『筆跡鑑定ハンドブック』見本原稿
(第一章 筆跡が危ない)

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世界唯一のハンコ国家

 日本は世界唯一の印鑑(ハンコ)国家である。何かというと書類に印鑑を押させ、捺印のあることがその書類の正規なることを意味する。

 学生が大学の窓口に書類を提出するときにも、しばしば印鑑を押させることがある。印鑑を所持しない学生が、社会的習慣を知らないと叱られている場面に遭遇する。制度なのだから仕方がないのだが、果たして印鑑が何の意味をなしているのか、不可思議に感ぜられることが多い。

 たとえば「山田」といったよくある姓なら、いつでも市販の三文判が買える。しかも、山田さんでなくても、誰もがそれを買うことができる。つまり、山田さんに限らず、三文判を買いさえすれば、誰もがたやすく、「山田」なる人になりかわることができてしまう。

 時には書類に名前が印刷されていて、捺印することによって本人承諾の意味が証されることがある。近年はパソコンが普及して、活字印刷が手軽にできるようになっているから、ハンコを買うことでこの種の書類などは、やすやすと偽造できてしまう。パソコンの普及によって人が字を手書きすることを回避している一方で、私たちの生活は、自分の名を使った偽造文書出現の危険性に直面している。

 あるいは中国人留学生であれば、「王」「張」といった姓を称する学生がざらにいる。彼らにも日本の制度の中で生活するからには、印鑑の所持が求められる。そこで身近な方法で入手することになるので、彼らが同じ印を所持していることが往々にして生ずる。こんな実情を見て、印があるのないのとこだわるほどに、印鑑が個人を証明する手段といえるだろうか。それとも印鑑は、書類が正規であることを飾る儀式であるという程度に認識しておくことが適当なのだろうか。

 1 印鑑は人を証明できるか

 世界のすべての国が、サインをもって自己を証明する手段としている中で、日本だけが印鑑を、自己を証明するための最重要事に位置づけている。たとえば銀行で預金をおろすための書類では、サインは同一でなくても印鑑が一致すれば有効となるし、この逆の場合は無効となる。別人であっても通帳と印鑑さえあれば、預金を引き出せるしくみになっている。

 それがために、盗難の印鑑と通帳を用いた不正預金引き出しや、印鑑の偽造による事故が頻繁に起こっている。しかも、銀行はこれらの不正引き出しに対し、印鑑があることを楯として責任をとろうとしない。近年、こうした被害者からの訴えに、裁判所が銀行の責任を一部認める判決を下して被害者救済の方向に道が開かれつつあるが、依然として銀行では、印鑑がサインに優先する制度が続けられている。

 確かに、証書・証券などに、たとえ印刷であっても印鑑が入っていないとさま様にならない。たとえば平素は何ら気にもとめていない一万円、五千円、千円の各紙幣にも、表には「総裁之印」、裏には「発券局長」の二つの印が共通して印刷されている。これが日本における証書・証券のさま様であって、それが気にならないのは、私たちの感覚にそれがすっかり定着しているからであろう。

 欧米の証書は、用紙にそれを発行する機関を示す紋章が印鑑のかわりに印刷されている(図1‐1)。この紋章は、いずれもが伝統を踏まえ、格調高く色刷りで仕上げられたものである。機関などの組織体が発足すると紋章を専門のデザイナーに依頼し、作成することが習慣となっている。日本には家紋があるが、西欧にもワッペンの伝統があり、今でもドイツなどに行くと手軽にこれを作成してくれる店がある。機関の紋章は、こうした名家の家紋のイメージが普遍化したものなのだろう。

 さらに欧米の証書には、その証書を発行した責任者のサインが必ず入らなければならない。機関オリジナルの紋章入りの用紙に、それを発行した責任者の存在を明らかにする二重の備えである。たいていの場合、署名まですべて印刷してしまう日本の証書とは、厳正さにかなりの開きがあることが察せられよう。字が下手だからと署名を避けることなどは、欧米の感覚ではとうていありえないことである。

