今年の5月末のことである。出講先の美術大学で、懐かしい出版社からの封書を手渡された。出講日にタイミングよく手元に届いた手紙には、編集者らしい筆跡で『装本の業』の復刊についてご相談したいとあった。孝四郎の著作権管理者である私のもとには、出版や企画の話が種々もちこまれるが、計画倒れに終わったりするお話も少なくない。実を言えば半信半疑であった。
最初の打ち合わせの日は、偶然にも祖父の命日であった。初版(1982年12月)の内容を出来るだけ生かす方向で、企画は速やかにまとまった。
孝四郎の長男である父、邦郎は、東京美術学校(現東京藝術大学)を卒業後、画家として作品発表しながら、明星学園高等学校の教諭、のちには校長を勤めた。美術の授業で孝四郎のことを話題にしたことはなく、自身、エッセイに記しているように、「六十三歳まで語ったり書いたりすることはしないとしていた。(六十三歳は父の死んだ年である。)」。
父に倣って、孝四郎とは距離をとる仕方で芸術研究者としての道を歩んだ私は、極めて煩雑な恩地家の奥向きのことに携わりながら、作品目録作成などを目的に2007年秋に立ち上げた研究会や、研究者を主な対象とした拙宅見学会開催のための日程調整や事務作業に、ただひたすら務めていたのである。それゆえ、孝四郎の生きた時代の空気を呼吸し、初版に玉稿を寄せてくださった畦地梅太郎、瀬木慎一、外山滋比古の各氏、また日本近代美術研究者として孝四郎の作品研究に心血注いで下さり、初版出版後の30年を埋め合わせる資料、文章をまとめてくださった三木哲夫氏、桑原規子氏のあとに加えて書く言葉など、私にはあろうはずがない。
ただ、いまもなお鮮明に記憶に残るのは、初版編集者の山口守氏ほか撮影・編集に携わった三省堂のスタッフの方々のお仕事ぶりである。家の応接室は数日間にわたって、本の撮影のための人々と機材に占拠された。出版の現場とは、本という寡黙な媒体からは想像のつかないほどエキサイティングな出来事であるということを実感する貴重な体験をさせていただいた。
初版本に続いてデザインを担当して下さった平昌司氏、企画立案から広報に到る実務を手際よく、愛着をもって進めてくださった飛鳥勝幸氏ほか、スタッフの方々には、プロのお作法を学ばせていただいた。
孝四郎は、1915年『月映』廃刊に際し、「別れにのぞみて」という文章のなかで次のように書いている。「……私たちは私たちの出来るだけのことをした。併しそれはただ此の廃刊に導いただけだ。私たちは之を必ずしも悲しまない。籠ろう、こもろう。時と力の到るまで別れて籠ろう。私たちはいつのときにも私たちの親しき読者を忘れ得ないであろう。それはさびしき日のなぐさめでありわびしき日の力であり、うれしき日のよろこびである。……」
1915年は、初期の代表作《抒情『あかるい時』》が生まれた年でもある。まもなく100年の歳月が過ぎようとしているいま、「時」と「力」到って、その祈念が親しき読者にふたたび届けられることに、泉下の祖父、父とともに心からの感謝を捧げる。

恩地孝四郎(1891−1955)
東京に生まれる。白馬会洋画研究所を経て、東京美術学校に進むが中退。竹久夢二と親交があり、多くの影響を受ける。1914年、田中恭吉、藤森静雄とともに、詩と版画の雑誌『月映』を創刊。日本創作版画協会結成、日本版画協会創立に尽力、日本近代版画の確立と普及に貢献した。
また、北原白秋など、同時代の詩人、作家、出版社の要請により、多くのすぐれた装幀書を世に送り、装幀家としての地位を確立した。自作の詩、版画、写真による『飛行官能』、詩画集『海の童話』、随筆写真集『博物志』なども出版する。
1994−5年、横浜美術館などで「恩地孝四郎色と形の詩人」展開催。作品は、東京国立近代美術館、和歌山
県立近代美術館、ボストン美術館、シカゴ美術館、大英博物館を始め、国内外の多くの国公立、私立美術館に収蔵されている。