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歴史家ホブズボームが語る
21世紀の肖像

21世紀の肖像

エリック・ホブズボーム 著、河合秀和 訳

1,800円 四六 208頁 978-4-385-35980-X (品切)

世界中で評判をよんだ名著『20世紀の歴史』 の内容をひきつぐ、ホブズボーム待望の新著。イタリア人ジャーナリストのロング・インタビューに答えて、21世紀の世界の姿を鋭く予見した話題作。

2000年10月10日 発行

 著者紹介
 訳者紹介
 目次
 序章
 訳者あとがき

 『わが20世紀・面白い時代』


 【著者紹介】

[語り手] エリック・ホブズボーム(Eric Hobsbawm)

 20世紀後半を代表する歴史家。1917年,アレキサンドリア(エジプト)に生まれる。ベルリンとウィーンで育ち,のちイギリスへ渡る。ケンブリッジ大学で歴史学を学び,1982年に退官するまでロンドン大学で教鞭をとる。1984年以降は,ニューヨークの大学院大学ニュースクール・フォア・ソーシャルリサーチの教授職にある。数ある著作のなかでも,19世紀の歴史を総合的にとらえた3部作『市民革命と産業革命』(1962年),『資本の時代』(1975年),『帝国の時代』(1987年)は,ホブズボーム史学の特徴が存分に発揮された傑作としてとくに名高い。その後1994年に刊行された『20世紀の歴史  極端な時代』(日本語版1996年)は,将来の20世紀像の土台を築く総合的・創造的な仕事として,世界中で絶賛を博した。

 本書『歴史家ホブズボームが語る 21世紀の肖像』は,この『20世紀の歴史』をさらに発展させて、来るべき新世紀の素描をこころみた,小さいながらまことに刺激的な読み物である。

[聞き手] アントーニオ・ポリート(Antonio Polito)

 1956年生まれのイタリア人ジャーナリスト。イタリアの日刊紙『ラ・レプブリカ』のロンドン特派員。イギリス人論の著作もある。


 【訳者紹介】

河合秀和(かわい・ひでかず)

1933年,京都市生まれ。
1956年,東京大学法学部政治学科卒業。
現在,学習院大学法学部教授(比較政治担当)。
著書に,『現代イギリス政治史研究』(岩波書店),『政党と階級』(東京大学出版会),『レーニン』『チャーチル』(中公新書)など、訳書に,『バーリン選集』(全4巻、岩波書店),『20世紀の歴史  極端な時代』(ホブズボーム著、全2巻,三省堂)など,多数がある。


 ●目  次
序章

第一章 戦争と平和

第二章 西欧帝国の没落

第三章 地球村

第四章 左翼の遺産

第五章 地球人(ホモ・グロバドゥス)

第六章 一九九九年十月十二日

終章  未来への希望

訳者あとがき

索引


 ●【序 章】

 未来はどこに向かっていくのかを自分自身に問いかけることは、いわば人々の生活と仕事の一部になっています。われわれはみな、ことあるごとにその問いを発しています。しかし未来を予言するには、当然のこと、過去についての知識にもとづかなければなりません。未来の出来事は過去の出来事と何らかの関連をもっており、だから過去の専門家である歴史家がそこに登場してくることになります。歴史家は、自分の利益を求めているわけではありません。お金を稼ぐために自分の知識を利用しているのでもありません。歴史家は過去の重要な事実を発掘し、そこに埋もれている傾向や問題点を指摘することができます。このような意味で、われわれ歴史家は未来を予言することにならざるをえませんが、それにはいくつかの留保条件があります。占い師のまねをすることになる危険性を自覚しておかねばなりません。実際にも、また理論的にも、未来の大部分はまったく予言不可能であることを理解しておく必要もあります。このような留保条件にもかかわらず私は、予言できないのは個々の出来事であって、歴史家にとって本当の問題は、そうした一つ一つの出来事がどれほど重要なのか、また重要なものになりうるのかを理解することにあると信じています。分析していけば、ある事件は重要で、他の事件は重要でないことが実証できるでしよう。

