明解國語辞典
復刻版

表紙の写真

金田一京助 編

3,200円 A6変 1,156頁 978-4-385-13088-X (品切)

戦火はげしくなった昭和18年に新しい現代国語辞典として刊行された『明解國語辞典』。その卓越した内容と時代背景の解説17ページを付して完全復刻。創業120周年を記念して2001年に増刷。

1943年 5月10日 初版発行
1997年11月 3日 復刻版初版発行



●見本ページ

見本ページ



●明解國語辞典にしか載っていない語


比較対象 「言苑」 (昭和13年 博文館)
  「小辞林」 (昭和3年 三省堂)


  1. 政治・経済・社会
    • 興亜
    • 節米
    • 拓士
    • 計画経済
    • 国民職業指導所
    • 国民徴用
    • 恩給金庫
    • 勤労奉仕
    • 労働奉仕
    • 隣組
    • ナイト・クラブ
  2. 軍事
    • 少年航空兵
    • 荒鷲
    • 海鷲
    • 銀翼
    • 鵬翼
    • ヘルダイブ
    • 落下傘部隊
    • パラシュウタア
    • 空襲警報
    • 盲爆
    • 連爆
    • 撃墜
    • 白衣の勇士
    • 戦傷死
    • 戦車砲
    • 磁気機雷
    • イペリット
    • 軍事保護院
    • 軍陣医学
    • 宣撫
    • 北進
    • 南進
  3. 科学技術
    • 可変蓄電池
    • 高速度鋼
    • コオル・サイン
    • 成層圏
    • 木炭ガス
    • ロケット
  1. 美容・服飾
    • サンマア・コオト
    • ジュウブ
    • スワガア・コオト
    • 電髪
    • ファスナア
    • ヘヤ・ロオション
    • ベエ・ラム
  2. 食べ物
    • スカラップ
    • フレンチ・ドレッシング
  3. スポーツ
    • インナア・スリイ
    • インニング
    • スクィズ・プレエ
  4. 外国のこと
    • エキステンション
    • ハアケンクロイツ
    • ヒットラア・ユウゲント
    • クウニャン
    • グラン・メエトル
    • シャオチエ
    • シャオシンチュウ
    • 新民会
    • チンパン
    • ホンパン
    • マイパン
  5. その他
    • ベエシック英語
    • 敵性
    • 総力
    • コオヒイ・ポット
    • コンフェクショナリイ
    • ジンゲル
    • スウパアインポオズ
    • 断種
    • ドラム罐
    • ベデカ
    • 無血
    • メデシン・ボオル
    • 闇相場



●『明解國辭語辞典〈復刻版〉』のこと

武藤康史

(「ぶっくれっと」1998.1 no.128より)

 昭和十八年に刊行された『明解国語辞典』は日本で最初の現代語中心の小型国語辞書であった。その新しいスタイルはその後の多くの国語辞書の追随するところとなった。長らく市場を独占した辞書でもある。『辞林』『広辞林』の流れを受けて誕生し、『三省堂国語辞典』『新明解国語辞典』を派生せしめた辞書だから、この百年ほどのあいだに最もよく普及した国語辞典の系譜の中できわめて重要な位置を占めていると言えよう。編纂されたのが戦時中であったから、当時の新語や日常語を豊富に収録しているという点も他に例がない。

 しかしそのような特徴を論ずるよりも先に明記しておかなければならないのは、『明解国語辞典』の編者は見坊豪紀だったということである。

      *

 見坊豪紀は大正三年(一九一四年)十一月二十日生れ。山口高校を経て昭和十一年、東京帝国大学文学部国文学科に入学、橋本進吉教授の授業に出てから国語学を専攻したいと思うようになった。国語学の一般講義と特殊講義と演習はいずれも橋本進吉教授の担当で、どの授業にも三年間出席した。

 専門の勉強とは別に岩波文庫をよく読み、興味をひかれたことばにしるしをつけたり、見返しに書き込んだりしたという。用例採集の業がすでにこのとき始まっていたのである。数十年をへて見坊豪紀は『日本語の用例採集法』(南雲堂、平成二年刊)に「岩波文庫を読む」という章を設け、しるしをつけておいた語を取り出し、考察している。当時どういう語に注意が向いていたかもわかるが、当時の青春の読書の記録としても貴重であろう。