 印の本場、中国でも欧米と同様に、資格証など厳正さが求められる証書では発行者のサインが最重要事であり、サインのない証書は効力を有しない。ただし、中国では西欧的な紋章はなく、いわゆる「赤い星」の大きな丸印にその発行機関名を印し、そこに発行者のサインが入る(図1‐2)。位置については、西欧の紋章は中央上部に印するのに対し、中国では下部に捺印する相違がある。

 印は中国の戦国時代まで遡る長い歴史をもつ文化である。印鑑というよりは印章と呼称するのが適当で、日本には奈良時代に本格的に伝わった。奈良朝廷ではこれを重んじ、いわゆる大和古印(図1‐3)なる独自の印型を考案して勅書などを飾るが、その後はとりたてた発展はなく、その習慣は消滅していった。むしろ、署名の下に手書きする書き判(花押、図1‐4)が通行するようになり、朱印はわずかに中国様式に親しむ儒者や文人、また書家に用いられるばかりであった。

 つまり、印が今日のように意義づけられ用いられるようになるのは、明治政府になって以降のことであり、中国の伝統とは全く結びつかないものである。ヨーロッパ方式の近代政治が導入されて、郵便局や銀行ができると、人はそれを利用するために、自分の名前を示さなくてはならなくなった。しかし、その実情はというと、文字を全く書けない人が多くあった。

 五十年ぐらい前までは、代書という職業があった。今でも司法書士や不動産取引主任など人に代わって書類を作成する職業があるが、当時は字を知らない人に代わって、文を読んだり手紙を書くなどの職業が成り立っていたのである。字は書けなくても、印を押すことによって自己を示し、印を守ることで自己の権利の安全をはかる時代であった。その旧態依然とした制度を、日本は今に至ってなお引きずっているのである。

 ここでこっけいなのが、手元に印鑑がないとき、小さく署名し、その周りを印鑑型に小さく丸く囲んで示す方法が、日常生活において定着していることである。厳正な書類ではこうはいかないが、くるっと囲むことで印鑑がわりとする意志を示しているのである。身に付いた感覚では、赤く押印された方が正式で、サインにくるりが略式に見られる。サインが個人の証明を目的とするものであるならば、三文判などよりは、よほどこの手書きの印鑑形の方が証明性が高いのであるが、世間の感覚はそこにはない。

 2 銀行は印鑑を鑑定できるか

 では、この最優先する印鑑の真贋{しんがん}を、銀行はいかに鑑定しているのであろうか。近年はプリぺードカードが普及して、預金者はたいていの場合はカードによって入出金している。それでも旧来の伝票による方法は生きているし、とくに金額が大きくなると窓口を通す扱いが必要となる。事を重く見て、チェックを十分にしようというものなのだろうが、この理解のしかたに大きな行き違いがある。

 銀行が印鑑鑑定士を置いているわけでもなければ、印鑑の検査機といった設備があるわけではない。銀行の原簿に届けの印が控えられており、銀行員がこれと同一の印であるかどうか照合しているだけのことである。つまり、印鑑が届けのものと同じかどうか間違いをチェックしているにすぎないのであって、きわどい真贋の見分けなどは、全く意中にないといっていいだろう。

 いま、印鑑鑑定士、また印鑑検査機があたかもあるように述べたが、これらはいずれもこの世に存在しない。印鑑検査機をもし作るとすれば、印影の縦のデータと横のデータをコンピュータで測り、精密に数値化すればいいだけで、簡単に現実化できることだろう。しかし、これを実際に機械化させることは難しい。

 第一に、印鑑は使っていくうちに次第に磨り減ったり欠けたりし、変化するものである。第二に印鑑を捺印する場合、印肉の状態、印肉の付き具合、それに用紙や下に敷く材質によって、印影が微妙に変化する。こうなると検査機はデータを精細に読み取るから、もし百パーセントの確率を求めたとすると、すべての印影がことごとく不可という結果を招くことになるだろう。もしこれを九〇パーセント、あるいは八〇パーセントの確率に下げたとすれば、不可のトラブルは減少されるだろうが、同時に贋物が入り込む余地を自ら開いたことになる。つまり機械を使うならば、百パーセントの確率を設定せざるを得ず、現実的には機械化させられないのである。

