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  「語」とはなにか エスキモー語から日本語をみる


「語」とはなにか

宮岡伯人おさひと 著 (品切)

2,000円 A5 216頁 978-4-385-36092-8

「言語学の真の対象は語である」という立場から、日本語を世界の諸言語との関係の中で相対的に捉え直し、とかく未定義のままに等閑視されてきた日本語の「語」に、深く鋭い洞察を加えた問題作。参考文献・索引付き。

2002年7月15日 発行

目次 第1章 はじめに あとがき 「言語」2002.11月号での紹介




●目  次

第1章 はじめに

第2章 「分節」vs.「結節」

2.1 二重分節と自然言語
2.2 自然言語における「結節」:その二面性と階層性
《補遺. 日本語の「節」》
2.3 「結節」とリズム
2.4 「結節」の諸相:多層性と多様性
2.5 二面結節の一致と不一致(ミスマッチ)

第3章 外からみた日本語:エスキモー語との対照(その一)

3.1 基本的対照:膠着性と統語法
3.2 純接尾辞性
3.3 具体例: 派生接尾辞の機能

3.4 複統合性
3.4.1 統合度と付属形式 vs. 付属語
3.4.2 日本語の複統合性
3.4.3 スロット型と非スロット型
3.4.4 迂言的構造

第4章 外からみた日本語:エスキモー語との対照(その二)

4.1 日本語の形態法:その多様性と相通性
4.1.1 形態法的手法
4.1.2 接尾辞(派生・屈折)と後倚辞
4.1.3 自立語,付属語,付属形式の相通

4.2 「複合用言」とその周辺
4.2.1 いわゆる「補助用言」
4.2.2 「複合語」と緩やかな複合体
4.2.3 接尾辞による派生用言
4.2.4 「-テ=補助用言」

4.3 日本語の用言複合体
4.3.1 類型としての用言複合体
4.3.2 用言複合体の構成
4.3.3「結節」としての用言複合体

第5章 語に「カタチ」を与える特徴:エスキモー語の音律現象

第6章 「カタチ」としての語

6.1 サピアの定義
6.2 英語と中国語の「虚辞」

第7章 言語の多様性について

7.1 言語の多様性とその縮小
7.2 多様性の背景(その一):伝達としての言語
7.3 多様性の背景(その二):「語」の介在

第8章 むすび

あとがき
参考文献
索引



●第1章  はじめに

 自然言語の重要な目的は伝達(伝え合い コミュニケーション)だとされる。この伝達の機能をはたす基本的単位である「文」の仕組み、ならびにそれをあつかう言語学の分野は、「シンタックス(syntax)」とよばれている。そのギリシャ語 suntaxis の原義は、「(語を)ともに・配置すること」つまり文字どおり「統語法・統語論」である。一方、「語」の仕組み、ならびにそれをあつかう分野は、「形態法・形態論(morphology)」と呼ばれている。morphology の morph は、いうまでもなく、形態つまり「カタチ」である。これらの用語とその使われかたの背後には、「語」に優先性を与える捉えかたのあったことが推しはかられる。ヨーロッパ古典語のような屈折語の世界ならではのことかもしれない。

 これら統語法と形態法という、言語を構成する二つの重要な領域をくらべると、後者は前者よりも、はるかに複雑と錯綜にながれやすい。したがって、そこに一種の「でたらめさ(randomness)」(Sapir [泉井訳 1957: 34]; 7.3)さえ語られることにもなる。このこと自体、「語」が「文」とはちがった性格のものであることを示唆している。「語」は「文」を構成する記号的 -- ということは内容つまり意味・機能の面をもつ -- 要素になるが、「語」そのものは、「文」の成分である前に、まず「カタチ」である。自律的に、つまり「文」の意味・機能とは独自に定義されるべき単位だと思われる。

 言語研究はこの「語」とまともに向きあうことを永らくないがしろにしてきた感がある。20世紀前半のアメリカ構造言語学の一時期、「語」の独自性、したがって形態論と統語論の区別を認めず、形態素と形態素連続以外の単位を設けず、まさに形態素一本で「形態素から発話まで」(Harris 1946)を処理しようとする試みもあった。つづく50年代からの生成文法研究は、たまたま、英語という、文の語順が固い、そしてこれと相関的に、形態法が単純な言語の統語法を中心にすすめられてきた。結果は、形態法への関心の低迷であった。形態論に関心がよせられはじめるには、統語論研究の一定の推移と対象言語の拡大をまたねばならなかった。

