプロの船長は逆に鮫の餌食となり、船そのものもばらばらに壊滅してしまうが、鮫はロイ・シャイダー扮する警察署長によって爆殺されるというあの映画に登場する船、その船尾に書かれていたのが、この名である。

 もっとも、いまエーゲ海をデロスに向かっている「オルカ」の方が、映画の「オルカ」よりはずっと大きい。船名の「オルカ」(鯱)を気取ってではあるまいが、勢いよく波のうねりを切って進んだ船がデロスに到着したのは、出港してから僅か三十五分の後であった。アテネを発ってから、まだ二十時間と経っていない。

 デロス島遺跡の発掘が始まったのは、一八七三年であった。だから、考えてみれば当たり前のことなのだが、眼の前に拡がる遺跡は、イタリア人のアゴラにせよ、劇場地区にせよ、アポロンのヒエロン(聖処)にせよ、アルテミスのそれにせよ、その他もすべて、いまさら修復しがたい廃墟なのである。獅子の高台に並ぶライオンたちもコピーで、本物は島内の博物館に収められている。まして、クレタからの帰途この島に立ち寄ったテセウスが踊ったと言われる、迷宮に因んだ「鸛の舞」がどのようなものだったかは、全く不明なのだ。私にできることはただ、この廃墟のところどころで坐っては、エーゲ海を渡ってくる強い風に髪や頬を弄ばれながら、自分の乏しい想像力をはるか遠くの歴史的過去へ、さらには神話的古代へと集中させることしかない。このような旅では、これまでもそうであった。これからもそうであろう。

 翌日の午後、私はミュコノスから「ジェット・ワン」でティーラに向かった。その名の示すとおり高速船だが、ただし直行便ではなく、船は先ずナクソスに寄港した。テセウスがデロスに立ち寄る前に、クレタから連れてきたアリアドネを置き去りにしたという島である。高速船は次いでパロスに、さらにイオスにも寄ったが、ミュコノスの港を出てから三時間半ほどでキュクラデス諸島中最も南に位置するティーラ島の断崖の下に着いた。いわゆるサントリーニ島である。古代の航海とはおよそ比較にならない、ごく短時間の航行であった。

 プラトンが『ティマイオス』と『クリティアス』でザイスに仕えるエジプトの僧の話として伝えている、いわゆるアトランティス伝説によれば、アトランティスはポセイドンの十人の子供がそれぞれ領土を分け合い、長男アトラスが全体を統治することで、栄華を極めていたが、プラトンの時代から遡ること九千年の昔、アテナイ人の祖先の侵攻に破れたのが運の尽きはじめで、以後は住民が暴虐の限りを尽くす。その悪行ゆえに、アトランティスは一日一夜のうちに海中に呑み込まれたという。この伝説を背景に、その海上に僅かに残ったごく一部の陸地がこのサントリーニ島ではないかと言われてきた。

 ただし、史実としては、古くからの火山活動によって形成されたこの島で、紀元前二千年から千五百年にかけての頃に、おそらくミノア・クレタと繋がりを持つ文化が発展したと思われる。たとえば、いまも火口の残る島の南部、その南部から西に突き出た半島で現在も発掘の続けられているアクロティリ遺跡から発見された壁画が、この事実を証拠立てててる。私がフィラの町で買って飲んだ赤ワインには、英語で「ラーヴァ」つまり溶岩という名が付けられていたが、そのレーベルには、溶岩や火山灰で埋もれていたアクロティリ遺跡の「西の家」第五室で発見された、多数の魚を両手にぶら下げた「漁夫」の壁画が再現されていた。レーベルの印刷はあまり良くないが、絵には明らかにミノア・クレタ文化との関連を思わせるものがある。

 数日後、アテネに戻った私は、ローマン・アゴラで、「風の塔」の通称で知られる「アンドロニコス・キュレステスの時計塔」を見上げていた。この紀元前一世紀の半ばを過ぎた頃には建造されていた大理石の塔は、建物自体が水圧を利用した装置による水時計の役割を果たしていたのとは別に、その外壁面には部分的なものながら日時計もあった。さらに、かつては、高さおよそ三十九フィートの屋根の頂上に海神ポセイドンの子で半人半魚姿をしたトリトンの像があって、その青銅製の像が風向きに応じて回転し、トリトンが右手に持つ棒が風の吹いてくる方位を示し、その棒の下を見れば、いま吹いている風が塔の上部の八つの飾り縁に彫られた有翼の風神たちのうち誰の所為かがわかる仕掛けになっていた。だが、トリトンの姿の見えぬいまは、ただこれらの風神たちを地上から見上げることしかできない。