 印鑑鑑定士もまた存在しえない。人間の目が機械にまさることはあり得ず、結局は機械に頼らざるを得ないからである。かつて古書画の鑑定家は印の良し悪しを真贋の決め手に置いていたが、これはあくまでも古書画という作品条件の前提に立つもので、それを直ちに一般的な筆跡に置きかえることはできない。ちなみに、印の偽造では、中国はすでに二千年来の歴史があるが、日本人は印は偽造できないものと頭から思い込んできたものらしい。これはとんでもない勘違いで、中国人の専門家の手にかかったら、一般の日本人では見分けのつかない印を偽造する(複製を作るといった方が適当か)ことなど、いともたやすいことであろう。

 印鑑鑑定士が存在しえない最大の理由は、近年のコンピュータの発達と普及による技術の進化にある。簡単にいえば、合鍵を作る技術を想起すればいい。印影をコンピュータによって記憶させ、これを別体に写してカットすれば、完璧に合一の印影をもつ印材ができ上がる。中国では目下この方法によって、印の古典的名作の複製を作成し、印譜と呼ばれる印を直接に押した作品集をさかんに出版している。このように印影が合一であれば印鑑鑑定士は可とせざるを得ず、つまり職務は成り立たないのである。

 このことが、今きわめて重大な社会的不安を生み出している。印鑑の鑑定力を持たない銀行が、時代の変遷に手をこまねくままに、印鑑最優先のこの穴だらけの制度を継続して現在に至り、偽造印あるいは盗難印による不正預金引き出しに応じてしまう。しかもこの制度を楯にして、ひたすら責任を回避しているのである。

 3 裁判と筆跡鑑定

 二〇〇四年十月十九日、アメリカ・ワシントンDCにあって、東洋美術を収めることで名高いフリア美術館を訪れた。その日、美術館の特別なはからいを得て、地下の収蔵施設に案内され、種々の貴重な書跡資料を拝見した。そこで驚いたのが、ドアのロックが学芸員の声によって管理されていることであった。つまり、鍵のかわりに声によってロックが開くシステムになっているのである。暗証番号のように、使用者による特定の声を、システムに覚え込ませているのだろう。

 これは声のもつプログラム、つまり声紋が応用されたものであろう。声紋に対する研究はかなり進んでいる模様で、テレビのニュースでも声紋が一致するか否か、時たま論点となって登場している。二〇〇二年一月四日、神戸大学の私の研究室にトヨタ自動車東富士研究所研究員の来訪があり、同研究所における声紋の研究の情況について詳細な報告を受けたことがある。それによると、たとえば「ただいま」と言えば「おかえりなさい」と答えるシステムや、「明かりよともれ」と命ずれば、部屋の明かりが一斉にともるというようなシステムを実用化することはすでに可能であり、これを車のロックにも応用できる段階にあるという。車のロックは盗難対策として果たす意味が大きいが、フリア美術館のシステムを想起すれば、これがきわめて現実的なものとしてイメージできる。同研究員はさらにこれを筆跡にまで発展できないか模索中であるという。つまり、サインを記すことによって声紋に類する動きをキャッチし、これによってロックの開閉を管理しようというものである。

 指紋、DNAの一致・不一致は、犯罪捜査や裁判において、証拠としての決定的な位置づけにあるものである。声紋もまたこれに準じて証拠事項となるものであろう。しかるに、筆跡は人の顔が異なるように必ず個別的に異なるものでありながら、裁判では参考事項に留められ、証拠としての効力には限界をもっている。

 これは筆跡学の立ち遅れに起因していることは言うまでもないが、筆跡が固有のものでありながら、人は完全に合一する筆跡を自分自身でも二度と書きえないところにもその原因がある。これが筆跡をDNAや指紋のように固定した情報として、把握することを困難にさせているのである。