 はなから偏見とのそしりをうけるかもしれないが、このような流れのなかでは、「語」と「文」の本質的な違いがどこにあるのか、なぜ形態法が統語法にくらべて体系的扱いがむずかしいのかといったことは、ほとんど問題にされなかったように思われる。両者のあいだに認められてしかるべき違いに注意をむけるどころか、統語論の知見をそのまま「語」にも適用し、それによって形態法も統語法と似た扱いができるといった予断がおそらくあったし、あるいはいまもあるといえるかもしれない。たしかに近年、一部では形態論が見直され、形態法の独自性がそれなりに認識されだしてきつつあるようだが、大局的にみれば依然、折節の統語論が濃い影をおとし、その一般的なアプローチと抽象的な原則に依りかかった、統語論の延長としての形態論ではないかと思われる。この傾向は、音声の機械的な戯れにすぎない、ということは「カタチ」の問題でしかないところに統語的・意味的問題を深読みさせたりする。依然、統語論の呪縛はつよい。

 「語」そのものであれ、日本語のいわゆる「文節」であれ、「カタチ」という箍(たが)をはずして、統語や意味の面から、あるいは“深層”から言語をとらえようとすると、おそらくどのような文法論でも構築することが可能となる。いきおい「語」についても、はなはだおおらかな定義を生んだり、逆に、定義は不可能だといういかにも慎重な立場がとられたりする。鈴木重幸教授(1996: 31)のいう「学界には日本語の単語についての不一致についてこだわらない、という風潮」であろう。この風潮は、日本語の(もとより議論は分かれざるをえなかったが)「語」を重要な論点の一つとして扱う傾きのあった外国、たとえばロシア・ソビエトにおける日本語研究とは対照的である(参考、アルパートフ 1992)。

 一体、「語」は言語によってそのとる姿がかなりまちまちである。その示す振幅の幅と多様性はおおきく、一律に規定しにくいところがある。どこからどこまでを「語」とみるかという語境界の画定も、言語によってはときに難しい問題であることはまちがいない。「語」の集約性(統一性)がたかく、輪郭が相対的に鮮明な言語がある一方、かならずしも鮮明ではない言語もあるからである。さらにまた、語が静的な「もの」というよりは、動的な「プロセス」という性格が濃厚な言語もある。「接辞(affix)」などの派生的要素の生産性がたかく、ときには語の「拡張」が文の生成に似かよってくるために、辞書に収める語彙項目の範囲をきめるのが難しくなってくるからである。言語によっても一つの言語の内部においても、語がとりうるこのような振幅のおおきさは、たしかに「語」の定義にたいする一見健全な慎重さをもたらしたが、反面では、「語」の存在を認めながらも、定義の試みを諦めさせたり、あるいは「語」を敬遠させたりしてきたことも否定できない。

 事実、とくにヨーロッパの屈折語からきた「語」にたいする通念とは一致しない「語」をもつ言語は、おそらく少なくない。その通念に縛られている点では、「倚(い)辞(clitic)」(前倚辞、後倚辞 2.4)もおなじかもしれない。倚辞は、とくに統語法研究の延長線上で近年、関心がたかまってきているが、「接辞」(接頭辞、接中辞、接尾辞 2.4、 3.2)とおなじく付属的つまり非自立的であるために、言語によってはたしかに紛らわしい。しかし、接辞のような語の一部である「付属形式」と倚辞のような語の一種である「付属語」の区別にたいする認識はきわめて重要である(2.4)。両者の違いについては、いまだ十分に浸透していない憾みがあるが、服部四郎博士の重要な論考(1950)につかれたい。(注1) (訳語は「倚詞」が「倚辞」よりも適切だという考えもありえようが、より慣用的な後者を採る。)

 近年の倚辞論議で引かれるのは、英語をはじめとしたヨーロッパ諸言語の助動詞や代名詞の弱形、接続詞、前置詞、法的・談話的な非屈折詞(小詞)などに偏っているように思われる。しかし、「語」が多様であり、ヨーロッパの屈折語的通念では律しにくいのとおなじく、倚辞もそれなりに多様な姿を示す。屈折詞的な倚辞をもつ日本語のような言語があったとしても(注2)(4.1.2)、倚辞がアクセント、しかももっとも卓立度(きこえ プロミネンス)のたかい第一アクセントさえ担うユピック(Yupik)・エスキモー語のような言語があったとしても(注3)(5)、なんら不思議はない。