 二○○四年開催のアテネ・オリンピックに備えて、市内ではさまざまな準備が進んでいた。以前より市街地から遠くなり、アクセスのための道路にはまだ工事中の箇所も少なくないが、空港も新設された。私が今度のギリシアの旅で乗った飛行機も、国際便・国内便ともに、そのアテネ・エレフテリオス・ヴェニセロス空港から発着している。他方、国立考古学博物館は改修工事中で、だからたとえばティーラ島のアクロティリ遺跡の「ラーヴァ」の実物も観ることはできなかった。アクロポリスをはじめ、アテネ市内に残る多くの遺跡でも改修工事が行われている。八つの壁面を持つ「風の塔」もまた、その南西側には改修のための足場が組まれていたが、他の側面の風神たちの展望を妨げるものはない。なかでアゴラから最もよく見えるのは、塔の西側である。

 西風の神はゼピュロス。八神のうち最もよく知られた名であろう。すべての風神が足を左に頭を右に、だから顔も右側向きに彫られているなかで、この西風の神ゼピュロスの顔だけは、真正面からアゴラを向いている。だが、もう一神、アゴラから顔のよく見える風神がいる。北西の風神スキロンであって、その右側向きに彫られた顔が、ちょうどアゴラに立つ者の方に向けられていることになる。私にとっては、印象的な顔なのである。

 日本にいての北西風と、ここアテネでの北西風とでは、地理的条件の異なることは言うまでもない。それでも、私は日本の東北・北陸地方では「たまかぜ」とよばれ、西日本では「あなじ」とよばれてきた北西(戌亥)の風を、ここで連想する。その北西風がこの塔にぶつかる側面の上部に位置し、その風を司っているのが、風壺を下向きに両手で抱えているスキロンに他ならない。

 よく知られた神話では、ペロプスもしくはポセイドンの子としてコリントスに生まれたスキロンは、メガラの海沿いの細い道に面したスキロンの岩に座して、通行人に足を洗わせては海中に蹴落とし大亀の餌食にしていたのを、テセウスによって逆に海に突き落とされて亀に喰われた。だが、この神話に出てくるスキロンと、いま見上げているスキロンとは、はたして同一人物なのであろうか。コリントスもメガラもアテネから西ではあるが、北西ではない。スキロンの名でよばれる人物と風との関連を伝える神話も、どうも見当たらないようだ。

 ただし、この塔の北西壁面上部に彫られた有髯の風神スキロンが下向きに抱えているのは、どう見ても風の壺であろう。日本では俵屋宗達の「風神雷神図屏風」などに見られるように、風神と言えば天空を翔ぶ裸体の鬼形の神が風袋を担いでいる姿を思い浮かべるのだが、このスキロンの抱えているのはアムフォラの変形形式の壺である。壺ではあるが、そこに入っている風は、その方向から風の吹くときは無尽蔵なのであろう。

 なお、壺と言えば、塔の南側の壁面の上部には南風の神ノトスが彫られているが、ノトスもまた右手で壺を下向きに抱え、左手でその壺の口を押さえている。こちらの壺の形式はアムフォラよりもむしろ葬祭用のレキュトスに近いが、やはり風の壺に違いあるまい。ノトスは曙の女神エオスの子として、同じくこの塔を取り巻いている風神のうち西風のゼピュロス、北風のポレアスとは兄弟であった。

 二○○三年五月の最後の日の晴れた午後、さすがにもう日差しはかなり強くなってきている。なのに、いま、ここにはデロス島に渡った日のような強い風は吹いていない。あの壺にも、あまり風は入っていないのかもしれない。

 私が初めてここの風神たちに出会ったのは、一九六七年の七月二十一日だった。それ以来、この場に佇んでいると、おまえはここに何をしに来たのだと、戌亥の風の神スキロンが私に問い掛ける。答えはいつも、いまは旅の途中、ただ風に吹かれたくて。

 暑いからではない。旅をしているからである。長いこと、私の想念のなかでは旅は風と切り離しがたく結び付いている。これまで幾度となく自問自答してきたことだが、その理由の最大のものは、おそらくこうである。