 二〇〇二年三月一九日、和歌山地方裁判所の判事の要請に応じて筆跡鑑定のありかたについて講話した中で、たとえば四文字による署名があったとして、その中で一文字でも筆跡原則の異なる字が混じっているとすれば、本人筆跡とは断じがたいだろうと私の考えを述べたところ、一判事から裁判官はそういう考え方はしないだろうという返事が返ってきた。つまり、四文字中の二文字が合えば五分五分、三文字が合えば本人筆跡としての可能性の比重が大きいと見るというのである。なるほど裁判とはそういうもので、五分五分の対立から始めてどちらに比重を見いだしていくかの場であったのだ。

 しかし、私はあくまでもこれはおかしいと思う。たとえばDNA検査であれば、一部の不一致を見るだけで、これを異なると判定し、声紋にしても一部の差異が認められれば、そこに疑念が注がれるに違いない。もし筆跡に対する裁判官の見方が通るのだったら、贋物の古書画の署名の大半が、本物として判定される珍事が発生することだろう。原因は、やはり筆跡鑑定に対する裁判官の信頼度の低さにあるのだろう。

 かくいうとおり、筆跡が裁判において参考事項ではなく証拠になるためには、筆跡鑑定がDNAや指紋、あるいは声紋と同等の科学的地位を得なくてはならないのである。私が裁判にかかわった経験からして、筆跡が不一致であることを証明しえたと確信しながら、相手側に一致すると徹底的にがんばられると、裁判で勝ちに結びつけることがいかに困難であるかを思い知らされている。

 こんな馬鹿なことがあっていいのか、裁判官は何を見ているのだろうかと憤ったところで、裁判官の心は氷のようなもので、両者の意見を参考に留め、誰が、いつ、どこで、なぜその筆跡を書く可能性をもつのか、時間的な関係、人間的な関係などの諸事情を裁判官独自の推論によって総合的に判断し、筆跡の一致・不一致とは別のところで判決を下すのである。そもそも人間の個々の筆跡には必ず不一致があるわけだが、それに反した本末転倒の判決が下される可能性を、現行の裁判は少なからず残している。

 4 筆跡鑑定士とは何か

 裁判では、事件によって裁判官から筆跡鑑定が求められることがある。筆跡は参考事項に留められるといったが、裁判官が判決を下す参考にするために鑑定が求められるのである。

 この裁判に用いられる鑑定と、犯罪捜査のための鑑定とは、大きく質を異にするものである。各都道府県の警察には科学捜査研究所という科学的な実験によって捜査資料を解析する専門の機関があって、その中に捜査を目的とする筆跡鑑定の技術者が置かれ、事件捜査の対応のほか、筆跡鑑定のための技術開発が続けられている。千葉県柏市にはその本部である警察庁科学警察研究所があり、『日本鑑識科学技術学会誌』を刊行して、全国規模の学会組織と同等に研究成果の報告と協議が重ねられている。ただし、捜査力の実態と機密性に関連することなので、その内容が広く世上に出されることはない。

 捜査のための筆跡鑑定は、もっぱら犯人を追跡するための手がかりと証拠を得ることを目的とするが、民事の裁判では、これが当事者相互の争いの材料となる。つまり、この鑑定は真理を究明するためのものではなく、争う両者が裁判官から有利な判決を引き出すための材料として提供されるのである。

 裁判では訴える者、訴えられる者それぞれに弁護士が立つ。弁護士はあくまでも弁護する側を有利に導くために存在しており、真実を明らかにするためにいるのではない。真実を明らかにするのは、両者の言い分を聞く裁判官の役割である。したがって、弁護士は嘘を言うことは許されないが、自分にとって不利な事実を言うことはない。むしろ、事実を巧みにかわし論点を転化して、裁判官を有利な状態に導けるか否かにおいて、弁護士の実力が問われるのである。そして、民事の裁判における筆跡鑑定も、これと同じ趣旨に立ってなされる。 資格がいらない筆跡鑑定士

 ではこうした裁判で登場する筆跡鑑定士とはどんな人で、どんな資格のもとに存立するのかであるが、これに全く法的な規定がないのである。鑑定能力を測る国家試験に類するような認定制度はなく、すべてが自称の筆跡鑑定士なのである。筆跡鑑定法に関するセオリーなどはなく、鑑定も鑑定士独自の方法でなされることになる。