 「語」はまた、文とちがって、社会的にできあいの(社会習慣上の)単位だという通念には、あまり疑問がいだかれることもない。また、「語」の目録は(側頭葉のウエルニッケ野にあるという)脳内辞書( メンタル・レキシコン) に収められているという音声言語医学の考えかたにも、それなりに人をひきつけるものがある。たしかに、なんらかの規則によって予見あるいは説明ができないがために記憶に蓄えておかねばならない語彙項目は、そのような辞書に収められているというのは、理解しやすい。したがって、のちにみるように(3.4.2)、「複統合的」(注23参考、55頁)な性格のかなりつよい日本語の複雑な用言などは、一つの「語」だとみなすことに大きな躊躇や抵抗があったとしても、一面、無理からぬところであろう。しかし、言語学的にみた「語」、あるいは母語話者(native speakers)の素朴な直観--「語意識」-- が「語」とみなすものは、(話者によって、あるいは文字のある言語なら識字の如何によって、ばらつきがあるにしても)ふつう辞書に収められているものだけではおそらくない。

 いま一つ、文字との関連でいえば、アルファベットつまり「表単音文字」をつかう、たとえばヨーロッパの諸言語の場合、スペースで切り離して書くものが語だと、無造作に片づけられてしまうこともある。しかし、いわゆる「分かち書き」-- むしろ「纏め書き」-- はかならずしも語の境界と一致しないのはともかくも、そもそもなぜそのような切り離しが出来上がるのかが問われるべきである。文字の本質が「表語性」にあること、しかもこれが漢字のような「表語文字」(6.2)にかぎることではなく、表単音的なアルファベットの問題でもあることは、河野六郎博士が明快に指摘されたところである(河野六郎 1994)。さらに「表音節文字」である日本語の平仮名も、(毛筆でのみ書かれた)草書体の段階で表語機能をもっていたのは、のちに触れるように(2.4)、小松英雄博士の指摘されたところである(小松 2000; 2001)。

 日本語の「語」にたいする、さきの“寛大さ”は、一面ではその形態的特徴に一因があるのかもしれない。しかしまた、かつて指摘された日本言語学の「翻案」性といったこととも通じるところがありはしないだろうか。少なくとも英語やその他のなじみ深いヨーロッパ諸言語がもたらしてきた「語」の通念や一般化に縛られ、そこからはみでるものを「語」とみなしてはならないといった思いこみがありはしないだろうか。こういった想像もあながち的はずれではないと思われる。

 しかし、「語」のもつ一般的性質がどうであれ、日本語の形態法的性格がどうであれ、「語」についての「こだわらなさ」がかくも一般的なのは、とくに外から日本語をみる言語研究者には異様に映ることにちがいない。好悪(こうお)はべつとして、古くから時にあわせ状況にあわせて柔軟に、場合によっては追随にもさほど抵抗なく、外異の(とくに欧米的な)ものを受けいれてきた民族の過去とも結びつくことかどうかはともかくも、日本語の「こだわる」は、もともとマイナス含意に傾いていた。しかし近年、このことばも、山田忠雄編著『私の語誌 2 私のこだわり』(三省堂 1996)がその全巻を当てた用例分析と考察からもうかがえるように、プラス含意の用法が目立ってきた。日本の言語研究にも、卑近(具体)に着(じゃく) する「こだわり」をもちながら、その正確で綿密な「読み」に徹する姿勢こそ、いわゆる理論の検証のためにデータを断片的かつ我田引水的に利用するやり方が目立つ現下の学界においては大切なのではないか、というのが筆者の偽らざる思いである。