 垂直の壁面の分厚い西洋風の建築とは違って、日本風の建物では内部空間と外部空間とを隔てる壁は薄い。雨戸を片付けて障子を開ければ、斜めの屋根の下の軒端を通じて、インテリアはそのままいつでもエクステリアに連なる。壁にくり抜かれた小さな四角の窓を通じて外部の自然を覗くのとは、訳が違う。ただし他方で、日本には、それまで開いていた雨戸なり障子なり襖なりを閉め切ってしまうことで、その内部がたちまち外部とは異質の空間に変化してしまうという可能性がある。たとえば京都の寺町通り沿いの寺のどれかひとつの境内に入って、勝手に本堂に上がり込み、障子を閉めてしまえば、そこはもう街の通路の日常的な喧騒とは全く異質の空間である。この異質の空間への変化は、ただ寺の本堂での出来事のみではない。『更級日記』の著者が十三歳のとき薬師仏に訣れを告げた上総の父親の役宅の一室も、同様だったであろう。いや、そこに仏像が安置されていなくともよい。日本では概して、外敵の侵入をさほど惧れる必要がなかったからだろうか、ごく簡単な操作で内部空間の独自性が確 保され、その外的空間との異質性、つまりは内と外との空気の違いが保証された。日本人が寺院の本堂に上がるときはもとより、帰宅したとき、あるいは他人の家に入るときに下足を脱ぐという習慣にもまた、この異質性の感覚に連なるものがあろう。

 だが、これは日本人だけの感覚だろうか。ソクラテスを主人公にしたプラトンの対話篇のうち、広く読まれてきたものに、『シュンポシオン』がある。表題は「饗宴」と訳されるのが普通だが、実は饗宴の終了後の酒宴を指す。この対話篇の場合は、悲劇の競演でのアガトンの勝利を祝う饗宴後の酒席で出席者たちが愛を主題として語り合う設定になっているが、この饗宴に招かれた客たちは先ず奴隷に履物を脱がされ、足を洗ってもらってから、クリネー(寝椅子)に寝そべって、左腕をクッションに載せ、右手で食卓の料理を取ったはずである。奴隷が来客の履物を脱がせて足を洗うというこの習慣と、日本人が家に入るとき下足を脱ぐこととは、たしかにそれぞれ独立した習慣には違いない。ただし、そこに共通する心理的要因はなかったのだろうか。少なくとも日本人としての私の感覚からすれば、そこには、たんに屋内の清潔を保つというだけでなく、やはり互いに空気の違う別の世界への出入りを象徴するものがあるように思われてならない。

 ところで、空気の違いを最もよく感じさせるのは、風ではないであろうか。私たちは異質な世界に出入りするとき、たとい木の葉のそよぎは眼に見えなくとも、肌に感じる風はなくとも、それまでとは違う空気を心に吹く風として感じるのではないか。たとえば古代の日本人には、とりわけ旅がそのような風の心に滲みる機会であった。というのも、彼らにとって旅立つことは、とりもなおさず異界に足を踏み入れることに他ならなかったからである。

 おそらく私の心にも、祖先たちが旅路で感じ取ったはずの異界の記憶が残っている。そして、その異界は死の国としての他界にも連なっていたに違いない。その思いがこのギリシアの廃墟で増幅されて、私は風を待つ。スキロンが私に、おまえはここに何をしに来たのだと問いかけたとき、実はすでに私の心に風が吹いている。

 風の塔の頂点にあったトリトン像こそ失われたが、古代ギリシア人はこの海神ポセイドンの息子が海馬にまたがってほら貝を吹き鳴らし、荒海を鎮める姿を思い描いた。この塔が建立された紀元前一世紀のギリシア人も、そうだったであろう。八風神の誰が吹き起こした風であろうと、トリトンが荒れ狂う風を鎮め、波浪逆巻く海を穏やかな姿に戻す。おそらくそういう期待をもこめて,この塔の建てられたのは、古くからアテナイ人の生活と密接に結び付いていたエーゲ海、さらには地中海への旅と無縁だったはずがない。

 船はアッティカ半島の西岸沿いにサロニコス湾を南下して、半島の先端のスニオン岬に建つポセイドン神殿を左手に望むことになる。ここまで下れば、スキロンの生まれたというコリントスは北西の方角になる。船人たちは、ここでポセイドンに祈ったであろう。というのも、この岬を過ぎればもうエーゲ海のまっただ中であり、人喰い鮫が出没するにせよ、しないにせよ、海路はつねに死に直結する可能性を含んでいた。アテネのローマン・アゴラの風の塔の八角形、その風神たちの数「オクト」(八)と「ニュクト」(夜)との語呂合わせで言うのではないが、とりわけ荒れた暗夜の海を行く船の運命は、ポセイドンとその子トリトンにかかっていたのではないか。スニオン岬から南への旅路はさらに遠く果てしなく思われ、異界の気配はいよいよ濃くなるであろう。

 エーゲ海はさらに地中海に連なる。地中海の沿岸に在りながら、古代エジプト人は航海にはあまり関心を抱かず、ただナイル河を航行するだけで満足していたように見える。それに引き換え、ギリシア人はしきりに地中海を渡ってエジプトと交易していた。彼らは風の吹き荒れるときの海の怖さを、充分に心得ていたはずである。とすれば、古代ギリシアの舟人にとっては、吹く風の位相は大きな意味を持っていたに違いないし、ポセイドンとトリトンの加護は欠かせないものだったであろう。