 国文学科の同期生は三十名。うち一割前後が国語学専攻になるのが通例だったというが、見坊豪紀が卒業した昭和十四年も橋本進吉に卒業論文を提出したのは三名で、ほかは山田忠雄と渡辺綱也だった。

 卒業後は大学院に籍を置いた。『明解国語辞典』の編纂はこの昭和十四年の秋に始まる。見坊豪紀を三省堂に紹介したのは金田一京助であった。

 見坊豪紀の父、見坊田ず(雲に鶴)雄が盛岡高等小学校、盛岡中学校で金田一京助の二年後輩にあたるという縁もあって、見坊豪紀は大学の三年間、金田一京助教授(言語学科)のアイヌ語の授業を熱心に聴講していた。

 《私が大学を卒業する前後のことですが、親父が私を連れて金田一京助先生のお宅に伺いまして、今度、息子が大学を卒業するので、何か仕事でもあるようだったらお願いしますというような挨拶をしたことがあるんです。

 そのまま過ごしていましたら、秋になって金田一先生から、国語辞書をやらないか、それについて三省堂で説明を聞きたがっているから会ってくれないかというふうな話があったと思います。それで、ある日、三省堂に行って面談したわけです。そうしたらそのときにこの辞書(『小辞林』)を渡されましてね。それで、この辞書は全体が文語文で書いてあるから、これを口語文に直してくれと。ただし、新規に入れていい項目があったら、それは入れてもいいというふうな、漠然とした依頼がありましてね。それじゃあ、少し研究してからご返事しますと言って、その場はいったん帰ってきたんですね。》(以下、《 》内は見坊氏の談話)

 『小辞林』は『広辞林』(大正十四年刊)に《適度の取捨を加へ》(『小辞林』序)、昭和三年に刊行されたものである。『広辞林』がA5判に近いのに対していわゆるコンサイス判で、見出し語数は今かりに試算すると『広辞林』が約十二万、『小辞林』が約八万というところか。全体の文字量は『広辞林』の三割ほどしかないが、語釈を短くしてあるので見出し語はそれほど減っていない。『広辞林』『小辞林』ともに金沢庄三郎編で、和語の見出し語は歴史的かなづかい、字音語は表音的かなづかい(「凡例」では《写音的仮字遣》と書いてある)、語釈は文語文だった。『小辞林』は昭和四年に新語を増補した(と序に謳う)「大型版」を出した(新書判とほぼ同じ判型)。このあと出たコンサイス判の『小辞林』も「大型版」で増補された内容を引き継いでいる。

 昭和十年には博文館から新村出編の『辞苑』が出ている。『広辞林』とそっくりの語釈も多々見られるが、字音語のみならず和語の見出し語にも表音的かなづかいを採用、語釈は口語文だったから『広辞林』とは違った清新な印象をあたえたことであろう。昭和十三年には『辞苑』をもとにした学習用国語辞書『言苑』が、やはり博文館から新村出編として刊行され、これも見出し語は表音的かなづかい、語釈は口語文だった。『辞苑』『言苑』はよく売れ、『広辞林』をおびやかしていたようだ。

 三省堂が『小辞林』の改訂を考えたのはこんな時期だったのである。《三省堂はこれではならじと金沢博士に『広辞林』の書きかえをお願いしたところ、博士は老齢で承知されない》という金田一春彦の回想もあるが(「三省堂ぶっくれっと」一〇二号(一九九三年三月)「見坊君を偲ぶ」)、これは金沢庄三郎が見出し語のかなづかいの変更も、語釈の口語化も、どちらも承知しなかったということであろうか。『広辞林』の前身『辞林』(明治四十年刊)は字音語の見出し語も歴史的かなづかいになっていた。金沢庄三郎は『広辞林』を作る際に字音語だけは表音的かなづかいに改め、そのことを序で自讃していたのだが、和語まで表音的に改めることは耐えられなかったのだろうか。あるいは口語文が承知できなかったのか。もっとも『広辞林』新訂版は昭和九年に出ているので、その直後ゆえに更なる改訂を承知しなかったのかもしれない。いずれにせよ金沢庄三郎を説得するのはあきらめたのか、三省堂は『広辞林』に代る辞書の編纂を金田一京助に委嘱、これがのちに『辞海』(昭和二十七年刊)として結実した。そして三省堂は『小辞林』の改訂も金田一京助に頼んで来て、この話が見坊豪紀に回って来た  と先の回想は続く。

