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原子爆弾の記録
ヒロシマ・ナガサキ
復刻版

原子爆弾の記録 ヒロシマ・ナガサキ 復刻版

子どもたちに世界に!被爆の記録を贈る会 編

7,573円 A4変 264頁 978-4-385-35036-X (三省堂版は品切)

被爆の記録を贈る会の前作、広島・長崎―原子爆弾の記録―の延長として,今回アメリカ側の5,000枚の写真の中より320点を精選した資料性の高い写真集。史上初の核兵器実戦使用の悲惨を克明にとらえている。

1980年 8月 15日 発行
2004年 8月 15日 復刻版発行 (品切)

 東京大空襲の記録
 アウシュヴィッツの記録



●目  次

悪魔の火球〈カラー〉
はじめに
「あの日…」
 日本カメラマン撮影写真の説明
焦土〈カラー〉
 爆心地と原爆ドーム
 長崎の爆心直下の焦土
悲惨苦悩
 仮収容所の生活
死んだ街一広島
 空中撮影
 爆心地周辺地域
 東方面地域
 西方面地域
 南方面地域
 北方面地域
 建物・流川教会・福屋百貨店ほか
 銀行街
 広島駅・兵器倉庫ほか
 橋
 人の影・熱線
 皆実町めガスタンク・鉄骨
 乗り物
死んだ街一長崎
 空中撮影 
 爆毛地周辺地域
 長崎駅前繁華街ほか
 爆心地と周辺地域
 北方面地域
 南方面地域
 建物・浦上天主堂
 学校
 長崎医大と病院
 工場
 室内
 熱線
 中町天主堂・県庁ほか
 原爆投下の前と後〈広島・長崎〉
あとがき
付録
資科I  「1977NGO被爆問題シンポジウム」作業文書からの抜すい
資科II 原子爆弾災害調査報告書(総括編)」からの抜すい
資科III 子どもたちに世界を!被爆の記録を贈る会のあゆみ

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●はじめに

「あの日」の出来事

 「あの日、この子の目の前で起きたことを、知っていただきたいのです。子どもたちに、全世界の人びとに……」――この写真集を、こうしたよびかけのページから始めることにしました。「あの日」は、この地球上のどこであっても、決して二度と繰りかえさせてはならない出来事のあった日だからです。そしてまた、今日、核狂乱時代ともいえる危険な状況が生みだされていることに、想いを馳せていただきたいと考えたからです。 「あの日」とは、広島の1945年(昭和20年)8月6日、長崎の8月9日のこと、人類史上初めてアメリカによって原爆が投下された日のことです。その時は、戦争中であったとはいえ、一瞬にして20万〜22万人の人びとの貴い命が失われたのでした。あの日、たった2発の原子爆弾によって何が起こったか……を、主として米軍側が撮影した写真資料によって伝えようとしたのが、本書です。

収録した米軍撮影写真の意味

 この写真集には、323枚の写真が収録されていますが、そのうち30枚の日本人カメラマンが撮影したものを除いて、他はすべて当時米軍側、主に米戦略爆撃調査団の手によって、1945年10月〜11月の時期に撮影されたものです。ヒロシマ・ナガサキを写した米軍側写真資料が、このように大量にまとめて収録されたのは、本書において初めてですし、また初めて人びとの目にふれるものでもあります。

