ことばは人を育て、未来をきりひらく知の源です。三省堂はことばをみつめて135年 サイトマップお問い合わせプライバシーポリシー
三省堂 SANSEIDOトップページ 三省堂WebShop辞書総合サイト Wrod-Wise Web教科書総合サイト ことばと教科
辞書教科書電子出版六法・法律書一般書参考書教材オンラインサービス
書名検索漢字かな著者名検索漢字かな詳細検索
新刊・近刊案内
メディアでの紹介
本の注文
書店様専用
大学向けテキスト
卒業記念
名入れ辞書
品切れのご案内
「ぶっくれっと」アーカイブ
会社案内
採用情報
謹告
三省堂印刷
三省堂書店へ
三省堂書店はこちら
声に出して読めない日本語。
「ほぼ日刊イトイ新聞」
(『大辞林』タイアップ・サイト)
  アウシュヴィッツの記録


アウシュヴィッツの記録

平和博物館を創る会・平和のアトリエ 編

7,573円 A4変 268頁 978-4-385-34965-X (三省堂版は品切)

アウシュヴィッツ強制収容所では,ナチス・ドイツの手によって約400万人の人々が抹殺された。当時 SS 隊員によって撮影されたものを含め,連行から解放までを生々しい写真で記録する。カラー新撮影72点を含む。

1985年 9月25日 発行
2004年8月15日 復刻版発行 (品切)

発刊のことば 編者あとがき 目次・博物館入り口写真
東京大空襲の記録
原子爆弾の記録



●発刊のことば

 本書『アウシュヴイッツの記録』は,私たちが,平和を築くためにすすめてきた市民運動の中で出版し,あるいは製作してきた2冊の写真集,5本の記録映画に続く,戦争と平和をテーマとした新しい写真集である。2冊の写真集とは,子どもたちに世界に!被爆の記録を贈る会が編集した『広島・長崎=原子爆弾の記録』(同会刊)と『原子爆弾の記録=ヒロシマ・ナガサキ』(三省堂刊)であり,映画は10フィート映画運動の中で製作された『にんげんをかえせ』『予言』『歴史=核狂乱の時代』(以上,被爆の記録を贈る会映画製作委員会製作)と平和博物館を創る会が昨年世に贈った『戦争=子どもたちの遺言』『海=いまトマホークが…』である。

 原爆被爆の実相を若い世代に伝え,世界の人びとに知らせようという発意によって始められたこの作業は,この8年間にそのテーマを徐々にひろげ,今回,「死の収容所」といわれたアウシュヴィッツ強制収容所の記録へと進んできたものとご理解いただきたい。

 40年前,日本人はヒロシマとナガサキで核戦争の最初の被害者となった。また,二夜で10万人の死をもたらした東京大空襲も,沖縄県が日本唯一の地上戦闘の場となったのも,40年前であった。しかも,その中で死んでいった人びとの大部分が,いずれも一般市民だったことを忘れることはできない。だが同時に,私たち日本人は第2次大戦では,アジア・太平洋に軍隊を展開し侵略した加害者でもあった。それらの地域でも,日本軍による幾多の非戦闘員,民衆の虐殺があったことを忘れるわけにはいかないのである。中国の市民に対して掠奪・放火・強姦・拷問・斬首・銃殺を行なった南京虐殺事件は,すでに48年前の日中戦争の時期に起っている。

 大戦時,戦火はヨーロッパにおいても熾烈を極めた。その最も非人間的な狂気の一例は,ナチス・ドイツがポーランドの一地区の強制収容所で,ヨーロッパ全土から強制移送してきた人びとを,400万人も集団的に虐殺したアウシュヴィッツの悲劇に象徴されている。一例というのは,文字通りのことであって,ナチス・ドイツの強制収容所は,1000ヵ所もあったからである。たとえばダッハウ,トレブリンカ,マイダネック,ブッヘンヴァルト,マウドハウセン,オラーニエンブルク,ベルゼン,ザクセンハウゼン…等々。

 こうして前大戦は,アジアとヨーロッパの至る所の戦場で民衆を巻き込んだジェノサイド<大量殺戮>を繰り返しながら,皆殺し戦争の様相を急速に深めていったのであった。しかも,大戦は終ったとはいえ,それは戦争の狂気の終りでもなく,恐怖からの解放でもなく,40年を経たいまの核兵器状況を考えると,人類全体が地球規模で破滅の危機に立たされるための,ほんの始まりでしかなかったように思われるのである。