 たとえば,いまわれわれ二人が腰をすえて話し合っているこの家が来週には火事で焼け落ちているかどうかを知ることは、保険会社にとって大事なことではありません。保険業者が仕事でもうけていくために知っておかなければならないのは、家屋の火災事件が起こる一般的な確率だけです。他方、この家の所有者としての私が知っておきたいのは、自分の家が数日後に火事になるかどうかです。もう一つ、例をあげてみましょう。20人の若い女性と20人の若い男性とが一緒に夏のキャンプにでかければ、彼らの間に関係ができる確率は高いでしょう。しかしその若者たちにとって重要なのは確率ではなく、誰と誰との間に関係ができるのかということです。他方、歴史家や社会科学者にとっては、誰と誰がということはまったく大したことではなく、大事なのは関係ができる確率なのです。何か事件が起こっても、予言するという歴史家の目的にとって重要でないこともあるでしょうし、逆にそれが重要になり、世界史的な重要性をもつことだってあるでしょう。これが、予言ということにつきまとっている限界です。

 したがって、この対話を通じてわれわれにできることは、現在われわれの目の前に現れているさまざまな問題をあれこれ論じ、そこに含まれている確率を測定することです。確率が非常に高いこともあるでしょうし、予測不可能だった事件のために確率が滅茶苦茶になってしまうこともあるでしょう。ベオグラードの中国大使館誤爆事件〔訳注〕を例にしていえば、いまのところどの程度の意味があるかはわかりませんが、事件はたしかに歴史的に意味のあることです。しかし、この誤爆事件がまったく予言不可能であったことも、同じように確実にいえることです。

〔訳注〕1999年5月7日夜、NATO軍がユーゴスラヴィアの首都ベオグラードに大規模な空襲をおこなった際、中国大使館を隣接する武器供給機関と誤認して爆撃した事件。中国共産党機関紙『人民日報』は、直ちに「NATOの暴行に強く抗議」という大見出しを掲げ、誤爆は「偶然でない」として連日、抗議記事を載せた。米中関係は「極度に悪化」した。国内に民族問題を抱えている中国とロシアが、NATOのユーゴスラヴィアにたいする内政干渉、アメリカの覇権主義的行為にたいして、共同して敵対行動に出るのではないかと懸念された。

〔質問〕あなたは『20世紀の歴史』で、20世紀を「短い世紀」、つまり1914年に第一次大戦とともに始まり、1991年のソ連の崩壊とともに早々と終わった世紀と見たことで知られています。あなたの時代区分が正しいとすれば,われわれはすでにこの10年ばかり、新しい世紀に暮らしていることになります。この新しい世紀の外貌を描き出すだけの十分な史料があるでしょうか? 新しい時代のはっきりした様相はすでに確認できるでしょうか? それとも、われわれはまだ過渡期にあって、確実な結果はわかっていないという状態にあるのでしょうか?

 私は、この短い世紀の終わりを1991年におくことにしましたが(始まりを1914年におくのは、ある意味でもっと簡単なことでした)、私が『20世紀の歴史』を1994年に書いたときには、それが唯一つの可能性だったわけではありませんでした。私が1991年という時点を選んだのは、その方が便利だったからです。時点をはっきり決めることは、歴史学上の便利さか、教育上の便利さか、それともジャーナリスティックな意味での便利さかはともかくとして、つねに便利さの問題です。コソヴォの戦争を例にしてみましょう。戦争の始まった時点を、NATOの空襲が始まった最初の夜におくことはたしかに可能でしょう。しかしわれわれは、コソヴォ危機の起源は何年も前にさかのぼれることを知っています。1992年には、コソヴォ問題が重大化し、アメリカの国益にもかかわる問題になるだろうということは、すでに予想されていました。ワシントンは、ユーゴスラヴィアにたいして自国の国益にかかわる問題であることを正式に通告し、そのことをさらにはっきり示すためにマケドニアに兵力を送っていました。しかし当時は、ボスニア危機がなによりも優先していました。しかしボスニア危機が終わってからの時期についても、セルビアによるコソヴォでの「民族浄化」の始まりとコソヴォ解放軍の武装蜂起の始まりの時点でもって、コソヴォ戦争の始まりとすることもできるでしょう。