 では、それらの写真がなぜ今になって公開されることになったのか。ひと口でいって、それは日本の平和運動がもたらした新たな成果だということができます。

 1978年5月、平和のための市民運動・子どもたちに世界に!被爆の記録を贈る会は、「国連にアメリカ市民に!被爆の記録を贈る市民代表団」を派遣しました。祈から国連で開かれていた第1回軍縮特別総会に、私たちが編集発行した写真・絵画集『広島・長崎――原子爆弾の記録』を寄贈するとともに、アメリカ各地で原爆写真展を開催するためでした。その旅の途中、首都ワシントンの米国立公文書館に立ち寄ったとき、写真資料室の中で、はじめて、それらの存在を知ったのでした。それが発端となって、翌年6月、再度調査を行なった結果、公文書館の他に米空軍視聴覚資料センター、米海軍写真センター、米陸軍視聴覚センターなどが保存していた約6,000枚に及ぶ写真の中から約1,100枚を入手することができたわけです。被爆の実相を子どもたちに、世界に……と願って活動をすすめてきた日本の平和のための市民運動が、新たな原爆写真資料の発掘をなし得たのでした。

 約6,000枚の米軍側写真に目を通して、全体として感じたことは、米軍が核兵器の史上最初の実戦使用の効果を、いかに冷徹、克明にとらえようとしていたかということでした。冷たい撮影者の視点が、これほどはっきりと映像に定着されるものかと、あらためて感じざるを得ませんでした。私たちは前記の写真・絵画集の編集にあたって、日本人カメラマンの写した原爆写真数千枚を目にしてきました。それらとの対比でそう感じたのです。なぜだろうか。米軍側写真は、徹頭徹尾、軍事的な無機的な目によって、原爆の威力を写し取ることのみを追っていたからに違いない、と思われてなりませんでした。

 米軍側原爆写真の発掘は、原爆被爆の実相に迫るための歴史的資料としても貴重な意味を持ったといえるでしよう。

 2、3の例をあげてみましょう。

 私たちはこれまで、傷口にウジが湧き、追っても追ってもハ工が群がってきて……といった体験は、被爆者の話として、あるいは手記や小説のなかで読んではきましたが、目の当たりにそれを見たのは、本書「悲惨・苦悩」の章の写真で初めてでした。それらのハエの群がる老婆からはじまる一連の被爆者たちの生活をスナップした写真類は、米毎軍のカメラマンが撮影したものですが、それが9月の上〜中旬に写されたものとして見るとき、ひとつの貴重な意味を持ちます。その時期に広島の被爆者の仮収容所の生活を写した写真は、日本人カメラマンのものとしては、現存していないからです。その時期に家を失い傷ついた人びとがどのように生きていたか、その映像として欠落していた空白の部分を、それらの写真は埋めて証言してくれたわけです。

 長崎を超低空から撮影した空中写真があります。あの南北に細長い山あいの被爆地を、さまざまな角度から何枚も何枚も写しています。本書にはその5分の1程度しか収録できませんでしたが、凄絶な原子野の風景です。あるいは、港の周辺地区や長崎駅前から繁華街をへて県庁にいたる地域の被害状況が鮮明にとらえられている写真類もあります。いずれも、いままで日本側になかったものとして貴重であるばかりでなく、いまなお続けられている原爆被害調査・研究の新たな資科ともなるものです。

写真の背後にあるもの

 長崎と広島の原爆投下前と後とを比較対照する連続写真も新たに発掘することができました。大きく引き伸してみると、被爆前の写真には、実にはっきりと一軒一軒の家々を見て取ることができます。あの瞬間まで、そこに人びとの生活があった……と感慨をもって思わずにはいられないのです。

 他の写真類についても、いずれも、今まで日本側にない角度のものを選んでみましたが、とりわけ、広島でいえば、市の西部地区のもの、長崎でいえば、爆心地の北部地域の被害写真の多くは、既存資料の空白を埋めるものといってよいでしよう。

 当時、日本にはカラー写真はありませんでしたから、それらはすべて米軍が写したものです。モノクロ写真と異なったりアリティを、見るものに与えます。

 巻頭に掲載した長崎で原爆が炸裂した瞬間の火球ときのこ雲の写真は、1980年1月に私たちの会が入手した16ミリ・カラー実写映画フィルムからコマ撮りしたものです。原爆写真資料などの交流を通じて協力関係にあった、アメリカの青年映画グループ「ドキュメント・グループ」を通じて、入手・公開することができたものです。他のカラー写真は、広島大学原爆放射能医学研究所と長崎国際文化会館から提供を受けた、米陸軍病理学研究所に保存されていた資料です。

