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  20世紀の歴史 極端な時代 上・下巻


20世紀の歴史

エリック・ホブズボーム 著、河合秀和 訳    (品切)

20世紀後半を代表する歴史家が,深い思いをこめて描き出した20世紀の肖像。驚異の博識と深い洞察力によって紡ぎ出された本書は,時代の政治・経済・社会・芸術・科学をトータルにとらえた歴史書の傑作である。

<上巻> 4,300円 A5 464頁 978-4-385-35677-8
<下巻> 4,300円 A5 496頁 978-4-385-35678-5

1996年 9月10日 発行
2002年 10月 第9刷発行

『21世紀の肖像』 (品切)   『わが20世紀・面白い時代』 (品切)



●著者紹介

ホブズボームの写真

エリック・ホブズボーム(Eric Hobsbawm)

 20世紀後半を代表する歴史家。1917年,アレキサンドリア(エジプト)に生まれる。ベルリンとウィーンで育ち,のちイギリスへ渡る。ケンブリッジ大学で歴史学を学び,1982年に退官するまでロンドン大学で教鞭をとる。1984年以降は,ニューヨークの大学院大学ニュースクール・フォア・ソーシャルリサーチの教授職にある。数ある著作のなかでも,19世紀の歴史を総合的にとらえた3部作『市民革命と産業革命』(1962年),『資本の時代』(1975年),『帝国の時代』(1987年)は,ホブズボーム史学の特徴が存分に発揮された傑作としてとくに名高い。その後1994年に刊行された『20世紀の歴史  極端な時代』(日本語版1996年)は,将来の20世紀像の土台を築く総合的・創造的な仕事として,世界中で絶賛を博した。



●訳者紹介

河合秀和(かわい・ひでかず)

1933年,京都市生まれ。1956年,東京大学法学部政治学科卒業。現在,学習院大学法学部教授(比較政治担当)。
著書に,『現代イギリス政治史研究』(岩波書店),『政党と階級』(東京大学出版会),『レーニン』『チャーチル』(中公新書)など、訳書に,『バーリン選集』(全4巻、岩波書店),『20世紀の歴史  極端な時代』(ホブズボーム著、全2巻,三省堂)など,多数がある。



●目  次


日本語版への序文
序文と謝辞
20世紀−大局的な見方

第一部 破局の時代

第1章 全体戦争の時代
第2章 世界革命
第3章 経済の奈落へ
第4章 自由主義の没落
第5章 共通の敵に抗して
第6章 芸術 1914年−45年
第7章 帝国の終焉

第二部

第8章 冷戦
第9章 黄金の歳月

索引

(以上、上巻)

第10章 社会革命
第11章 1945年−90年
第12章 第三世界
第13章 現実的社会主義

第三部 地すべり

第14章 危機の時代
第15章 第三世界と革命
第16章 社会主義の終わり
第17章 アヴァンギャルド死す−1950年代以後の芸術
第18章 魔術師と徒弟たち
第19章 次の千年に向かって

今後の研究のために
訳者あとがき
索引
参考文献



●日本語版への序文(一部)

 著者は、自分の本を開いた読者が本をどう読んでくれるかを知っていない。読者が、著者の意図どおりに読んでくれると期待することはできない。読者が著者とはちがった文化的背景、歴史的経験をもっている場合は、とくにそうである。これが、一人のイギリス人の歴史家――愚かにも「短い二〇世紀」における世界全体の「全般的歴史」を書こうと試み、幸いにもその著作がアジアの言語に翻訳されることになった歴史家――のおかれている困った立場である。日本、中国、朝鮮の読者は、読者の国についての著者の無知や誤りを何の苦労もなく発見することだろう。しかし読者は、著作についてどう判断するだろうか。逆に日本の読者を前にしたとき、著者は自分にこう問いかけざるを得ない――どこまで読者を納得させられるような分析を行なっただろうか、自分の本はどこまで自分の時と場所と個人的経験という前提と偏見によって形成され、さらには歪められているのだろうか。それは、ある特定の山の上から見た世界の見方にすぎないのだろうか。それとも、自分とはちがった世界への窓をもっている人々にも、一つの地図として役立つのだろうか。当然のことながら、著者は後者の意味で役に立つことを望んでいる。