 廃墟で異界の気配を風として感じ取ることが、もう長いこと、古代ギリシア・ローマ時代の遺跡をめぐる旅での、ほとんど習慣になってきている。たとえば崩れかけた礎石の隙間から生え出た雑草が微かな風にそよいで、小さな赤い花が揺れる。若い自然である。ただし、この若い自然の生成が成り立つのは、反面に自然の老化があるからであり、枯死への歩みと誕生への準備とがともに進行して、死を運ぶ風が生の息吹に連なっているからこそ、自然はその継続性を保つ。廃墟に咲き出た小さな花を揺らす風にも死の気配はあり、その気配もまた、どうやら異界から漂ってくるように思われるのである。今度の旅では、とりわけ廃墟のいたるところで大理石の隙間に育った雑草が激しい風に揺すられていたデロスの遺跡で、私はそれを強く感じた。

 日本には、このような遺跡はない。大理石の建造物と木造建築との相違であろうか、伊勢の式年遷宮の例を持ち出すまでもなく、私たちの祖先は自然の継続性を自然なこととして生きてきた。それだけに、死の気配はつねに身近にあったと言ってもいい。それでもなお、旅は特別の意味を持っていた。というのも、旅立つことがすでに異界に足を踏み入れることだったからである。まして荒れ狂う激しい風が旅路に立ちはだかるときの思いは、どのようなものだったであろうか。

 十一月の半ばを過ぎて、スキロンに誘われてだろうか、私はメガラを経てコリントス運河を渡り、古代コリントス遺跡を訪ねた。その翌日、またもアテネのローマン・アゴラで風の塔を見上げながら、私はここにスキロンがいることとポセイドンとの関係を考えていた。このスキロンは、まさにメガラの海沿いの岩に坐って、自分の足を旅人に洗わせては相手を海中に蹴落として大亀の餌食にしていたという、あの神話で知られたスキロンに他なるまい。というのも、コリントス地峡に運河が掘られるまでは、アテナイからイオニア海、さらにアドリア海に出て行くためには、ペロポネソス半島の南から西へと迂回して北上する以外には航路は存在しなかった。そして、コリントス運河の開通は、なんと一八九三年まで待たなければならなかったのだ。とりわけ古代の航海に風の及ぼす危険を考えると、スキロンが蹴落としてくれる旅人を待ち構えている大亀は、船人に襲いかかる危険の象徴ではなかったろうか。スキロンがポセイドンの子であろうと、なかろうと、スキロンがテセウスによって海に突き落とされるという神話の筋書きの裏面には、ポセイドンに航海の無事を祈った古代アテナイ人たちの、いわば集合心性がはたらいていたのではないであろうか。

 さて、自分の思いのなかでは古代ギリシア人の旅と風とのイメージに重ねながら、古代の日本人にとって旅と風との持っていた意味を考えてきた結果が、この本である。収録した論文の多くは、一九八九年から九二年にかけて国際日本文化研究センターの紀要『日本研究』に掲載したものがその原型ではあるが、それからすでに十余年が経っている。その間に私自身も私なりの旅を重ねたし、不意に異界からの強い風に吹き煽られたこともあって、論文によっては原型から遠く隔たっているものもあり、また新たに書き加えたものもある。それらを一冊にまとめるにあたって、『死に別れる』(一九九五)のときにもお世話になった三省堂出版局の松田徹さんに、たいへんなご尽力をいただいたことをここに記して、感謝のしるしとしたい。

 2004年1月10日

久野 昭


 
●本文紹介

第一章 隠国の旅(上)から

ハデスへ

 ソクラテスが処刑されたのは、紀元前三九九年である。刑死の前日、彼はアテナイの牢獄で別れを告げに集まった弟子たちと、魂の不死のことを語り合った。その内容を伝えるのが約十年後にプラトンによって書かれた『パイドン』であるが、この対話篇の終わり近くで(一○七D−E)、プラトンは冥界[ハデス]へと旅立つ魂についての当時の言い伝えを、ソクラテスにこう語らせている。

 「その言い伝えとは、こういうものだ。人が死ぬと、生きている間から各人の運命を司るべく割り当てられていたダイモンが各人をある場所へ連れてゆこうとする。そこに集められた者たちは裁きを受けてから、かれらをこの世からあの世へ連れて行くべき使命を与えられたかの導き手とともに、ハデスへと旅しなければならない。かれらはハデスで蒙るべきことを蒙り、定められた期間留まると、別の導き手がかれらをこの世へと連れもどすのだ。その期間は何度も繰り返される永い周期をなしている」(岩田靖夫訳)。