 こうして三省堂から『小辞林』を渡された見坊豪紀は、それから二週間ほどこの辞書について検討したという。再び三省堂に出向いた満二十五歳の大学院生が開陳したのは、会社の期待を大きく上回る、具体的で新しい編集方針だった。

 それは「引きやすいこと」「わかりやすいこと」「現代的なこと」の三点である。具体的には『明解国語辞典』の金田一京助の「序」にまとめられ、「凡例」にも尽されている。

 昭和十四年九月の終りから、見坊豪紀はまず基礎作業として『小辞林』を『言苑』と対照し、『言苑』の見出し語で『小辞林』にないもの、そして新しい国語辞典に必要だと思われるものをすべて書き出した。そして十一月から執筆を始めたという。一年間で書き上げるというのが三省堂との約束であった。

 編集作業を始めてしばらくしてから、見坊豪紀は同期の山田忠雄に協力を頼んだ。『明解国語辞典』の新規項目のうち十数語は山田忠雄の示教によることが『辞書と日本語』(玉川選書、昭和五十一年刊)や『日本語の用例採集法』に明記されている。また『明解国語辞典』という書名の提唱者(という言い方がされている)も山田忠雄であったことは『ことば さまざまな出会い』(三省堂、昭和五十八年刊)に書いてある。しかしそれ以外にはさしたる協力の形跡がない。

 《少なくとも語釈は頼んでいないと思うんです。》

 ただ、アクセントをつけるということ、それを金田一春彦に頼むということは二人で相談したらしい。

 《アクセントをつけたほうがいいと、たぶん私もそう思ったし、山田君もそう進言してくれたと思います。明治の国語辞書では山田美妙の先例があるから、つけたほうがいいんじゃないかと話し合った記憶がありますね。》

 山田忠雄は大正五年生れ。大学卒業後、昭和十四年十一月に岩手県師範学校に赴任していた。

 金田一春彦は大正二年生れ。東大国文学科で見坊豪紀・山田忠雄の二年先輩にあたる。大学卒業後、大学院・軍隊を経て昭和十五年四月、東京府立第十中学校に赴任していた。『金田一春彦博士古稀記念論文集』第三巻(三省堂、昭和五十九年刊)の「自筆年譜」では昭和十五年五月のところに、《見坊豪紀君によって『明解国語辞典』の編集がはじまり、その発音・アクセントの部を委嘱されたので、急に忙しくなった》とあるが、これは金田一春彦に話があった時期ということではないだろうか。

 昭和十四年の秋か冬、見坊豪紀は同潤会江戸川アパートに移り住んだ。昭和九年に建てられたこのアパートは今も残っている(新宿区新小川町)。森まゆみ「文化人のパラダイス」(「東京人」一九九七年四月号・特集「同潤会アパート」)によればここには堀口大学・高木東六・水谷準・西村孝次・山内義雄といった人たちが住んでいたことがあり、正宗白鳥もここを仕事場にしていた。『明解国語辞典』の原稿もこのハイカラなアパートで一枚一枚書き進められて行ったのである。大学には一日も行かず、アパートにこもって見坊豪紀は新規項目の採集と辞書原稿の執筆を続けた。

 《高等学校時代、肺尖カタルをやったもので体は虚弱でしたがね。毎日気分爽快ということにはいかなくて、精神的には憂鬱な気分が続いていましたが、それでも体力は、やっぱり若いですからあったんですね。朝から晩までやっても、特にどうってことはありませんでしたから。》