 「語」と形態法・形態論の等閑視、「語」の定義棚上げないしは不一致容認の姿勢がながらく続いてきたなかで、三省堂刊『言語学大辞典 第1巻(世界言語編 上)』(亀井他編著 1988)の「刊行の辞」に認(したた)められた「言語学の本当の対象は、語であると言ってよい」は、けだし人間言語についての深奥を衝いたことばにちがいない。そこにこめられた真義を、私たちはいまや詳らかにすることはできないが、このことばは、上記の「文字の本質が表語にある」という認識と直結する。文字が一般に理解されているような音声言語の「転写(形式)」(transfer: Sapir 1933[1951: 13])にとどまらず、その本質が「表語性」にあるというのは、人間言語を言語たらしめるその特質がまさに「結節」としての「語」にある以上、理にかなったことにちがいない。

 言語という人間精神が生みだした最大の所産の、しかもこれこそ「本当の対象」といわれる「語」にささやかな接近を自分なりに試みようとすれば、%巨象をなでるめしい(盲)は覚悟の前。しかしともかくも、いま一度マルティネ(Andre Martinet、 1908〜99)の「二重分節(double articulation)」(Martinet 1949)に立ちもどってみることから始めてみたい。この人間言語の基本的特性とされる原理は、「語」の性質、さらにいえば、次章のテーマである「結節」としての「語」という卑見とけっして無縁ではないはずだからである。

 その「分節(する)」は、ラテン語 articulare `to divide into joints'(cf. 印欧祖語 *ar- `to fit together')に由来するが、試みにその英語 articulate を『オックスフォード英語辞典』(OED)で引いてみると、1. `to divide (vocal sound) into distinct parts' と2. `to join together'の二義が挙がっている。articulate のこの表裏一体の両義性は、言語のもつ二つの側面を表わしているものであろう。前者が「節に分ける」つまり大から小(トップダウン)にむかう「分節」だとすれば(articulation 1)、後者は小から大(ボトムアップ)にむかう「節を結ぶ」つまり「結節」であり(articulation 2 = grouping)、「分節」はできあがった構造体としての言語にたいする分析的な視点だとすれば、結節はあたえられた言語を駆使していく主体的な立場だ、ということもできるかもしれない。

 「分節」と「結節」はひとまず表裏一体であるとしても、マルティネの ``articulation'' は、「分節」の方向を強調する。その強調のあまり、反対方向の「結節」が人間言語においてもつ意義がかならずしも正当に評価されることなく、それとともに、とりわけ「語」のもつ意義が霞んでしまったということがありはしないか。少なくともマルティネの「二重分節」論では、「語」の位置づけは明確とは思われない。そこで次章では、「語」こそ伝達的指示記号体系のなかで自然言語を特立するものであり、これこそ言語の本然でありかつ必然なのではないか、ということを考えてみたいと思うのである。

 注1:博士の「付属語」と「付属形式」(服部 1950)は、一部に誤解を招き、批判を生んだこともある(例、渡辺実 1971: 21--26)。語の画定が容易ではない言語では、おのずから両者の違いが不鮮明であったり、「実質的には極めて小さい」ように映るのは自然なことであろう。しかし、語が人間言語の必須の要素であるように、形態法と形態論におけるその重要性は変わらないと思われる。

 注2:しかし、倚辞はすでに倚辞をふくんだ要素に付きうるが、接辞はそれができない、といった一般化がある(参考、Zwicky & Pullum 1983: 504、 Anderson 1992: 222)。このような一般化がとおると、日本語のいわゆる助動詞の一部は行き場がなくなってしまう。

 注3:本書でのエスキモー語(と実例)は、とくに断らぬかぎり、1967年以来、筆者が現地で学んできた南西アラスカのユピック(Yupik)エスキモー語(あるいは中央アラスカ・ユピック語 Central Alaskan Yupik --西エスキモー諸語の一つ)をさす。エスキモー・アリュート語族の一派であるエスキモー語は、グリーンランドから北アラスカにいたる東エスキモー語と、南西アラスカとチュクチ半島に分布する五つの西エスキモー語からなる(エスキモー語の分類については、宮岡[1988]参照)。



●あとがき

 「語」や「結節」をめぐって、いまだ星雲的だとはいえ、本書で画こうとした断想がしだいに膨らんできた背景は、ある面では類型上一つの極に位置するといえそうな、ほかならぬエスキモー語とのかかわりであった。おのずから、このかなり特異な言語の強いバイアスがかかった断想であるのは免れぬことかもしれない。また、そのような一つの言語と向きあってきたにすぎない筆者などには、日本語についてなにかをいう資格はないというべきかもしれない。