 さらにやっかいなことは、これらの鑑定士の多くが、前述の科学捜査研究所出身者によって占めていることである。つまり、警察を定年退職したあとに、第二の人生としてこの職を開業しているのである。彼らは筆跡鑑定の技量水準の現状と弱点、さらには論法の手の内などを熟知している。職業として依頼を受け、対価を得て鑑定するのだから、依頼者の求めに準じた結論を導くに決まっている。彼らの職業はそうしなくては成り立たないのであり、弁護士の存在との共通性を考えるならば、彼らのありかたそのものを司法の場で責めることはできないだろう。

 全く書いた覚えのない文書をめぐって、筆跡が違うのだから鑑定してもらえばわかることと裁判で鑑定を求めたところ、思いもかけず相手側から自分の筆跡であるとの鑑定書が提出された。そんな鑑定が堂々と行われる筆跡鑑定とは何なのか、全く信じられないとの訴えを耳にしたことがある。

 逆の場合も起こりうる。この頃は銀行が御用聞きをする時代で、それはそれで銀行に出向く手間が省け、ひったくりなどの事故にあう危険性が避けられる利点があるが、銀行員を信用して定期的に金銭を預けていた金銭が預金となっておらず、その銀行員が行方をくらましてしまったという事件が発生したとする。受取書類にはサインが残っている。しかし、預金者が銀行にそれを訴えたところ、サインが一致しないので認められないということになる。他に証拠となるものがないのだから預金者にとってその領収書だけが頼りなのであって、訴えにおいてはこれを本人自筆と主張するしか手だてがない。

 こうした場合も、銀行側は自己の立場を守るために、筆跡鑑定士を立てて争うことになる。銀行側に雇われた鑑定士が導く結論はいうまでもないだろう。司法とはそうした展開が十分に起こり得る場なのである。

 裁判では、一方から鑑定書が出れば、この鑑定に反論があるならば、別の一方にも鑑定書を出しなさいと裁判官は命令を下す。どんな鑑定士を選んだらいいのか、どれだけの費用を要するかなどは考慮されず、出さなかったらそれっきりで、反論はないことになる。また、いかに一方に真実と信念があろうとも、裁判官は双方を五分五分と見ることから始める。そして、双方から提出された鑑定書のどちらに論理的合理性があるかを読み解くことになる。しかし、鑑定書は専門の技術者の智恵でひねりにひねり裁判官に容易に見抜かれないようにしてあるのだから、結局のところは内容を十分には解することができず、鑑定の結論だけが参照される。そこにその鑑定書の鑑定士がどれだけの実績を有するかが加味され、鑑定士の力関係によって軍配が上げられかねない。これは裁判官の根本的な資質にかかわるものでもあるのだが、私たちにはそれを確かめる場は与えられていない。場合によっては、当人にとって事実は自明でありながら、審理が全く不条理な方向に引きずり込まれていきかねない。全く覚えのない文書を、お前が書いたものだと鑑定書を出され、裁判官がそれを認める事態は起こり得るのである。

 これには筆跡鑑定の科学性に対する社会的認識と信頼の向上が必要であるとともに、司法の場にあっては裁判官の命令のもとに、鑑定が同じ方法と条件によってなされることが必要であろう。互いに勝手な方法で出した結論では比較のしようもない。求めるべきは、まず司法の場での筆跡鑑定の常識の確立であり、どのような方法によって鑑定を行うかを裁判官が選択するための方法論の確立である。

 また、筆跡鑑定士の公的資格化も実現されなくてはならない。この能力検査の方法はいともたやすい。筆跡の真贋、また一致・不一致を鑑定させ、その正答率を判定すれば、その鑑定能力は直ちに判断される。鑑定士の資質が問題にされながら、なぜそれぐらいのことが実現されないのであろうか。この審査過程において、鑑定士が踏まえるべきモラルの確立にまで規定が及んでいけばいいと思うのであるが……。


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