俳句は作るけれども、私は俳人ではない。三省堂の『新明解国語辞典』は「俳人」を「俳句を作ることをライフワークとする人」と端的に説明している。私の俳句作りは、すこぶる気紛れである。一方、ごくごくたまに評論めいたものを書くこともあるが、無論、評論家などと思ったことは一度もない。私は、あくまでも一研究者であるに過ぎない。一研究者として芭蕉や鬼貫[おにつら]を中心に江戸時代の俳論の研究を長いこと続けてきた。
そして子規と出会った。子規研究にかかわってすでに十数年が経過している。ごく最近では、平成二十四年(二〇一二)三月、松山市立子規記念博物館刊行の『「なじみ集」翻刻版』の編集作業に参画し得る幸運にも恵まれた。「俳句分類」と双璧をなす子規畢生[ひつせい]の、文字通り心血を注いだ大事業の翻刻作業である。苦闘しつつも、この翻刻作業を通して子規と対話し得る喜びに存分にひたることができた。これぞ研究者冥利[みようり]に尽きる仕事であった。
研究者は能弁であってはいけない、というのが私の持論である。私は、私流の勝手な子規への思いを語ってはいけないのだ、と常に自戒している。私の子規論は、俳人の子規論や、評論家の子規論や、小説家の子規論と同じであってはいけないと思っている。可能な限り子規自身に、あるいは子規周辺の人々に子規を語ってもらうべきだと思っている。従来の子規論に眼を通していると、子規が論者に都合のよいように歪められているように思われるところが少なくない。例えば、高浜虚子著『朝の庭』は(改造社、大正十三年)の中に収められている「病床の子規居士」なる文章の冒頭を見てみよう。
子規居士の家庭は淋しかつた。病床に居士を見舞ふた時の感じをいふと、暗く鬱陶[うつとう]しかつた。先づ表戸を開けるとリリリンと鈴がなつて、狭い玄関の障子が寒く締まつて居るのが目にとまる。
子規の母堂八重をして「升[のぼ]は清さんが一番好きであつた」(『子規居士と余』)と言わしめた、その虚子が綴る子規の家庭の雰囲気である。こんな現実から目を背けて、子規をやたらに美化することは、私にはできない。資料に密着したかたちで、どこまで子規の魅力を語り得るか。そんな方向で子規論を書き続けてきたし、今後も書き続けていくことになろう。その際、私が心掛けてきたことは、新資料をも含めて、各種資料を、いかにわかりやすく読み解くかということであった。国文学者流の難解さは、なんとしても避けたいと思ってきた。私の意図するところが本書で実現し得ているかどうかは、読者の皆さんの判断に委ねるばかりである。
本書は、三省堂出版部の松本裕喜さんとの二人三脚で誕生することとなった。『子規とその時代』なる書名を考えてくださったのも松本さんである。子規とともに〔子規の時代〕を逍遙した感のある諸論であるので、少々面映[おもはゆ]い思いはするものの、大いに満足している。松本さんも私も、そして子規も、伊予の生まれである。伊予の男二人によって子規を顕彰し得る至福を、私はしみじみと味わっている。
収めるところの論考十九篇、長短あるが、すべて私と子規との真剣な対話から生まれたものであり、子規の言葉を一語も聞き洩らすまいと努めたつもりである。いくつかの新資料、あるいは見落されていた資料を紹介し得たことも研究者冥利に尽きるものであった。忌憚[き たん]のないご批評をお願いしたい。
第一章 私註『病牀六尺』…………………5
一 『一年有半』 6
二 酔桃館蔵沢 15
三 四ツ目屋事件 25
四 吉原の太鼓聞えて更くる夜に 34
五 『フランクリン自叙伝』 44
六 笹の雪 52
第二章 子規探索…………………63
一 子規の参加した互選句会明治二十六年一月十二日 64
二 新資料明治二十九年八月十五日付子規書簡 89
三 子規の憤懣(ふんまん) 近藤泥牛編『新派俳家句集』をめぐって 98
四 「ガラス戸」からの写生一つの子規試論 127
五 旅する子規子規文学の原点 148
六 子規俳句と「明治新事物」連作と季語と 160
第三章 子規の俳論と俳句精神…………………185
一 子規と、虚子の「花鳥諷詠」論 186
二 子規の「配合」論をめぐって 208
三 子規の愛した『猿蓑』 228
四 子規グループの人々と蕪村の滑稽句 251
第四章 子規の周辺…………………267
一 新聞『日本』第一号を読む 268
二 子規と閨秀作家中島湘烟 291
三 子規と小杉天外 303