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心にのこる
101の言葉

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三省堂編集部 編

1,200円 四六 216頁 978-4-385-35775-X (品切)

たった「一言」が人生を変える!胸に刻まれた、キラリと輝く「心にのこる言葉」を巡る、とっておきの101話。言葉の底力とぬくもりが全編にあふれる言葉のドラマ。『大辞林 第二版』刊行記念募集手記集。

1997年 3月10日 発行


●頑張りましょうね

 次男の通学していた高校で、日本テレビのチーフアナウンサーであった小林完吾さんの、文化講演会が行なわれた。

 小林さんは、生まれて三か月の息子さんを、「知的障害と心臓障害を併せ持った病気、ダウン症」で亡くされていた。その息子さんのことを軸として講演は進められた。個性豊かな低い声でしんみりと、障害児を持った親の大変さを語り、悲しみに声を震わせ、障害者に理解を、と訴えた。

 「健常人の夫婦からも障害児は生まれます。あなた達だって、もしかしたらほんのわずかの差で、障害を持って生まれていたかも知れないのです」

 会場の母親たちはハンカチを握り締め、涙ながらに聞き入り,涙などに縁がないと思っていた生意気盛りの男子生徒たちまで、涙を流している姿が見えた。それ程、熱演であった。

 でも私はそんな光景を醒めた感じで見ていた。「小林さんは、障害児の親といってもたった三か月間だけであり、それも十二年も前のことである。そんな人に障害児の親の気持ちなどわかるはずがない。ポーズを取るのなんか止めて欲しい」と叫びたい気持ちであった。

 講演の後、小林さんは退場口におられ、一人ひとりに右手で握手をされていた。小林さんは勿論、母親たち、生徒たちまでも顔が涙でクチャクチャだった。小林さんの前に立った私は、

 「二十歳の知的障害の息子がおります」と、開き直るように言った。小林さんはハッとしたように私の顔を見て、右手だけではなく両手で私の手を強く握り締め、「頑張りましょうね」と、やさしくおっしゃられた。

 「頑張ってください」の励ましの言葉ではなく「頑張りましょう」という共同体のような言葉に、私の涙は堰を切ったように流れた。

 あれから、もう五年も過ぎているというのに、息子のことで胸がつぶれそうな思いの時、「頑張りましょうね」と、やさしく掛けられた言葉を、今でもふっと思い出す。

片山弘美 (群馬・49歳・主婦)


●いっしょにあそぼ!

 私は幼稚園と小学一年生の間、父の転勤で東京から大阪に引っ越し、小学二年生になって戻ってきた。転校生という立場はそのときが初めてであり、当然不安のかたまりとなっていた。

 教室に入ると、ありふれた場面ではあるが、先生が黒板に私の名前を書き、「では自己紹介をしてください」とおっしゃった。私はか細い声で名前を言い、よろしくお願いします、みたいなことを付け加えるのが精一杯てあった。

 やがて昼休みとなり、子供たちはそれぞれ自分たちの遊ひ場に散らばっていった。私は少し淋しさを感じながらも、図書館に行って好きな本でも読もうか、と考えていた。

 その時、目の前に三、四人の人影が立った。ちっとと驚いて彼らを見てみると、同じクラスの生徒たちだった。そのうちの一人が

 「いっしょにあそぼっ!」

 と少しブッキラボウに言い、残りの人たちは私を探るような目でじっと見つめた。その言葉は私の頭の中で、二、三度くり返された。うれしかった。私が何と答えたかは鮮明には覚えていない。だがその場面は今でもしっかりと覚えている。

 それ以後、「いっしょにあそぼっ!」はその他にもできた多くの友人たちの間での合言葉のようなものになった。友人の家のインターホンを押し、その合言葉をささやけば、友達はすぐに集合し、空地や公園で日が暮れるまで鬼ごっこや缶けりをして走り回った。この言葉は小学校を卒業するまでずっと有効であった。