 ダイモンあるいはダイモニオンとよばれる守護霊的な存在への信仰は、古代ギリシアの民間宗教のかなり初期の段階にまで遡って認められるようだ。「幸福」をギリシア語では「エウダイモニア」と言うが、これは「良きダイモンを持っている」ことを意味する。個々の魂には、それぞれのダイモンがあった。たとえばソクラテスに、ある種の行為を避けるように警告する「ある神的なもの(ダイモニオン・ティ)」のあったことは、プラトンの『ソクラテスの弁明』などでよく知られている。

 人が死ぬと、そういうダイモンがその人をある場所へ連れて行く。そこが、ハデスへの旅の起点になる。

 たとえば、ソクラテスの時代にアテナイに多くの信者を持っていたエレウシスの密儀の場合は、プルトニオンの横穴がそのような場所だった。アテナイのケラメイコスから「聖なる道」を辿ってエレウシスに着いた大密儀の参加者たちは、この横穴の前で、これまで身につけていた衣服を脱ぎ捨てる。それはミュステース(大密儀の参加者たちはそうよばれていた)たちがいま死の国に旅立つにあたって、これまでの生を捨てること、あるいは同じことだが、その肉体を捨てることを意味していた。裸になったミュステースたちは、この横穴から下方に向かってハテスへの道を歩む。道中、アリストパネスの『鳥』が伝えるように、冥界に棲むさまざまな亡霊が出現しては彼らを脅かした。そして、彼らはそれぞれ裁きを受け、罰せられ、浄化された後、レーテー(忘却)と名付けられた地下水脈の水を飲んでから、光明への道を登っていくことになる。

 ダイモンに当たるような霊は、たしかに、古代の日本にはなかった。死後の裁きという観念も、おそらく仏教の受容される以前には、この国に存在しなかったであろう。けれども、人が死ぬと魂がそこからあの世へと旅立つような、この世から冥界へと通じる、ある特殊な地点は、古代の日本にもいくつかあった。

隠国の泊瀬の山河

 允恭天皇が崩じて後、帝位に即くはずだった木梨之軽太子[きなしのかるのひつぎのみこ]が母親を同じくする妹の軽大郎女[かるのおほいらつめ]を妻としたために人心を失い、後に安康天皇となる弟の穴穂命が軍を起こした。太子が捕らえられ流されたのを、軽大郎女が慕い追ってくるのを待って太子が詠んだ歌二首のひとつが「隠[こも]り国[く]の泊瀬[はつせ]の山の」ではじまり、いまひとつが「隠り国の泊瀬の河の」ではじまる。二首を詠んだ後、二人は自決した(『古事記』下巻・允恭天皇)。

 「隠国[こもりく]」とは、一般に理解されているところでは、左右を山に挟まれた狭い土地で、泊瀬にかかる枕詞として使われる。ここでの泊瀬は、『和名鈔』大和国城土郡に言う「長谷」(渡都世)郷、上代帝京の置かれた大和国磯城[しき]郡の地、今日の奈良県桜井市初瀬町の辺りである。

 囲われて外からは見えない状態を、「隠[こも]る」と言った。「籠る」とも書く。初瀬町一帯は、泊瀬山・巻向山・三輪山、さらには天神山・鳥見山によって三方を囲まれた峡谷である。この地に十一面観音を本尊とする長谷寺の創建されたのは、『長谷寺縁起』によれば天平四年(七三三)。やがて初瀬は、観音の補陀落[ふだらく]浄土として多くの参詣人を集めるようになった。だが、それは右の自決事件からは、はるか後代の話である。いまは、この地が古くから葬送の地であったことに、注意しておきたい。

 葬送の地であったことから、後に触れる橘守部の指摘にも見られるような、身の果ての「果つ瀬」という観念も出てきた。『萬葉集』巻第七に収められた次の一首(第一二七○盤)の泊瀬も、この意味での果つ瀬と読み取ってよかろう。人の生命の果ての地を照らす月が、自ら満ち欠けるその様を通じて、人の棲む世の無常をしみじみと思わせる。

   隠口[こもりく]の 泊瀬の山に 照る月は 盈長[みちかけ]しけり 人の常無き

 同じく『萬葉集』の巻第三に「土形娘子[ひぢかたのをとめ]を泊瀬山に火葬[やきはぶ]る時、柿本朝臣人麿の作る歌」として出ている一首(第四二八番)、

   隠口[こもりく]の 泊瀬の山の 山際[やまのま]に いさよふ雲は 妹[いも]にかもあらむ

の雲は、当時としてはまだ珍しかったはずの火葬の煙でもあれば、また愛しき者の魂でもあったのであろう。

 木梨之軽太子が妻と心中する際に詠んだという歌二首は、こうである。

   隠り国[く]の 泊瀬の山の 大峰[おほを]には 幡[はた]張り立て さ小峰[をを]には 幡張り立て 大小[おほを]にし 仲[なか]定める 思ひ妻あはれ 槻[つく]弓の 臥[こも]る臥りも 梓弓 起[た]てり起てりも 後[のち]も取り見る 思ひ妻あはれ