 しかし、たとえ私がその目的を達成したとしても、本書『極端の時代』(原題)は、ロシア革命の年に生まれることなく、また中部ヨーロッパと戦前のイギリスに育つことのなかった、つまりはこの本の著者である私と同じような生涯の経験をしていない誰か別の著者が書いたとしたら、たとえその別の著者が私と同じような歴史学的な分析のしかたをしていたとしても、非常にちがった本になっていたことだろう。もちろん私は、二〇世紀を展望する私の観点をかくしはしなかった。事実、著者自身が本文の中で描かれているさまざまな事件の周辺に始終立ち現われてくることになるであろう。そのことによって、この本が一個人の展望の中で書かれた歴史であることを読者に警告することにもなるであろう。それでもやはり、そのような展望の性質と限界をここで確認しておくのがよいと思う。

 私が第二次大戦以前にオーストリア、ドイツ、イギリスの高等学校とケンブリッジ大学で習った歴史は、主要ヨーロッパ諸国とその学校なり大学なりが位置していた国の歴史にしかほとんど関心を払っていなかった。しかし本書は、正確には(流行の言葉で言えば)「ヨーロッパ中心的」なものではない。アメリカ合衆国の歴史はまったく 教わらなかったし、ヨーロッパの外の旧世界の歴史は、その地域がヨーロッパ帝国主義の犠牲になったかぎりにおいてのみ教わった。しかし、私の二〇世紀史の扱い方は、この意味で「ヨーロッパ中心的」ではないと思っている。読者は、私が地球上のいくつかの部分について、他の歴史家ほどには無知ではなく、逆にもっと強い関心をもっていることを容易に察知されるだろう。例えば、私の第三世界の扱い方は、私がサハラ砂漠以南のアフリカや東南アジアよりも、ラテン・アメリカとインドについてよりよく知っているという事実を明らかに反映している。

 ふり返ってみて、私はこの本の中に「ヨーロッパ中心主義」の真の実例を一つだけ発見している。それは、逆説的なことに、非西欧世界にかかわることではなく、アメリカにかかわる例である。『極端な時代』が、何らかの意味で二〇世紀史におけるアメリカの中心的地位を軽く見ているというのではない。どうして軽く見ることができるだろうか。そうではなく、アメリカの地位はあまりにも当然のことと考えられているから、ほとんど分析されていないのである。この本は一章以上の紙幅をソ連に割いており、このことで、著者は読者だけでなく著者自身にたいしてソ連を説明する必要があったからだと指摘された。また、アメリカの性質、特徴、内部構造については一章も割かれていないとも指摘された。いずれも正しい指摘である。もちろん、アメリカについての分析は本書の多くのところで、いわば言わず語らずのうちに行なわれており、容易にとり出してくることができるだろう。しかしアメリカの分析は、明示的なものではない。アメリカの歴史と社会の「例外的性質」を読者に説明する必要はないという本書の前提は、「ヨーロッパ中心的」というより「イギリス中心的」な前提だった。いずれにせよ、日本の読者がその立場に立たれることはないだろう。

 『極端の時代』は別の意味で「ヨーロッパ中心的」、もっと厳密には「西洋中心的」である、と言うことができるだろうか。何人かの読者は、本書が過度に悲観的であり、同時に地球の経済的な重心、そしておそらくは政治的な重心が大西洋から太平洋に、もっと限定すればアジアの南と東の沿岸地域にすでに大きく移っていることを過小評価しているとして非難した。

 第二の非難は、第一の非難よりも簡単にはね返すことができよう。地球の中心が西欧工業経済諸国から太平洋周辺地域に移行したことは、この本でも触れられていないわけではない。もっと強く、もっと詳しく強調してしかるべきだったかもしれないし、そうしなくてよかったのかもしれない――この点については議論の余地がある。(以下、省略)

一九九六年四月

エリック・ホブズボーム



●序文と謝辞(一部)

 二〇世紀の歴史を何か別の時代の歴史と同じように書くことは、誰にもできない。ある時代についての二次的、三次的な史料や後世の歴史家の著作を通じて、いわば外から知るしかない時代について書くように(またそのようにして書かざるを得ないが)、彼ないし彼女の生きた時代について書くことは、誰にもできないからである。この本の扱う時期の大部分は、私自身の生涯と一致している。その時期の大部分、私の年齢で言えば、一〇歳台のはじめから今日にいたるまで、私は公的な事柄に関心をもっていた。つまり学者というよりは一人の同時代人として、その時代についての見解と偏見を蓄えてきた。それが、私が歴史家という職業の帽子をかぶるかぎり、その職業的経歴の大部分を通じて、一九一四年以降の時代について書くのを避けてきた理由の一つであった(歴史家以外の立 場で書くことは避けなかったが)。歴史家稼業の言葉で言えば、「私の時代」は一九世紀であった。私は今、一九一四年からソヴィエト時代の終わりにかけての短い二〇世紀をある歴史的展望の中に収めることが可能になったと思う。しかし私は、厖大な数の二〇世紀史家が蓄積してきた学問的文献について知識がないままで、ましてや文書類については雀の涙ほどの知識しかない状態で、二〇世紀に立ち向かっている。