 「いっしょにあそぼっ!」は、小学校のさまざまな思い出とともに大切に記憶に刻まれている。私はこれからも合言葉一つで集まれるような友人を、たくさん作るように努力したいと思う。  

寺門隼人(千葉・16歳・高校生)


●おかみさんにはなるなよ

 あなたは覚えていますか。「おかみさんにはなるなよ」、あの遠い日、あなたの別れの言葉です。

 サルトルとボーボワールに代表される、新しい男と女の関係がとてもまばゆい時代でしたから、私もあなたが求めている、ひとつの愛の形を知ってはいたのです。それなのに、平凡な結婚を選ぶと報告した時、あなたは『結婚なんてするなよ。次元が違うんだよ」と私を揺さぶりました。でもあの年齢の私には、自由奔放な次元など到底理解はできなかったのでしょう。

 当時、反対を押しきって上京したばかりの私は、今でいう就職浪人の身でした。躓いてばかりの行動と自立しなければならない貧しい暮らし。殼に閉じこもった臆病な気持ちの有りよう。そんな時代のアルバイト先で、あなたに見つかってしまった小さなメモ帳。

 「私はおまえのことを思ってゐるよ……
 まるで自分を罪人でもあるように感じて」

 中也の詩の一節を、私が書いたと誤解したあなたはいたく感動、大きな声で「いい詩だ。素晴らしい詩人だったんだ」と褒め称えてくれました。言いそびれて困って、話題がエスカレートしてしまった後の大笑いが、浪々の身を優しく癒してもくれました。

 それ以来、出版され始めたばかり詩人全集を、毎月私にプレゼントしなければならない羽目になりましたね。

 あれから幾歳月。あなたはお元気でしようか。時折昔話をしたいなと思うことがあります。私があの日の言葉に、どんなに励まされあるいは戒められてきたことかなど。

 詩人全集を途中で放り出したせいか、詩人にはなれませんでした。でも職場である図書館で、新しい辞書を見かけると「おかみさん」の項目を引いてしまうのです。そのたびにあの揺れていた時代の青いほろ苦さが甦って来るのです。  

葉月ひさ子(東京・52歳・司書)


●男はタフでなければ生きてはいけない。
  男は優しくなければ生きている資格はない

 平成五年十月二十七日、僕は、鈴鹿警察署より感謝状を贈られた。その八日前の十九日、僕は会社近くの路上でひったくり犯を取り押さえたのである。

 そのとき外出先から戻り、事務所で次の営業に出かけるための支度をしていた。すると外から女性の悲鳴が響きわたってきた。僕の体は瞬時に反応した。勢いよく事務所を飛び出すやいなや、次の瞬間には、もう男を後ろ手に組みついていた。通りがかりの人たちの手を借りて、空き地に連れてゆき、その男をうつぶせに寝かせた。格闘技の経験のある僕だったが、冷静さを取り戻すと同時に両膝がガタガタと震え出した。やがて警察が駆けつけ、男は連行され、逮捕に協力した僕と二人の男性も事情聴取のため警察所に呼ばれた。調書を作成する段になって、ひったくり犯をつかまえるまでの自分の行動についてほとんど明確に覚えていないのには、我ながら驚いてしまった。まさに女性の悲鳴に反応しただけの行動だったのである。ともかく、それから僕は、あちこちで英雄のようにもてはやされた。また、地力版ではあったが大手新聞社の取材を受けた。誇らしかった。

 その日僕は胸を張って帰宅した。妻には一番誉めてもらいたかった。ところが得意の絶頂にあった僕は、それがうまく伝えられずに、どうしたはずみか妻と口論になった。僕は大声を上げた。子供たちが泣き出した。僕はいよいよ昂奮し逆上した。気がつくと妻は左の頬を押さえながら泣き伏していた。反射的に妻に暴力を振るった自分が情けなく哀しかった。