 いいかえれば、特定の時点を決めるのは便利さの問題であって、歴史家としてはそのためにひと論戦やるのを覚悟するといった性質のものではありません。短い世紀の終わりを示す明確な指標は、唯一つあるだけです。1973年以降、世界経済が新しい局面に入ったことは、すでにわかっています。そして、コンドラチェフの長い景気周波の理論〔訳注〕を信じるとすれば(私はいまも信じていますが)、その新しい段階は1990年代のどこかで終わることになっています。もちろん正確にいつかは、はっきりできるものではありません。私としては、90年代の初め、ソ連の崩壊が西側諸国の経済不況という深刻な危機と時期的に一致したことは、一つの時代の転換を示す合理的な時点だと考えていました。しかし20世紀の終わりを画するのは、その後に起こった1997-98年の経済危機だったのかもしれません。一つの時代がいつ終わったのかは、その時代が終わってかなり時がたってからようやくわかるものなのです。

〔訳注〕資本主義の景気変動は、7年から11年の周期で反復するものと予想されていたが、1920年代の初め、ロシアの経済学者N・D・コンドラチェフ(スターリンの初期の粛清の犠牲となった)は、18世紀末以降、50年ないし六〇年周期の「長い波」をもつ経済発展の型があることに気づいた。1850年から70年代初めにかけて、記録破りの長期にわたる世界的好景気があり、20年ばかりの「大不況」が続き、続いてもう一つの長期的な高波があった。ちょうど一世紀後の20世紀にも同じ変動が見られたことから、著者は1990年代の初めに世界不況は終わると推測したようである。 

 たとえば、1945年から1970年代初めにかけての世界経済はかなり小さな好況不況の波を体験しただけですが、1973年以降は非常に激しい変動―1980-82年、1990年、1997-98年の三回の動揺―にさらされており、再び動揺の時期にもどっていると、いえるでしょう。同じような傾向が将来も現れ、一つの時代から次の時代への移行の時点を確認することを、難しくするかもしれません。ソ連の崩壊が重大で永続的な影響をもつ事件であったことも、明らかです。私は、ソ連の崩壊は非常に重大な問題だと考え、『20世紀の歴史』にはそう書きましたが、同時に私はその重大性を過小に評価していたようです。もし本を書き改めるとすれば、近い将来、かつて資本主義の黄金時代に起こったような資本主義経済の世界的な膨張が突如としてまた起こるだろうと予言することについては、はるかに慎重になるでしょう。ソ連の崩壊の結果、世界資本主義の発展は私があの本で予言したよりもはるかに大きく遅れたようです。このような事情からして、「短い」20世紀が本当に終わったのかどうかを知ることが非常に難しくなっているのです。  

〔質問〕あなたのもっている歴史学にたいするそのような信念、未来は過去の中に予言されており、それを読みとるのが歴史学だという信念は,いったいどこから生まれるのでしょうか?

 私が歴史に魅せられたのは、まず第一にカール・マルクスを読んだからです。歴史は世界になにが起こっているかを理解するための道具であるということ、マルクスは私にそのことを意識させました。歴史は全体として把握し分析できるという彼の思想に、私は賛成しました。歴史に法則があるとは、私は思っていませんが―そのようないい方は、いかにも古いスタイルの実証主義を思わせるからです―、歴史には、ある構造、ある型があり、それは人類社会の進化の物語であるという彼の思想を、信じるようになったのです。

 いっておかねばなりませんが、私の若い頃の先生たちはこのようなタイプの歴史には関心をもっていませんでした。しかし私は、この学問分野の勉強を始め、かなりよくできるということになり、それを職業とするようになったのです。社会学や人類学を勉強してもよかったのかもしれません。どちらも、歴史学と同じように社会の進化に関する学問です。ケンブリッジ大学での先生であったマイケル・ポスタンからは、非常に多くのことを学んだと思います。彼は東ヨーロッパからの移民で、ヨーロッパ大陸での論争、ヨーロッパ大陸の文献によく通じており、当時はマルクスをはじめとするロシアの社会学者、歴史学者の説を強く意識していた唯一人の学者でした。もちろん、ロシアからの亡命者ですから、熱烈な反共産主義者でしたが、何が問題点かはよく知っていました。第二次大戦が終わってからの一〇年間、私の世代の人々はイギリス共産党員で友人どうしでもあった歴史家たち―17世紀イギリス革命史のクリストファー・ヒル,経済史家のモーリス・ドッブ、労働者階級成立史のE・P・トムソン、中世史家のロドニー・ヒルトン、それに私と、その他の人たち―が定期的に開いていたセミナーで歴史を学びました。また戦後には、他の国の歴史家―その多くはフランスの歴史家―とも討論しました。私は、いわゆるアナール学派に強い共感を感じていますが、しかし一つの点で違っています。アナール学派〔訳注〕の人々はけっしてかわることのない歴史、歴史の恒久的な構造があると信じていますが、私は歴史は変化すると信じているからです。  

