『新解さん』と遊ぶ
              
(「 ぶっくれっと」 1997 NOVEMBER No.127より)

山口仲美(やまぐち・なかみ 埼玉大学教授)
 「ぶっくれっと」一覧

 言葉好きが楽しむ辞書

 『新明解国語辞典』は玄人が読んで楽しむ国語辞書だと思います。大槻文彦の『大言海』も読んで楽しむという面がありますが、それよりもう一歩進んでいる。玄人というのは、国語学者という狭い意味ではありませんで、一般に言葉について読んだり考えたりすることが好きな人間、言葉に興味のある人という意味で使っています。そういう人にとって、この辞書は最高のおもしろい読み物であろうと思うんです。「うん、この説明はいい」とか、「これはちょっとね」とか、考えながら読む。そういう意味では画期的な辞書だと思います。

 私なんかが楽しむのは、例えば[恋愛]の項目。まず、これほど詳しく書いてある辞書はないですね。「特定の異性に特別の愛情を抱いて、二人だけで一緒に居たい、できるなら合体したいという気持を持ちながら、それが、常にはかなえられないで、ひどく心を苦しめる状態」(第四版、以下同)とあります。

 前半の「できるなら合体したいという気持を持つ」までは、なるほどと思うんですが、「それが、常にはかなえられないで、ひどく心を苦しめる状態」とまでくると、「ん?」と思うのです。これは、恋の苦しみの説明だと思う。恋愛そのものの説明ではない。恋にとらわれ、苦しみ、苦悩する、そこまで入っている解説なんです。さらに『新解さん』は、「まれにかなえられて歓喜する状態」とまで書きますから、私など「あれ、恋愛って、そんな意味だっけ?」と、我が身の数少ない恋愛経験を思い出したりして考え込んじゃうわけです。

 読んで楽しい項目はずいぶんあります。[やにわに]なんかもおもしろいものですが、そういう例を挙げていくときりがないので、ここでは逆に、検討しなおしたくなる項目を挙げてみます。

 例えば、[そろそろ]という項目。用例に「花がそろそろ咲き始めた」とある。「段階的に進んで来た結果そういう時期になりかかっていることを表す」という説明の用例なんですけれど、「そろそろ」というのは、むしろ「枯れる」とか、「そろそろ足許が覚束なくなってきた」というような、マイナス状態になっていくときによく使うような気がするんです。「花が咲く」という、どちらかというと好ましいプラス評価のときも「そろそろ」と言うのかなあと、考え検討したくなるんですね。

 また、[おんな]という語を見ますと、「おんな猫」という用例が出てくる。これはどうかしら、「めす猫」じゃないかしら、という思いが頭をよぎる。こういうところが我々の楽しめる場所で、「ウッソー」とか、「それはないでしょう」なんて呟きながら楽しみ味わうことができるんです。

 用例  文学的な、余りに文学的な

 用例も独特ですね。[肩を持つ]という場合、ふつうの辞書だったら「弱い人の肩を持つ」という例が付されるんですけれど、「恋人の肩を持つ」とくる。こういうふうに、一種独特の色づけをもった用例が出てきます。

 [ひっそり]の例では、「ガラス戸の中はいつもひっそりしていたが、…・荒々しく砕けて浜に打ち寄せる波と、ひっそり静まるはるかな砂漠の対照は強く心に残った」。何か小説の一節でも読んでいるような感じですね。

 この[ひっそり]の四番目の意味の用例に、「新宿副都心の一角に、ひっそりだが(=そう賑ニギヤ かに世人の話題に上ることは無いが)、エネルギッシュに、一つの祭りが根づいた」とあります。これは古語辞典の説明の仕方と一緒です。[ひっそり]の用例にさらに、「そう賑かに世人の話題に上ることはない」という、意味内容を注記してあるという不思議さ。

 以上に挙げた用例もそうですが、作例にしては文学的だと思います。つまり、編者の山田忠雄さんかどなたか具体的には知らないんですけれど、その方が小説でも書くように用例を作っている、そんなふうに思える用例です。もう一つ例を挙げますと、[ほのぼの]で、「仕事から帰り、玄関を開けると台所からトントントンと包丁の音…。ほのぼのといい音です」

