『デイリーコンサイス中日辞典』のこと


杉本達夫(すぎもと・たつお 早稲田大学教授)

 

 「小」なれども「精」―山椒の小粒の味のほど

 三人(古屋昭弘・牧田英二と小生)で組んで、中国の今日ただいまの口語に主眼を置いたささやかな辞典『デイリーコンサイス中日辞典』を出した。三人寄れば文殊の知恵という。三人寄れば派閥が三つできるともいう。知恵は浅知恵を積み上げるに止まったが、派閥云々のほうは、幸い亀裂も摩擦もなくてすんだ。今後もないだろう。

 おおざっぱに言って、望ましい辞典というのは、いつでもどこでも引けて、どんな疑問にもすばやく答えてくれる辞典ということになろうか。だがそんな辞典などあるはずがない。いつでもどこでも引ける辞典とは、つねに持ち歩ける小型本にほかならないし、いかなる疑問にも対応できる辞典とは、超大型本であるはずだからである。しかも、持ち上げれば腰を痛めるほどの大型本であろうと、情報量には限りがある。

 われわれの辞典はポケットに入るほどの小型本であって、常時携帯が可能である。少々混んだ電車の中で、眠たい講義を聴いている教室で、仕事を抜け出した喫茶店で、あるいは中国旅行の道中で、ふと思い浮かんだ、あるいは目に入ったことばを、すぐさま引いて確かめることができる。人とともに移動する辞典、まさしく「ウォーキング・ディクショナリー」というものだろう。従来の小型の中日辞典は、内容的に簡便に過ぎた。今回の辞典は小型ではあるが、項目数は四万、しかも内容は容量に比して格段に充実している(と思いたい)。かねて自分たちが求めていた辞典のひとつであり、中国の成語をもじって言えば「小而精」、さんしょの小粒の味のほどを試してもらいたい。もちろん小型本の悲しさ、容量以上の字数は盛り込めないから、本格的に中国文献を扱う向きには、容量のより豊かな辞典を別に備えてもらわなくてはならない。

 ではどういう点に意を注いだか。

 まず親字について、「語」と「語素」の区別を明示した。漢語の文字は漢字だけであって、かな文字に当たるものがない。本来漢字はそれぞれ形と音と意味をもっており、古語においては概して一字が一語を形成するが、現代漢語はそうではない。単独で一語となりうる字、すなわち「語」として機能する字と、他の字と結合してはじめて「語」を形成しうる字、すなわちそれ自体では「語素」にとどまる字とが混在する。その区分は漢語理解のうえできわめて重要な要素である。語と語素の区分、さらには品詞分類の表示等々について、漢語を母語とする本家中国の辞典では動きが鈍い(用法を重視した参考辞典は近年出ていて、われわれはずいぶんと恩恵にあずかった)が、外国語として学ぶ者にはぜひともほしい情報であり、いずれは中日辞典の不可欠の事項となるだろう。先駆的業績はすでにあって、われわれが初めて試みたわけではないが、われわれの辞典はより積極的に明示している。

 次に用例については、容量の関係で、文例よりも語、句の例を多くしたが、その際、それぞれの例が句あるいは文であるか、単語あるいは複合語であるかを区別して示した。また、見出し語には品詞を表示した。語の機能は文中の位置、語と語との関係で決まるという漢語の性格から、品詞についても議論はあるが、われわれの辞典では基本義に即して品詞を示してある。

 そのほか、日常的名詞を数える単位詞、語法上あるいは用法上の注記、同意語、反意語、関連語、百科的説明等々、編者としては利用者の便宜を考え、小型なりの機能強化に努めたつもりである。

 中国はいま政治の季節から経済の季節に移り、情報化の大波が押し寄せていて、その激動はことばにもろに反映している。新語が日々に生まれ、きのうのことばが淘汰されてゆく。また、一国であることが信じがたいほどに大きな国土と人口をもつ国であって、共通語と混在する地方語彙もおびただしい(共通語の「共通性」自体が疑えば疑えるだろう)。そうした様相をも極力反映すべく意を砕いたが、結果がどこまで有効であるか、これは利用者の批判を待つしかない。

 これは「自賛」の文のはずである。自賛はいいが、しかし、袋だたきにあうのはいやだなと、じつは心中いささかおびえている。

《自著自賛 小社PR誌「ぶっくれっと」No.130より》


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