〔訳注〕20世紀フランスに起こった革新的な歴史学派。『社会経済史年報Annales d'histoire economique et sociale』(1929年創刊)に拠ったことから、アナール学派と呼ばれる。この運動は、第二次大戦後にフェルナン・ブローデルのもとで最盛期を迎える。彼の著作の一つ『フェリペ二世期の地中海と地中海世界』(一九四九年)は、長期的な展望、つまりは地理的な時間をもとに壮大なスケールで世界史を構想し、アメリカの経済史学者ウォーラーステインの「世界システム」論にも大きな示唆を与えた。

〔質問〕あなたは、マルクスから多くを学んだといつもいっていますが、マルクス主義的歴史解釈とは、結局のところどんなものから成っているのですか?  

 何よりもまずマルクス主義的歴史解釈は、個々の歴史段階は永遠のものではないことを理解したうえで、人類の歴史は変化できる構造をもっているからこそうまくいったということ、したがって現在は歴史の到達点ではないということを示しています。第二にわれわれは、個々の社会システムが機能していく方法、いわばその機能様式を研究し、なぜそれが変化への力を発生させるのか、また発生させないのかを研究できます。たとえば数世紀にわたる中国経済を分析するには、中国には経済的、技術的進歩の諸要素が数多く存在していたにもかかわらず、なぜ、中国には産業革命は起こらなかったのか、いったい中国の何が変化を阻止あるいは妨害したのか、何が社会を不安定化させずに停滞化させたのかを理解する必要があります。他方、西欧については問題はまさにその逆のこと、つまりなぜ、西欧で産業革命が起こったのかを理解することです。私が興味をもっている歴史が分析的な歴史であるのは、そのためです。つまり私にとっての歴史は、たんに起こった事実を掘り起こすだけでなく、それを分析しようとするものです。歴史の力を借りれば、世界がなぜ、このように発展したかを正確に理解できるというわけではありません。しかし、社会の中の多様な要素がどのように結び合って、一つの歴史のダイナミックス(変化の型)を作り出していったのか、あるいは逆に作り出さなかったのか、このことを、歴史から学ぶことができるのです。


 ●【訳者あとがき】

 この本は、イギリスの歴史家エリック・ホブズボームがイタリアの代表的な新聞『ラ・レプブリカ』のロンドン特派員アントーニオ・ポリートを聞き手にして交わした対話 On the Edge of the New Century(The New Press, New York, 2000)の翻訳です。同じ本が、イギリスからはThe New Century(Little Brown, London, 2000)という表題で出ています。アメリカ版、イギリス版のもとになったのは、イタリア語版のIntervista sul nuovo secolo『新しい世紀についての対話』(Gius. Laterza & Figli SpA, 1999)です。つまり、著者ホブズボームがイタリア語で語った談話を英語に翻訳したものがこの訳書のもとになっています。

 この本が、イタリア語でイタリア人記者との対話としてまず出版された事情については後に触れることになるかと思いますが、初めにこの本の成り立ちについて解説しておくことにしましょう。

 ご存知の読者もおられるかと思いますが、ホブズボームは『20世紀の歴史』―原題は『極端の時代、短い20世紀、1914−91年』―を世に問うています。1994年に出版されたものですが、9六年にはわたしの翻訳で3省堂から日本語版が上下2巻で出ております。「短い20世紀」というのは、著者が、20世紀は1914年の第1次大戦とともに始まり、1991年のソ連の崩壊とともに終わったという観点に立っており、いわば20世紀の両端をはしょっているからです。

 著者のいうとおりに、もしも20世紀が91年に終わっているとすれば、わたしたちはすでにこの10年近く、新しい世紀に住んでいることになります。この10年は、暦の上では20世紀の最後の10年であると同時に、21世紀の最初の10年でもあることになるからです。