 これが作例でなく、具体的な小説からの引用例なのでしたら、それは出典を明記したほうがよいと思います。つまり小説というのは、言葉を普通とはちょっと違った使い方をするところに文学的な効果が出るわけですね。だから用例がふつうの言い方と少し違ってるなと思っても、出典が記してあれば、「小説家はなるほどこういうふうに、ちょっと斜に構えた使い方をする。おもしろいな」と、読みとることができるわけです。ところが作例と思って読みますと、「こういうふうには使わないのに、なんて文学的な言い回しだろう。一般にはそうじゃないだろう」と考えてしまう。

 『新解さん』は玄人向けの辞書として楽しめると、私は先ほどから申しあげておりますが、玄人向けであればこそ出典を明記すべきであると思うんです。作品名が書いてあれば、「ああ、こういう使い方もするのね」と、二重に楽しむことができます。それに、辞書の信用度も増すだろうと思います。

 用例の固有名詞が気になるというご意見もありますが、出典が書いてあれば、ほとんど気にならない。「用例に雪子さんが出てきても、あの小説は、雪子さんが主人公だもの」となる。西郷隆盛でも川上が出てきても不自然ではない。だけど、出典が記してないと、「なぜここの用例は雪子なんだ、なぜ西郷隆盛なんだ」ということになってしまいます。

 具体的な説明の表裏

 説明でおもしろかったのは、[新入り]です。「新しく・仲間(刑務所・留置所など)に入ること。また、入った人」と書かれています。説明が、とても具体的です。それが、この辞書の大きな特徴の一つです。ただ、具体的ということは、ものすごく分かりやすくてすばらしいことですが、反面、恐ろしいところがある。意味が狭められちゃうんですね。「新入り」という語も、刑務所や留置場などに入るときばかりじゃあなくて、社員になって会社に入るときにも、現実には使っているわけです。ですから、「新しく仲間に入ること」くらいに広くとらえておいたほうが無難だと思います。

 [裏門]もそうです。「表門を通ることが許されない・時(人)などに利用される、裏側に設けた門」と説明されて、とても具体的です。でも考えてみると、「裏門」は現代では、表門を通ることが許されていないから利用するわけではありません。距離的に近くて便利だから利用することもあります。「裏のほうにある門」くらいの広い意味にしておいたほうが無難ではないでしょうか。

 『新解さん』は、どこの辞書にもない、具体的な意味記述という長所をもっているけれど、それが欠点と背中合せになっているという危険も孕んでいる。

 もう一つ、細かいことですが、『新解さん』は漢語的表現と字音語的表現とを区別しています。ですが、どういう基準で分けてあるのか、その区別がいま一つ分からないんです。ふつう、我々は両方を区別しないで使います。漢語イコール字音語みたいにとっていますから、それを分けるのは、きっと何かの基準がおありなんだろうとは思いますが、それがよく分からないんですね。せっかく分けたのですから、違いが分かると有り難いと思うんです。

 編者に出会える喜び

 私は編者の山田忠雄さんという方を、直接は存じあげておりません。いろんな御著書や論文を通して知っている先生でしたが、その山田先生の個性が、この辞書を通して透けて見える。ふつうの人とはちょっと違う感じ方をされて、「あの先生ならこういうことおっしゃるかも」と、そういう編者に出会える喜びといいますか、他の辞書では味わえない楽しみがあります。最初に挙げた「恋愛」の説明にも、何か編者の人生経験がにじみ出ているような感じですね。

 それから、小見出しに編者の個性を感じます。例えば[うそ]の項で、「うそをつけ!」なんていうのが一種の成句みたいに扱われている。これはふつう、成句にはしないでしょう。編者の価値観というか、思想というか、人柄というか、何かそんなものがにじみ出ていて楽しい。

 また、これは赤瀬川さんの『新解さんの謎』でも指摘されていることですが、食への偏向みたいなものを感じます。[むっちり]といえば、私たちが考えるのはまず女性の体です。それが「イナゴは軽快で、香ばしく、肉にむっちりしたところもあって」となる。やっぱり編者はイナゴが好きだったんでしょうね。

 それにしても、何度も申しあげますが、言葉を専門にする人はもちろん、言葉について考えたり遊んだりすることの好きな人にはぜひ薦めたい辞書です。言葉をはじめて学ぶ人には少し酷な面もありますけどね。まあ、読んで楽しんだり、驚いたり、いぶかったり、ウフフフなんて言える辞書は、そうざらにあるものではありませんから。

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