   隠り国の 泊瀬の河の 上[かみ]つ瀬に 斎杙[いくひ]を打ち 下[しも]つ瀬に 真杙[まくひ]を打ち 斎杙には 鏡を懸[か]け 真杙には 真玉[またま]を懸け 真玉なす 吾[あ]が思[も]ふ妹[いも] 鏡なす 吾が思ふ妻 有りと言はばこそに 家にも行[ゆ]かめ 国をも偲はめ

 『萬葉集』巻第十三の相聞歌仲の一首として、この第二首と同じ歌が、次のような形で出てくる(第三二六三番)。

   隠口[こもりく]の 泊瀬の河の 上[かみ]つ瀬に 斎杙を打ち 下[しも]つ瀬に 真杙を打ち 斎杙には 鏡を懸け 真杙には 真玉を懸け 真玉なす 我[わ]が念[も]ふ妹[いも]も 鏡なす 我が念ふ妹も 有りと謂[い]はばこそ 国にも 家にも行[ゆ]かめ 誰[た]がゆゑか行かむ

問題の所在

 もっとも、同腹の妹にしてしかも妻である女との心中を覚悟しながら、その女が待っているというなら家にも戻るのに、故郷をも偲ぶのに、という言いかたは、いかにもおかしい。だから、この事件とは別個の、妻を喪った男の挽歌の混入を、ここに見ることもできよう。また、歌全体として、風俗歌のようなものの応用を読み取ることもできよう。

 けれども、いま問題なのは、これが実在の木梨之軽太子によって、実際に詠まれた歌かどうかではない。この歌自体がそれらよって成り立ち、それによって読む者の心に訴えかけてくる情念が問題なのだ。そして、そのような立場からすれば、すでに冒頭の「こもりく」から問題である。これは一般に言われているように、たんに枕詞でしかないのか。その意味は、ただまわりに山が迫っている場所ということだけなのか。

 折口信夫は『国文学』で上代歌謡について語った際、この『古事記』の「こもりくの」の歌を引いて、「こもりくの」とは、「泊瀬の枕詞。泊瀬川の大和の平原に出て三輪川となるまでは、泊瀬峡谷とも言ふべき山峡[やまかひ]になってをって、其奥程、泊瀬の本拠なのだから、こもりくに隠れた国と言ふ感は深い。其籠り隠れてゐると言ふ事に対して、国讃めの意味を持たせてゐたのである」と述べた(全集第十四巻一七○頁)。また、『萬葉集講義』のなかで『萬葉集』巻第十三の「隠国の泊瀬の国に」ではじまる歌(第三三一一番)と「隠国ノ泊瀬小国に」ではじまる歌(第三三一一番)を取り上げた際にも、「こもりくの」が泊瀬を修飾した理由として、「泊瀬の国ぼめの詞である。国の形が山に囲まれてゐるのをよい地相と見て、讃えたのであらう。その上、こもるといふ言葉に絡んだ聨想が働いてゐる。即、老い先長いと云った讃美の意が見える」と語った(全集第九巻二二五頁)。私はそういう解釈を頭から否定しようなどとは、つゆ思わない。けれども、はたしてそれだけなのか。 それだけでいいのか、という疑念もある。

 たとえば橘守部は『稜威言別[いつのことわき]』巻七で、「隠国の泊瀬」について、こう述べている。

 「許母理久乃は、隠城之にて泊瀬と云はん枕詞なり、許母理は岩屋戸隠など云如く、人の幽冥に隠りて見えずなること、城は墓を奥城と云城也、泊瀬は上古の墓所にて山城の京の鳥部山の如くなりつれば、其地の名も果瀬と云、果は終る意、瀬は限りの意也、故に隠城之果瀬とは云ひつづけたる也、倭姫命世記に、許母理国志多備の国とあるは、下部の国にて、黄泉の事也」

と解している。そして、『萬葉集』巻第十六から一首(三八○六番)、

   事し有らば 小[を]泊瀬山の 石城[いはき]にも 隠[こも]らば共に な思ひ吾背[わがせ]

を引いて、このように「よみたる岩城即ち墓の事也、これらを合せて右の意を悟るべし」と言う。この指示に従うなら、「こもりく」は下方の国、つまりは黄泉の国でもあることになる。はたして、どうなのだろう。