 結婚前、僕はしきりに「男はタフでなければ生きてはいけない。優しくなければ生きている資格がない」と言ってはダンディズムを気取っていたくせに。こうしてその感謝状は男としての僕の誇りと戒めの記念品となってしま った。

原田祥司(三重・39歳・会社員)


●オラ親だがら

 若い頃の私はどうしようもないミーハー娘でした。十八歳で東北の田舎から上京し、俳優の養成所に入り、卒業してもたまに通行人の仕事が来るぐらいで、ろくに仕事は有りませんでした。だから暇で暇でしょうがなく、それならバイトでもすればいいものを、したりしなかったり。後はたいていフラフラ、フラフラ遊び呆けていました。お金はどうしたの?と思われるでしょうが、それはもっぱら親の仕送りに頼っていました。

 そのうち通行人の仕事ばかり来るのにイヤ気がさして、それもしなくなりました。そして相変わらずフラフラ、フラフラ。早い話、俳優も特にどうしてもなりたいというよりは、何か華やかそうな世界に憧れ、ちょっと近づいてみたかっただけなのです。それが入ってみたら通行人の仕事だけ。アッという間にイヤ気がさしたという訳ですが、かと言って他に目的は有りませんでした。ちゃんとした仕事につくのもイヤ、どうしたいのかも分からず、毎日ただ遊び場にたむろしているだけ。

 そんな風ですから、お金は幾ら有っても足りません。次から次と借金したり、何やかやしているうちに、二進も三進も行かなくなりました。借金とりに追いかけられ、結局父に泣きつきました。母はあきれてもう相手にしてくれませんでしたから。でも父は違います。父は私が幼い頃から溺愛してくれていて、私のいいなりの甘い父でした。さっそく上京して来た父が、全部払って始末してくれました。

 「スイマセン」も言わずタバコをふかしいる私の傍で、父が

 「オラ親だがら、お前が何すても最後迄絶対見限んねがんな」とポツンと寂し気につぶやきました。私の口からタバコがポロリと落ちました。衝撃を受けたのです、その言菓に。出来の悪い娘を持った親の強い覚悟の言葉。初めて「父ちゃんゴメンネ」と思いました。

 それからです、私が至極駅ともになったのは。説教より何より、心うたれた言葉でした、あれは。

井上ようこ(千葉・48歳・自由業)


●関西の人は地震に慣れていない

 「関西の人は地震に慣れていませんからね」

 阪神大震災があった数時間後、家の中がやっと片付いて余震に恐れながら東京発のテレビを見ていた時です。アナウンサーかどうかわからない男の人が言ったこの一言が忘れられず、今でも私の頭の中に焼きついています。

 オーバーな言い方だけど、昨日のことでさえも覚えてなかったりする私が、一年以上も前の、しかも誰かもわからない人が何気なく言った一言をなぜ覚えているのか、理出は二つあります。

 一つには、いろんなリポーターやアナウンサーが必死に現状を伝えたり同情したりしている中、何でそんなことしか言えないんだという「怒り」です。たしかに、関西の人間に地震なんて言葉は無縁だったかも知れません。でも、慣れるとか慣れていないとかの問題じゃないと思います。この人が地震に慣れていたとしても、地震が起きた時間、まだ眠っている神戸の街で一体何ができたというのでしょうか。慣れていないって何なんでしょう。

 そして二つめに、高速道路が倒れ、あれだけたくさんの建物が壊れて燃えてぐちゃぐちゃになった神戸の街を「地震に慣れていないですからね」の一言で片付けられてしまうたという「むなしさ」です。震災で亡くなった人達は、地震に慣れていなかったがために死んでいったのでしょうか。日がたつにつれ、震災の惨状がはっきりしてくるとともに私の中で大きくなっていきました。

 この二つの気持ちが混ざり、何とも言えない今まで味わったことのない気持ちを味わったので、今も頭に焼きついています。

 私はこの人に聞きたい。

 「慣れていなかったらどうなんですか?」

小林裕美 (兵庫・18歳・高校生)

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