 ホブズボームはあるエッセイで、「ある程度まで未来を予見することは、望ましいことであり、可能なことであり、さらには必要なことである」と書いています。19世紀の初め、フランスの社会学の創設者オーギュスト・コントは、人は「予見するために見る」―人は未来を予見するために過去と現在を見る―といいましたが、ホブズボームはそれをいくらかいいかえて、未来を予見することは歴史の知識の本質的な1部分であるとも書いています。そして歴史家、とくに現代史家は、この歴史家がはたす「予見の役割」を無視してきたと批判しています。聞き手のポリートが、序章で『20世紀の歴史』の著者としてのホブズボームに、過去10年の歴史の中から21世紀の姿を読みとることを求めているゆえんでもあります。

 エリック・ホブズボームと彼の歴史家としての業績については、『20世紀の歴史』の「訳者あとがき」ですでに紹介しております。現在では、『20世紀の歴史』は世界の主要な言語に翻訳され、多くの大学で現代史や国際関係論の重要な参考文献として用いられています。どの国のどの時代についても、研究者や学生の間で共通の出発点、賛成か反対かを問わずいわばたたき台になる本があるものですが、ホブズボームのこの本が第3世界を含め文字通り地球規模で、すでにその地位を確立していることについても触れております。ですから、たとえば外国の大学で国際関係論などを勉強しようと志している若い人々にたいしては、わたしはこの本を世界の共通知識として読むようすすめています。

 それはともかく、ホブズボームは1917年、ロシア革命の年に、イギリス生まれのロシア系ユダヤ人の父とオーストリア人の母との間に、エジプトのアレキサンドリアで生まれました。1家はやがてウィーンへ、そしてベルリンへと移りますが、エリックは1932年にはドイツ共産党(正確には青年共産同盟)に加入しています。1933年1月30日、ヒットラーのドイツ首相就任の日は、彼にとって今でも「永遠の現在」として脳裏に刻まれているとのことです。彼の父がドイツに住むユダヤ人の運命を「予見」したおかげで、1家はイギリスに移り、彼はイギリスのケンブリッジ大学で歴史学を修めました。ロシアからの亡命者で、したがって根っからの反共産主義者であったポスタンを教師にしていますが、彼自身はすでにマルクス主義の歴史家として立つことを決心していたようです。

 イギリスは世界でもっとも早くに、かつ徹底的に資本主義社会を発展させた国で、マルクスも大英博物館の図書室で資本主義を研究し、『資本論』(1八六七年)を書き上げました。その意味では、マルクス主義はイギリスの産物といってもよいでしょう。しかし、イギリス人はきわめて経験主義的で、イデオロギーの呼びかけにはいちばん反応しそうにない人種です。この国でマルクス主義の歴史家として認められるには、マルクス主義者であるからというよりは、マルクス主義者であるにもかかわらず、誰も無視できない歴史家としての業績を示して見せなければなりませんでした。ついでながら、ホブズボームは199八年にはイギリスの名誉勲章コンパニオン・オブ・オナーに叙せられています。各界で優れた業績をおさめた六五人に限って与えられる勲位です。革命家からいわせれば、国家体制の中に「とり込め」られたことになるのでしょうが、イギリスという社会の懐の深さをうかがわせることでもあります。

 ホブズボームの歴史家としての重要な業績は、19世紀史についての3部作です(いずれも日本語になっています)。20世紀について書けば、どうしてもソ連の「嘘」をあばかねばならないから避けていたのだと、1995年の春に、彼はわたしに語っていました。ソ連が崩壊し、イギリス共産党が解散してはじめて(解散のほとんど寸前まで、彼は党員でした)、『20世紀の歴史』を書いたわけです。

 聞き手のポリートは、ホブズボームの共産党員、マルクス主義者としての経歴について、けっしておもねることなく、しかし共感をもって問うています。ホブズボームは政治的には―歴史家としてではなく―ソ連を支持していました。しかし彼は、この対話ではソ連の共産主義的社会建設の過程で数千万の人命の犠牲が払われ、大きな不幸と忍従が強いられたことについては語っていません。また毛沢東指導下の中国で、大躍進から文化大革命にかけて、これまた多大の犠牲と不幸が強いられたことにも触れていません。しかし『20世紀の歴史』では、1917年という時点のロシアにおいて、レーニンの権力奪取以外に事態を打開していく現実的な道があったのかと問いかけています。「なかった」というのがその答えです。レーニンの権力奪取がもしなかったとすれば、ロシアに平和的で安定した資本主義的発展の可能性があったかもしれないという議論が、少数ながらもソ連研究者の間で見られるようになったのは、ソ連が崩壊した後になってからのことです。中国についても、1949年という時点で毛沢東の路線以外に中国統1を達成する道があったのかと、問いかけることができるでしょう。