 しかしある言語とかかわりあうことは、無意識裡であれ母語との対照をつねに強要する。茫々40年、類型的にかなり特異なエスキモー語に手こずっているうちに、いつしか外から対照的に母語について多少のことを考えたり、内省をはじめたりしていた。そのようななか、日本語文法に無垢なものの母語意識には、田辺聖子さん風にどこか「ちゃうん、ちゃう?」と思われだしてきた、いくつかの問題---とりわけ助詞、助動詞、複合用言と呼ばれているものなど---について、己を弁えることなく、いたずらに嘴を挟むことになってしまったようである。もとより、先学の実証的な努力と成果には、深い敬意と感謝の念をいだきつつ、博捜とはいえぬまでも、それなりの努力は怠らなかったはずだが、引用した日本語研究には先行論文があるやもしれず、重要な文献を見逃しているかもしれない不安はぬぐえない。

 かててくわえて、複統合的言語に親しんできたにすぎないものが、日本語を越え、類型上対極の地平に幽に見えていた言語世界にも、過去の蓄積についての素養もないまま、門外漢の気軽さで迷いこむ愚をおかしてしまった。批判覚悟でといった気負いはさらさらないが、抱懐するところをひとまずこの段階で綴っておきたかったからにほかならない。愚挙は愚挙、軽挙は軽挙で弁解の余地もない。もとよりいまだ尽くさざる点や見解を詰めるべき点が少なくないのは蔽うべくもない。ありうる思い違いの数々については、ひたすら大方の教えを乞うばかりである。

 私事におよぶことだが、いつの頃からか、父の書斎の一冊の本がそれとなく目をひいていた。万葉集に傾いた国文学関係の本に埋もれた唯一の国語学書、山田孝雄著『日本文法論』である。ドイツ語や英語の引用文には丁寧に訳語が書きこまれている。みずから指揮した京都刑務所襲撃事件(昭和5年10月)とその後の官憲の追及にまつわる過去の影から逃れるかのように深夜繙いていたのかもしれないこの一冊に老来、引きもどされた縁の糸を思わざるをえない。

 日本語との対照については、英語ならおおいに結構だが、なぜ“文字なき輩”の言語なのだと、どこか疑問をいだかれる向きには、英語とは類型上対蹠的な、しかも構造上はるかに複雑な言語との対照は、なにがしかの意味をもつはずだし、日本語の特質は、日本語のみあるいは英語との対照のみに淫しては、正しく捕捉することができないはずだとでも、答えざるをえない。筆者が試みた対照は、いまだ稚拙とはいえ、日本語の特質に一つの側光を投ずるものであろうことを心密かに思うのである。

 さらに一般的にいうならば、言語には文化の他の側面が及びもつかぬ幅の広い多様性がある以上、その類型的広がりのなかで一つの言語とそのタイプや特徴をみるのでなければ、リアリスティックな理解をうることはできない。日本の言語学も、たとえば『言語学大辞典』に明らかなように、世界各地の類型的にさまざまな言語について優れた記述を蓄えてきているのである。いささかでも言語の多様性についての認識がないかぎり、遺憾ながら世界の言語学者には解(げ)しえない文法分析や的外れな言辞を弄しつづけることにならざるをえないだろうし、“日本の言語学”と自称する日本語研究が一般言語学に寄与する期待も萎えざるをえないだろう。本書が日本語研究の堅実な発展への一つの刺激にでもなれば、筆者の本懐これにすぐるものはない。

 昭和63年3月、刊行なった『言語学大辞典 第1巻』の巻頭に河野六郎先生の「言語学の本当の対象は語である」という言葉を見いだしたときの感激は、いまも忘れることができない。言語についての学びをはじめてこのかた、これほど勇気づけられる思いをしたことはない。平成7年刊の『術語編』の序には、「言語学の本領は言語の音形を正確に定めることにある」とも記しておられる。理論先行とりわけ統語論偏重の弊なしとしない言語研究への警鐘にちがいないが、これらの言葉にこめられた詳しい意味をお伺いできればと願い、平成10年夏のアラスカに発つ前、断想であれ私見をいちど先生に聞いていただいてはと勧めてくださった三省堂の柳百合さんにも、帰国後是非と話していながら、機会はついに失われてしまった。拙いこの断想が見当違いのはなはだしい独りよがりではないことをいまは願うのみである。