 木梨之軽太子とその妻が「隠国の泊瀬の」の歌とともに「共に自ら死にたまひき」、すなわち相携えて黄泉の国に下ったのは、隠国の泊瀬においてではない。太子の流刑の地は伊予の湯、つまり今日の愛媛県松山市道後温泉の辺りだった。二人の心中の舞台は、泊瀬からはいかにも遠い。太子の心を泊瀬に、しかも「隠国」の泊瀬に向かわせたものは、何であったか。隠国の泊瀬は、たんに歌中に詠まれる妻への思いを彼が自らかき立てるための、いわば導入部でしかなかったのか。

 いま私が問題にしようとしている事柄は、日本人の精神史に、とりわけ古くからの日本人の他界観にかかわる。日本人の他界観を跡付けようとする場合、おそらく少なくとも縄文時代から始めなければならないだろう。すでに縄文時代中期には集落内の一定の場所に死者が埋葬され、墓域の存在していた痕跡は歴然としているし、その墓域の設定と関連しつつ他界観念も成立してきたであろう。たとえばともに縄文時代中期と推定される神奈川県神隠丸山遺跡や岩手県西田遺跡では、中心に位置する墓坑群を取り囲む形で住居群が円環状に配置されている。地面に穴を掘って死者の遺骸を手厚く葬り、その場を取り巻いて生者が生活を続ける。この死者と生者との共存の意味するものが、その後の葬法の変化によって消滅しきったであろうか。

 先に引いた柿本人麻呂の歌は、文武四年(七○○)の僧道昭の遺命による火葬以前の人麻呂の時代にも、すでに泊瀬で火葬の行われていたことを伝えている。これも仏教の影響ではあろうが、この外来宗教の受容が日本人の他界観を一変せしめたであろうか。仏教の信仰を受け入れ、火葬という葬法を採用することで、無論、それなりの変化もあったが、また不変のものもあったはずだ。もし日本人の精神史を一本の樹木にたとえていいなら、その不変のものがこの樹木の幹の中心の髄を流れていると言ってもいい。

 いま日本人の他界観の問題を念頭に置いているのは、断じて日本人の精神史の地平を荒涼たる昿野のごとく表象しているからではない。むしろ、逆である。概して細かく曲がりくねった海岸線の間近にまで山岳が迫って森林の多いこの国の自然に、風のそよぎ、鳥の囀り、緑の安らぎがあるように、この精神風土にも同様の表象がある。だから、いま樹木について言っている。

樹木

 緑なす樹木が光合成によって無機物から有機物を作りながら生きていくような、そのような自己増殖ぶりが、日本文化にもあった。

 日本人の精神史は、見かたによっては海外文化の受容とその日本的変容の歴史であったが、海外から新しく輸入されたものは、祭器にせよ、用具にせよ、技術であれ、思想であれ、それが舶載され舶来しただけでは、それを生み出したかの国にとってでなく、それを初めて見るこの国にとっては、ただの無機的な珍品でしかあるまい。それがこの精神風土に馴染み、文化的に受け止められ、有機的に作用するためには、一種の光合成が必要であった。あたかも緑色植物が光合成によって大気中の二酸化炭素を分解するように、海外からの新風も一度分解され、かく分解されることが有機化につながり、国風[くにぶり]の酸素が発散されるようになったのであろう。仏教やそれがもたらした火葬の風習にしても、同様だったであろう。

 この樹木にも、この樹木なりの髄が幹の中心にあって、その周囲にほぼ円状の層が形成されてきた。師部と木部との境をなす形成層は分裂組織だが、季節による寒暖の差の大きい地帯では、形成層はその分裂活動に適した時期にしか分裂を行わない。日本が地理上そこに属する北半球では、春から夏の終わりにかけてのみであって、この時期の分裂活動によって樹木は生長し肥大する。この生長期の初期、すなわち春に形成された比較的大型で膜壁の薄い、柔らかな細胞組織(春材)と、末期、すなわち秋の訪れる頃に形成された比較的小型で膜壁の厚い、堅い細胞組織(夏材ないし秋材)とが、一組となってひとつの生長輪を形作る。それら生長輪は髄を中心にはするが、その幅は一様に均等とは限らない。陽光の影響もあるし、季節による風向きということもある。幹から張り出した枝に、あるいは斜めに上方を目指した幹に、とりわけこの不均等は顕著だ。

 日本文化の場合、不均等はその地域的位相に関係する。大雑把に言ってよければ、たとえば西日本と東日本、太平洋側と日本海側、文化的に陽当たりのいい地域と陽の当たりにくい地域、外からの風たとえば唐風への和風の対応ぶりの地域差等々、不均等の要因はいくらでもあろう。