 こうして原稿を書き上げたのは昭和十六年の一月か二月であったという。見坊豪紀は満二十六歳であった。

 《昭和十四年の秋からやって、実際に執筆を始めたのが十一月ごろかと思うんですが、その年を越して、次の年を越しまして、結局、着手してから十三か月目か十四か月目に最後の原稿を届けたんですね。だから、たぶん定期的に原稿を届けていたんじゃないでしょうか。私は一年間でやるつもりだったのに、十三、四か月かかったので、約束どおりできなくてすみませんでしたと挨拶しましたら、こんなに短期間で出来上がったのは三省堂始まって以来ですと言われたので(笑)、記憶に残っているんです。》

 最後の原稿を渡したあと、昭和十六年四月、見坊豪紀は岩手県師範学校に着任し、盛岡に移った(山田忠雄はこのとき陸軍予科士官学校に転じている。なお、昭和十四年から十八年まで見坊田ず(雲に鶴)雄は盛岡市長を努めている)。『明解国語辞典』のゲラ(校正刷)は盛岡で見ることになった。

 ゲラの段階で、多すぎるからすこし削るようにと指示され、一割ほど削ったという。『明解国語辞典』には約七万二千語収められているので、原稿の段階では八万語ほどあったらしい。しかし削るだけでなく、ゲラの段階で加えられた箇所もある。「序」は昭和十七年八月二十五日の日付になっているのでこれ以前にほぼ校了していたということなのだろうが、刊行はさらに遅れて結局、昭和十八年五月になった。

      *

 見坊豪紀は『明解国語辞典』刊行の直後、昭和十八年八月に東京高校に転任。病気による休職期間を含めて昭和二十四年三月まで在籍した(同僚に石垣謙二、教え子に佐竹昭広がいる)。その後、岩手大学、国立国語研究所に勤めたのち昭和四十三年に独立、「明解研究所」と名づけた仕事場で用例採集に専念し、昭和二十七年には『明解国語辞典』の改訂版を出し、昭和三十五年には『明解国語辞典』の姉妹篇として『三省堂国語辞典』を出し、ともに編集主幹を務め、昭和四十七年に出た『新明解国語辞典』でも編者の一人であった。『新明解国語辞典』の主幹は山田忠雄だったが、当初は用例採集などの面で見坊豪紀の大きな協力があり、また『三省堂国語辞典』にも当初は山田忠雄の協力があったという。やがて両書は編集方針の違いが大きくなって行った。たとえば『三省堂国語辞典』は新語や日常語の丹念な採録と語釈の簡潔さを重んじたが、『新明解国語辞典』は語釈の厳密さに力を入れ、長い用例を載せるようになって行った  というような特徴を挙げることができようか。いずれも『明解国語辞典』が切り開いた現代語の辞書の可能性をさまざまに深めるようにして発展したと言える。

 『明解国語辞典』は各地で旧制中学校・女学校の指定辞書として採用されたこともあり、敗戦の混乱期をはさんでよく売れた。改訂版が出るまでに六十一万部、改訂版は五百万部が記録されている。そして『三省堂国語辞典』は一千万部、『新明解国語辞典』は千二百万部(いずれも初版からの累計)を越えているという。これだけ広く普及した辞書群の、その土台を築いた『明解国語辞典』の復刻の意義は大きい。議論の広がりが期待される。

 見坊豪紀の辞書編纂の仕事についてまとめておくと、『明解国語辞典』のあとその改訂版(昭和二十七年)、『三省堂国語辞典』の初版(昭和三十五年)、新装版(昭和四十三年)、第二版(昭和四十九年)、第三版(昭和五十七年)、第四版(平成四年)の編集主幹であり、『新明解国語辞典』の初版(昭和四十七年)、第二版(昭和四十九年)、第三版(昭和五十六年)、および『三省堂現代国語辞典』の初版(昭和六十三年)、第二版(平成四年)の編者の一人であった。

 平成四年(一九九二年)、二月に『三省堂国語辞典』を刊行したあと、見坊豪紀先生は、十月二十一日、満七十八歳の誕生日まであと一か月というところで亡くなられた。お仕事の出発点である『明解国語辞典』の復刻を、泉下の見坊先生はお喜び下さることと思いたい。

(本稿は『明解国語辞典〈復刻版〉』の「解説」より抄録したものです)

このページのトップへ

トップページへのアイコン




Copyright (C) 2014 by SANSEIDO Co., Ltd. Tokyo Japan