 原爆写真を見るにあたって、私たちがいつも願うことは、ぜひ、そこに生き、生活していた人びとのことに思いを馳せていただきたいということです。たとえば、カラーの原爆爆発の瞬間の写真には、火の玉の下方の地上がその光輝を反射してか、赤く色づいています。その地上では、その瞬間どのような惨事がくりひろげられていたかを想像していただきたいのです。あるいは、横たわる老婆を見るとき、一見無傷に見える被爆者たちが、その時どのような病状にあったかを思い描いていただきたいのです。そのみなさんの努力を肋ける意味で、日本人カメラマンの撮影した写真を収緑いたしました。

 編集の上で、私たちが最もいら立つことは放射能害の問題です。放射線が写真に写っていないからです。そこで、わずかに菊池俊吉氏撮影の写真に、氏の当時の撮影メモを参考に文書類によって、補っていただくことを願うものです。

ヒロシマ・ナガサキを知る意義

 いま、核兵器は人類が生存していく上で最大の脅威となっています。その意味で、この写真記録は、決して遠い過去のものではありません。今日、広島・長崎を壊滅させた原爆よりずっと強力な原水爆が製造、配備されているがらです。それは地球上の人類を繰りかえしくりかえし何回でも殺すことのできるほどの馬鹿げた量に達しています。最近、ストックホルム国際平和研究所の1980年度年鑑によっても「世界の核兵器庫には、今日60,000発以上の核兵器が入っており、1人あたり約4トンの爆薬を抱えていることに相当する。

 この兵器のほんの一部でも使われることになれば、想像を絶する規模の破滅を招くことになる」と警告しています。こうして、核兵器開発競争はとどまるところを知らず、偶発戦争の危険性をもふくめて、核戦争の危機をますます深めています。

 私たちは、この現実に、いささかの幻想をも持つことはできないと思います。いちど発明され、実戦使用された大量破壊の核兵器は、戦争が始まれば、やがて使用されることはほとんど確実だといわなければならないからです。

 私たちは、いま、ヒロシマ・ナガサキの実相を、確かな目で見詰めることが必要なことを、あらためて思わずにはいられません。今日の脅威の意味と内容を、実感をもって理解するために、不可欠だからです。

 「あの日」から、すでに35年の歳月が流れようとしています。たしかに、時の経過は人びとの記憶を薄れさせてゆくものです。また日本でも、直接に戦争体験をもたない世代が、人口の半数を越えた時代に入っています。しかし、だからといって、戦争を覚えている人びとがいなくなってしまったわけでもなく、若い人たちが核の脅威に気がついていないわけてもありません。しかも、いまなお、生き残った37万人の被爆者たちの多くが、日毎、病気や老齢化や生活苦や子どもや孫たちへの不安とたたかいながら、ノーモア・ヒロシマ・ナガサキを叫びつづけていることを思わずにはいられません。

 そうだとすれば、記憶や資料が忘れ去られてしまわないうちに、なによりも破局分くいとめようとする人びとの意志が存在するうちに、広島と長崎の悲劇をもう一度思い起こし、人びとに伝え、核兵器廃絶の行動をよび覚ますことは、私たち今日を生きるものの責務だと思うのです。

 私たちは、決して核兵器を使わせてはならないこと、核兵器のない戦争のない平和な世界をきづくことへの熱い想いをこめて、写真集『原子爆弾の記録――ヒロシマ・ナガサキ』を編集いたしました。この写真集を、原爆で亡くなった人びとと傷ついたすべての被爆者に、そして次の時代を荷なう若い人たちに捧げます。

1980年7月1日
『子どもたちに世界に!被爆の記録を贈る会』編集・企画委員会

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