 そういう不均等をも内に蔵しながら、しかし日本人の、まさに日本人の精神史として生長を続けてきた樹木の、その幹の中心を一貫して流れてきかたであろうものへの関心のなかで、日本人の他界観との関連において、いま「隠国」が問題なのである。

アイヌ

 「隠国」の問題に迫るために、ここでアイヌの場合を見ておきたい。その理由は、こうである。

 たしかにアイヌがそもそもどの人種に属するのか、たとえばモンゴル人種か、それとも南方から渡来した別の人種か、それらとは全く別の人種か、今日にいたるも確たる定説はないようだし、このアイヌと日本石器時代人との関連についても諸説あって一定しない。ただ、東日本において古代日本民族と民族的衝突を繰り返しつつも、次第に混在・混血・同化しながら今日の日本民族を形成するひとつの大きな要因になったろうことは、推定可能だし、さらなる推定、ただしおそらく事実から程遠からぬ推定が許されるならば、アイヌと古代日本民族とは縄文人という共通の根を持つ。主として東日本において縄文人を共通の根としつつも古代日本民族と文化しはじめたアイヌが、次第に北方への後退を余儀なくされ、ついにはいわゆるブラキストン・ライン(津軽海峡線)を越えて行き着いた北海道で、オホーツク文化が消えてアイヌ文化が始まったのは、せいぜい紀元後十二・三世紀あたりであろう。もしそうなら、縄文時代後期から晩期にかけての頃、稲作という農耕生産につれて生長した日本的アニミズムを軸とする精神文化を、この狩猟と漁撈を生業とする民族が今日に伝えている。そのアイヌをいわば鏡とすることで、古代日本人にとっての他界を照らすことも、あながち無謀ではないであろう。

 進化論の使徒として東京大学の講壇に立ち、大森貝塚の発見と調査とによって日本の学術的考古学への道を開いたのはモースだが、彼がいわば先鞭をつけた明治期前半の考古学の段階では、当時各地の石器時代遺跡からほとんど全国的に発掘され、いまでは縄文式とよばれている土器が、そのアイヌを思わせる文様ゆえにアイヌ式土器とよばれ、そのためにアイヌを日本全土にわたっての先住民族とみなす傾向があった。その傾向が誤っていたにせよ、縄文式土器がアイヌ式土器とよばれたのは、全くの誤解だったのだろうか。そこには、真理も含まれていたのではないか。いわゆる縄文文化とアイヌ文化とが無縁だったと見るのもまた、誤解ではないか。

 もとより、日本文化について重層性が指摘されるように、アイヌの場合にも文化的重層が想定されねばならない。蝦夷地への和人の侵入は幾度かあったろうし、侵入とまではよべぬにしても、アイヌが和人の影響を強く受けざるをえないような機会は幾度もあったはずである。たとえばバチラーがヘイスティングスの『宗教倫理学百科事典』の第一巻(一九○八年)の「アイヌ」の項で、彼自身の調査と研究に基づきながらアイヌの思想として紹介している事柄のなかにも、死後の裁判とか、善人と悪人とで異なる他界とか、明らかに仏教の影響と解すべき事項が少なからず存在する。北海道上陸の以前にも以後にも、ただアイヌだけが文化的に純粋培養されたとは、到底考えられない。それでもなお、原始日本から古代日本へと引き継がれ、その後も日本人の精神史の中心を流れてきたものを、アイヌが比較的純粋な形で保っていたという可能性は、依然として残る。だから、ここでアイヌの場合を引き合いに出すのである。


 
●編集者からの言葉

 人間の「たましい」の問題は、すべての表現ジャンルにおけるもっとも古く、同時にもっとも新しいアクチュアルなテーマである。大ヒットした村上春樹の最新小説「海辺のカフカ」が、徹頭徹尾、現代日本人の「たましい」のかたちをめぐる物語であったことは記憶に新しい。人間の世界が続いてゆくかぎり、「たましい」は人の生き方に直接かかわる最重要のテーマであり続けるだろう。

 本書は、長年にわたって日本人の死生観、他界観をめぐる諸問題を、哲学・比較思想論の立場から究明してきた著者の、この分野における総決算となる仕事である。日本人の「たましい」のあり方、来し方行く末の原イメージが、古事記、萬葉集にはじまる豊富な古典資料の読みのなかからあざやかに引き出されると同時に、それがギリシア世界への旅の記憶とかさなって、読者のこころにそくそくと迫ってくる。「一生の傑作を残そうとする久野氏の執念であろうか。その執念が実り、この書は久野氏の多くの著作のなかでもとりわけ傑作であると私は思う」(梅原猛氏による序文)という評言がうなづける作品である。

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