 私たちは,第2次世界大戦終結40周年に当って,平和と戦争について考えるとき,ヒロシマ・ナガサキの悲劇に関してと同様,アウシュヴィッツ強制収容所で行なわれた事態を,厳然とした歴史上の事実として思い出し,あるいはまた知る必要があると思う。それらが,戦争のもたらした単に大量殺戮の2つの典型ということからだけでなく,そうした行為と悲劇を,過ぎ去ってしまった悪夢として考える根拠は,残念ながら今日余りにも希薄だからである。そして何よりも決して繰り返してはならない事柄だからである。

 別項のポーランドからのメッセージと解説の中でも強調されているように,アウシュヴィッツに象徴される,人間が人間になしえた極限のような残虐行為は,単にある一部の人間集団の狂気とか精神錯乱によるものでなく,科学的・工業的な手段を用い,国家機構を動員して計画的に行なわれた結果であった。そして広島・長崎に投下された2発の原子爆弾も,当時の世界最高水準の科学と大規模工業力の結晶としての産物であった。そして,いま,核兵器だけでなく,レーザー光線だ宇宙戦略だと叫ばれる中で,アフリカでは飢餓による大量死が進行しているにもかかわらず,軍事に気の遠くなるような莫大な投資と科学・工業の先端技術の利用を優先して行なっているという狂気と,それを許している今日の事態は,正に現実のものなのである。日本を含めて,先進工業諸国は,表面上,人類の築いてきた文化を享受し,知恵と良識に溢れ,スマートであるようにさえ見える。だが,そう装われつつ,実は核戦争と人類破滅をも引き起しかねない病巣を内包していることは,今日の核兵器開発競争を見るだけで明らかであろう。

 収録したアウシュヴィッツに遺された生前の死者たちの写真類を見ていただきたい。当時ヨーロッパ文明を享受し,生きいきと楽しく写し出されているあの肉体と生活が一瞬にして崩壊し,一握りの灰とさせられてしまったのであった。本書を編集しながら,「私たちは忘れない。もし,忘れさせようとする人びとがいたら,私たちは一層強く想い出すだろう。忘れてしまったらあなたの未来はないのだから…」という死者たちの声を聞いたように思えてならなかった。核時代を生きる私たちは,加害者であっても,被害者であってもならないのである。人間として生きようとする限り。だが,そのためには,私たち1人1人の上に,平和を築くための日常不断の努力が,責務として課せられている時代でもあることも痛感するのである。この写真集が,そのために少しでも役立てば幸である。

 ヒロシマ・ナガサキでの犠牲者に想いを馳せつつ,本書を,オシヴィエンチムとブジェジンカで亡くなられた方々の霊に慎んで捧げるものです。

  1985年7月
         平和博物館を創る会

情報・資料部門担当理事 中野孝次
吉田一人
岩倉 務



●編者あとがき

 私がアウシュヴィッツ強制収容所についての写真集を作りたいと思ったのは,もう8年前のことになります。1977年5月,私たちの会「子どもたちに世界に!被爆の記録を贈る会」が出来たばかりの時で,当時編集するであろう写真集『広島・長崎=原子爆弾の記録』(第1刷りは翌年5月に完成)の海外版を世界各国へ何千冊も贈ったとき,社会体制の違いをこえて,あらゆる国の人びとに果してそれが受け入れられ効果的に配布してもらえるかどうかが心配で,その打合せのため特に海外の平和運動家たちと連絡をとる必要に迫られていました。そんな時,タイミング良く「平和建設者世界大会」がポーランドの首都ワルシャワで開かれることを聞き,立花誠逸君(現在長崎総合科学大学教授)と私がそこに会から派遣されたのが,きっかけでした。その世界大会の行事の1つに,オシヴィエンチム・ブジェジンカ博物館の訪問が組み込まれていたのです。