 それはともかく、ホブズボームはこの対話で、「わたしが信奉していた大義がうまくいかなかった」ことを認めています。1960年代には、すでに「夢は終わっていた」とも話しています。しかし他方で、マルクス主義的な歴史分析の方法がいまでも有効だとする点では、考えをかえていないようです。彼にとって、「共産主義はロシアだけのことではなく、啓蒙思想とともに生まれ、革命の時代を通じて発展してきた近代人類文明の伝統の1部である」からです。

 啓蒙思想とは、18世紀のヨーロッパに起こった思想運動で、ガリレオやニュートンが自然界について科学的な知識を打ち出したのにならって、人間の世界についても同じように確実な知識を作り出そうとしたものです。それまで、人間の社会生活、政治生活は神の摂理や自然の循環にしたがって動いている、人間の意志や力によって左右できるものではないと考えられてきたのにたいして、啓蒙の思想家たちはひたすら理性の力によって社会を理解し、その理解にもとづいて社会を改造することができると考えました。さらにいえば、社会のあり方についてその社会に住むわれわれの責任が問われることにもなったのです。政治生活の単位として国民国家と主権国家から成る国際体制(その中に主権国家として組み込まれなかった地域は、植民地になります)、国家間関係の制度としての戦争と平和と国際法、経済生活の制度としての資本主義(さしあたっては1国内に組織されますが、「世界システム」としても成立しています)、社会の階級分化にともなう新しい人間関係、国語と国民文化等々、私たちが近代的な社会生活として知っているものが生まれるのは、まさにこの啓蒙の時代であり、学問の分野では歴史学、政治学、経済学、社会学、人類学等々が生まれてきます。

 この対話でとり上げられている話題は、当然に多岐にわたります。国民国家、戦争と平和、資本主義などの基本的な概念については、17、18世紀にまでさかのぼって、問題が理論的に整理されているのに、読者は気づかれたと思います。他方でホブズボームが、新しい問題が登場してくる背景として、もっと最近の1960年代と70年代を選び、そこで世界的な高度経済成長とその終わり、自由市場原理主義の復活、国家の強化とその解体の始まり、人口と環境、IT技術、女性と家族等々を論じていることにも気づかれたことと思います。そして、歴史の知識の上に立っているがゆえに、まさしく目のさめるような新しい切り込みがあることを、いたるところで発見されることと思います。訳者としてこれ以上の解説はいたしませんが、ホブズボームの指摘から読者の側に何か新しい視野が開かれることになれば、訳者としてはそれ以上の喜びはありません。

 なお、この訳書のおおもとのイタリア語版にはイタリアについてとくに1章が設けられ、ホブズボーム夫妻がイタリアを愛し、イタリア語を自由に使いこなし、そしてイタリアの歴史から多くを学んだことが語られています。英語版からはその章は割愛されていますが、その章のかなりの部分が他の章の中に組み込まれているようです。しかし、わたしとしては、日本の読者にむかってイタリアと日本との間にみられるいくつかの類似性を指摘しておきたいと思います。

 第2次世界大戦が終わった時のイタリアは、共産党がドイツ占領軍にたいする抵抗運動で力をつけて、西ヨーロッパで最強の党になっていました。他方でアドリア海を隔てたユーゴスラヴィア連邦にはチトーの共産主義政権が成立しており(まもなくソ連圏からは異端として追放処分を受けましたが)、イタリアはアジアにおける日本と同じく、東西冷戦の最前線に立たされていました。野党第1党の共産党を政権につけるわけにはいかないことについて、アメリカとイタリア支配層との間に当初から合意があり、もし共産党が(単独にか他党と連立してかは問わず)総選挙で合法的に政権をとった場合に備えて、アメリカのCIAの指導のもと、具体的なクーデターの準備のあったことが、今日では明らかになっています。(『20世紀の歴史』、上巻、251-2ページ参照)。