 片々たる小著ではあるが、これの刊行についても三省堂とのあいだに話をとおしてくださり、みずから「序文も書くよ」と仰ってくださっていた千野栄一先生が、校正刷りもあがらぬうちに、忽然と逝ってしまわれた。つねに謙抑に「専門は文献学だから」とおっしゃりつつ、言語学のあらゆる分野を広くかつ鋭く鳥瞰しえておられた先生の訃報に接したのは、久しぶりに病院にお見舞いにあがる予定をしていた二日前のことであった。ささやかな仕事にこよなき理解を賜ったお二人の先生方にもはやお聞きいただくこともお読みいただくことも叶わぬいま、惻惻として悲しみと寂しさが迫る。

 この書は、京都大学大学院文学研究科における平成11年度言語学特殊講義「言語における〈分節〉と〈結節〉」として一年間、学生諸君に話したことがらの、いまだ粗笨な草稿をひとまず小冊子「〈語〉についての断想 自然言語における〈結節〉」に束ね、退官記念講義(平成12年3月13日、文学部第三講義室)の際、お配りしたものがもとになっている。いわゆる最終講義であったが、そのときお断りもしたように、中身は筆者の「最初」講義にすぎなかった。まる二年を経たいまも実質的にはそのことに変わりがない。定めて妄解や僻説も多いことと思われる。ご批判とご教示をいただきながら、なお許されるかぎり正していくしかない。書名は、小冊子のままでもと思っていたところ、柳さんが正鵠を射た題を考えてくださった。問いにたいする「最終」の答えはただし、今後に残されている。

 この二年間、少なからぬ方々からいろいろな形でお助けをいただいた。折角頂戴した、ご専門の言語にかんするご教示や原稿の全体あるいは細部にかかわるご示唆などをどこまで正しく理解しえたかは心許なく、お名前を汚すことにならねばと恐れるが、受けた裨益に感謝の意を表したいのは、加藤昌彦(ビルマ語学)、木田章義(国語学)、笹間史子(ツィムシアン語学)、清水誠(ゲルマン語学)、庄垣内正弘(チュルク語学)、沈力(中国語学)、辻星児(朝鮮語学)、中山俊秀(ヌートカ語学)、朴永梅(中国語学)、林田雅至(ポルトガル語学)、平田昌司(中国語学)、堀博文(ハイダ語学・中国語学)、山本昭(ワラパイ語学)、山本武史(英語学)、吉田和彦(印欧比較言語学)、渡辺己(セイリッシュ語学)の諸氏である(アイウエオ順)。

 綿密で丁寧な編集にくわえ、厳しい読者として、内容の細部にまでおよんで有益なコメントを寄せてくださったのは、高橋昭さんと柳百合さんである。これまで叱咤激励してくださったこととあわせて、篤くお礼を申しあげたい。最後になったが、人文科学系の学術書としておそらく初めての文書整形システムTeXを用いての写植出力によった十年前の編著『北の言語 類型と歴史』とおなじく、今回もまたTeXによる組版を引きうけてくださった白川俊さんと、索引をバランスのよいものに仕上げてくださった嶋田珠巳さんにも、深謝したい。

いまは亡き河野六郎先生と千野栄一先生を偲んで

    平成14年5月

宮 岡 伯 人



●「言語」2002.11月号での紹介

 著者宮岡さんは、文部科学省特定領域研究(A)『環太平洋の「消滅の危機に瀕した言語」にかんする緊急調査研究』というプロジェクトの代表者という激務を、一時は過労で入院されるほど精力的に遂行されながら、この貴重な著書を世におくった。

 この本は、長年にわたるエスキモー語の研究から得られた豊かな知見に基づいて、「語」を人間言語の基本的特性である「二重結節」の基本単位として捉えるという理念を詳論し、それを、多くの言語の事例を引きながら、母語である日本語の分析にも適用してみせたものである。「語」というカタチは、人間の言語知識とその使用におけ生物的生態的環境の制約に関わるので、過去半世紀の統語論万能の雰囲気のなかで、その認知的・文法的意義について再びさまざまな角度から考え直してみることは我々の言語についての知識を飛躍的に広げるであろう。この本はそのための大切なきっかけを与える必読の研究文献である。

金子 亨

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