 一人の歴史家が現代の歴史研究について、たとえ主要言語一つによる歴史研究であっても、すべてを知ることは、もちろんまったく不可能である。例えば、古典古代やビザンチン帝国についての歴史家ならば、それぞれの長い時代に書かれたもの、またそれぞれの時代について書かれたものをすべて知っているであろうが、二〇世紀の歴史についてはそうはいかない。私自身の知識は、現代史という分野の歴史知識の基準に照らしても中途半端で部分的である。私にできたことはせいぜい、例えば冷戦史や一九三〇年代の歴史のような、とくにやっかいで議論の分かれる問題についての文献にいくらか深く首をつっこみ、この本で表明した見解が専門家の研究に照らしても対抗できると自分で満足のいくところまで調べることであった。もちろん私は、うまくやりとげることはできなかった。私が無知をさらけ出したり、論争を呼ぶような見解を表明したりしている問題点は、数多くあるにちがいない。

 したがってこの本は、奇妙に不均衡な土台の上に立っている。長い年月にわたって広く雑多に読んできたものに加えて、ニュースクール・フォア・ソーシャルリサーチの大学院学生のための二〇世紀史の講義をする必要から読んだもので補い、その上に私は短い二〇世紀を生きた一人の人間として、いわば社会人類学者の言う「参与観察者」、あるいはたんなる目を見開いた旅行者、私の祖先ならキビッツァー(チェスやトランプの試合を傍で見ている人)と呼んだ者として、きわめて多くの国で蓄えた知識と記憶と意見に頼った。そのような経験の歴史的な価値は、大きな歴史上の事件に立ち会ったかどうか、あるいは著名な歴史をつくった人や政治家に会ったかどうかということとは無関係である。現実に私は、もっぱらラデン・アメリカのあの国この国を研究する臨時のジャーナリストとして大統領やその他の政策決定者たちと会見したが、その経験は通常、あまりやり甲斐のあるものではなかった。そのような人々の発言は公的な記録に残すものであるという明白な理由のためであった。教えられることが多かったのは、国の大任に責任がなく自由に話せる人々、あるいは自由に話したいと望んでいる人々との出会いであった。いろいろな人と場所を知ったことは、もちろん部分的で誤解を招きやすい知識ではあったが、大いに私の助けとなった。三〇年という時をおいて同じ都市――ヴァレンシアやパレルモ――を見るだけでも、今世紀の第三・四半期の社会的転換の速度と規模を理解させてくれた。遠く昔の会話で聞いたことの記憶が、時には明確な理由もなく残っていてのちに役に立ったこともあった。歴史家が今世紀から何らかの意味を引き出せるとすれば、それはもっぱら見たり聞いたりしたことのおかげであった。私がその過程で学んだことの一端を読者に伝え得ていることを希望している。

 この本はまた、当然に私が執筆中にとっつかまえて長話をさせた同僚や学生、その他の人々から引き出した情報に依拠している。いくつかの場合には、体系的におかげをこうむった。科学についての章は、私の二人の友人、結晶学者であると同時に百科事典的な知識の持主であるアラン・マッケイ(王立協会会員)とジョン・マドリックスにまず提出した。経済発展について書いたものの一部は、ニュースクールでの私の同僚ランス・テーラー(もとマサチューセッツエ科大学)に読んでもらった。もっと大きな部分は、ヘルシンキの国連大学開発経済研究世界研究所(UNU/WIDER)での、さまざまなマクロ経済上の問題についての会議で行なった発表や、そこでの討論で聞き、また全体として耳を傾けて得たことにもとづいている(このヘルシンキの世界研究所は、ライ・ジャヤワーデーナ博士のもと、研究と討論の重要な国際センターに変わった)。一般的に言って、この立派な研究所でマクドネル・ダグラス訪問研究員として何度かの夏をすごしたことは、私にとってきわめて貴重であった。とくにこの研究所が、最後の数年間のソ連問題に詳しく、知的な関心が強かったからである。私は相談した人々の助言をいつも受け入れたわけではなく、受け入れた場合でも、その誤りは厳密に私だけの誤りである。学者は学会や討論会で 同僚と会い、もっぱらお互いに知恵を貸し借りするのに多くの時間を費すが、私も大いにその恩恵にあずかった。(以下、省略)

エリック・ホブズボーム

ロンドン―ニューヨーク、一九九三年―九四年

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