 このような事情のもと、イタリアではキリスト教民主党が日本の自民党と同じく1党優位の支配体制を作り出し、ほとんど中断なく政権についていました。イタリアは北部は工業、南部は農業を中心に、文字通り南北関係を国内に抱えていましたが、キリスト教民主党は(時には連立に参加した社会党とともに)豊かな北部から吸い上げた税を南部に流し、そこに腐敗とマフィアの暴力支配を育てていきました。冷戦が終わってようやく、数人の元首相経験者も含めて3千人の政治家が裁判にかけられ、1996年にプローディ首相のもとに共産党(左翼民主党と改名)出身の閣僚を中心にした政権が生まれて、そこでようやくイタリアの戦後政治が終わることになったのです。  ホブズボームの「短い20世紀」はバルカンの紛争が第1次大戦を発火するところで始まっていますが、その世紀の終わりは再びバルカンの危機で始まっています。イタリアは、コソヴォにはアメリカに次いで第2の大きさの兵力(4900人)を送り、アルバニアには最大の兵力を駐在させました。セルビアを爆撃するアメリカ空軍機は、イタリアの基地から出撃したのです。イタリア外交の関心の焦点は、これまでの北アフリカ、中東、ソマリアからバルカン半島にはっきりと移りました。折しも時の首相は、プローディの後をうけたダレマ左翼民主党党首であり、彼の左翼政権はこのバルカン危機のもとで崩壊するのではないかとさえ予想されました。しかしイタリアの左翼政権は何とか統一を保ったのです。

 もちろんこのような事態は、政権を支える世論に大きな動揺を引き起こします。イタリアの知識人は、政治をたんなる権力のゲームと見ないで、何のための政治かを問いかける気質をもっています。党派的立場に立つことをためらいません。そしてこの国では、ムッソリーニ時代にも思想家で歴史家であったB・クローチェには手をつけられなかったことにもみられるように、マルクス主義的な―あるいはそれに近い―思想が知識人の間に有力でした。この本でも何度か引合いに出されている左翼の哲学者N・ボッビオの最近の著書『右翼と左翼』が数百万台のベストセラーになったりするゆえんでもあります。そのような国で、イギリスのマルクス主義的歴史家ホブズボームが新しい世紀にたいしてその歴史分析の方法がいかに有効でありうるかを語る人物として選ばれたのです。以上にのべたようなイタリアと日本の類似性からして、いわばイタリア知識人層と似た観点からホブズボームのこの本を読まれた日本の読者もおられるのではないかとわたしは推測しています。

 この本を翻訳するにあたって、わたしは高校生も含めた日本の若い読者にとって少しでも読みやすく理解しやすい本になるように心がけました。いささか大げさにいえば、これまで人類は「父が子に語る世界史」(独立インドの最初の首相J・ネルーにこの表題の本があります)として歴史を語り伝えてきました。父母だけでなく祖父母、叔父・叔母や兄・姉も含めた年長者が、若い世代に歴史を語り続けてきたのです。ホブズボームは『20世紀の歴史』の序章で、この世代間の対話の構造がそれを支える家族とともに崩れたこと、それが20世紀の最大の危機の1つであると指摘しています。わたしが訳文の中におもいきって説明の語句を入れ、いささかくどいまでの訳注を書き足したのは、少しでも若い読者の理解を手助けしたいと思ったからです。

 この本の第2章は、わたしの勤めている学習院大学で新入生とともに読みました。そこで出てきた英語の質疑、内容の討論は、翻訳にあたって大いに参考になりました。学習院大学の博士コースの学生で、ティーチング・アシスタントとして新入生の指導にもあたってくれている相馬淳一君は、彼ら新入生とともに、訳文をよくするのに貢献してくれました。この本は、わたしがIT技術を駆使して原稿を作成した最初の本ですが、PCの達人の相馬君には大いに助けてもらいました。また、なぜかコンピューター上から消え失せた数十ページ分については、法学部副手の的場東子さんに打ち直してもらいました。三省堂の松田徹さんには『20世紀の歴史』に引き続いてお世話になっています。これらの方々にたいして御礼を申し上げます。

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