 一斉に花々が咲き誇る美しい北国の季節でした。ブジェジンカの収容所跡敷地内にある国際殉難者慰霊碑前の広場で,平和祈念式典が開かれたときなどは,汗ばむ程の初夏の陽気だったことを憶えています。ところが,博物館の中の遺品類や地下牢などを見ているうちに,膚が粟立つ程のうすら寒さを感じたものでした。恐ろしく,そして衝撃的だったのです。そしてまたもう一つのショックは,広大な強制収容所跡が,当時のまま,後世に永遠に遺すべき反ファシズムの記念碑として,そっくり保存されていることでした。広島には原爆ドームしかない…そんな想いが湧きあがり,日本の子供たちに,また1人でも多くの日本の人たちにも見てもらいたいと感じたのでした。それには,ヒロシマ・ナガサキを伝えるのと同様私たちに出来るのは,せめて写真集にする以外にはない。

 あれから8年が経ちました。その間,「ヒロシマ・ナガサキを訴える東欧平和の旅市民代表団」(団長・松浦総三氏他33名)あるいは,「日ポ平和教育交流代表団」の一員として,または,ワルシャワをはじめとする3都市での原爆写真展の開催,10フィート運動映画のポーランド・テレビでの放映打合せ,映画『戦争=子どもたちの遺言』のロケーション等々で,ポーランドを訪れる機会があり,オシヴィエンチム(アウシュヴィッツのこと。これはナチス・ドイツの付けた名前なのでポーランドの人々は使わない)にも何回も行ったのですが,多忙にかまけて永年のポーランドの友人たちとの約束にもかかわらず,写真集の編集に手をつけることが出来ませんでした。しかし昨年7月,平和博物館を創る会理事会によって,第二次世界大戦終結40周年にあたり,歴史的な写真集『広島・長崎=原子爆弾の記録』(日本側撮影写真)『原子爆弾の記録=ヒロシマ・ナガサキJ(米軍側撮影写真)の3部作の1冊として,本書を発行すべきだということになり,9月中〜下旬に現地を写真家・若橋一三君(連合通信社写真部)と一緒に取材する機会を得たのでした。オシヴィエンチム・ブジェジンカ博物館には,6回目の訪問でした。今年2月下旬,同博物館に依頼してあった諸資料の到着を待って写真原稿をそろえ,5月下旬から編集にかかったものです。

 したがって,この写真集は,実に多くの方々の協力がなくてはできませんでした。平和博物館を創る会の理事会,事務局の皆さん,ポーランド側の通訳,国営通信社インテル・プレスの人びとのご支援,特に,ポーランド国立オシヴィエンチム・ブジェジンカ博物館とポーランド平和委員会の方々の全面的な協力をいただいたことを感謝をもって書き記したいと思います。とりわけ,両団体のK・スモーレン館長,J・シランケヴィッチ会長に,そして最も親しいワルシャワの友人ダヌータ・ガウカ夫人,ヨランタ,クシュシトフ・シミンスカ夫妻の援助に,心からの敬意と感謝の気持を表したいと思います。同様に,日本側のすばらしい解説をお寄せくださった石田忠先生(明治大学教授)と会発起人の1人であり長崎の被爆者である吉田一人氏(日本被団協事務局次長)に,心から御礼を申しあげます。

 編集実務面については,次の方々の協力をいただきました。ポーランド側のメッセージ,解説,写真説明など英和訳は,ロニー・アレキサンダーさん(上智大学大学院国際関係論・平和博物館を創る会国際部員),ポーランド語に関しては,足達和子さん(翻訳家)ど岩倉千乃君(独協大学法学部学生),レイアウトは平昌司氏,編集・印刷進行は三省堂の山口守氏と光陽印刷の村上憲逸氏です。実務面では,連合通信社写真部長大島勲氏、事務局の山口由昭,猪股薫,内田吉孝,新谷麻美,重光めぐみの皆さんです。末尾ながら謝意を表するとともに,発刊を激励してくださったすべての人びとと共に,本書の発行を喜びあいたいと思います。最後に本書をより正確に,しかも情感にも訴えるものとするために,最も苦労し貢献した友人の若橋一三君と連名で,再度感謝の気持を表わさしていただきたいと存じます。

編集責任者 岩倉 務(平和博物館を創る会専務理事)
写真撮影者 若橋一三(写真家)    1985年7月26日



●目次・博物館入り口写真

目次
博物館入り口写真

このページのトップへ