素晴らしい!

(「ぶっくれっと巻頭エッセイ」NO.149号 2001 JULY)

米原万里

「スッバラシイー!」

 チェリストのロストロポービッチは、日本に滞在中この言葉を連発する。大好物の鯛の兜煮を頬張った瞬間にも、親しい友人に久しぶりに再会した時にも、共演するオーケストラとのリハーサルが順調に進んでいる最中にも、ふと目にした美しい風景に心奪われた折りにも、この上なく幸せという表情を湛えて叫ぶ。

「スッバラシイー!」

 ことの発端は、もう、かれこれ15年ほど前になる。ヤマハ音楽教室の生徒さんたちが作曲した作品を審査している時のこと。三日間にわたって、のべ150点以上の作品演奏に立ち会い、審査する。肉体的にも精神的にもかなりハードで、通訳をつとめた私にとっては、最後の一日は地獄だった。ところが、世界的名声を誇る音楽家は、すべての作品に全身全霊を込めて聴き入り、幼い作曲家たちにまるで大音楽家に対するように接し、丁寧に厳しくコメントしていく。それでいて、あくまでも、子どもを励ます姿勢を貫いていた。

 最初の五曲ぐらいまでは、全てのコメントをロシア語で述べて、それを私が通訳するという形をとっていたのだが、六曲目を聞き終えた時点で、マエストロはいきなり、「スッバラシイー!」と叫び、以後、コメントの中に頻繁にこの語を差し挟むようになった。一日目の日程が終了した時点で、こちらから尋ねようとしたら、マエストロに先手を打たれた。

「実に便利な言葉だね、スッバラシイーってのは」

「はあ?」

「だって、米原さんは、僕がadmirableと言っても、amazingと言っても、braveと言っても、brilliantと言っても、exellentと言っても、fineと言っても、fan-tasticと言っても、gloriousと言っても、magnificentと言っても、marvelousと言っても、niceと言っても、re-marcableと言っても、splendidと言っても、won-derfulと言っても、必ずスッバラシイーと転換しているんだもの。いやでも覚えてしまうよ」(ロストロポービッチは、もちろん、「素晴らしい」を意味するロシア語の単語を羅列したのだが、この一文を読まれる大多数の方々には分かりにくいのではという老婆心から、該当する英語の単語に置き換えた)

 部屋に戻ってから、辞書を引くと、ロシア語でも英語でも、「素晴らしい」と解釈できる形容詞が、彼が列挙した分のさらに五倍はある。それでも足りないらしく、貶し言葉を反語的に使って褒め言葉に転用している。ということは、それぞれ微妙なニュアンスがあって、使い分けられているのだろう。彼らは、何かに感心感嘆しつつも、その感情を呼び起こした対象を誉め称えるのに、最も相応しい形容詞をこの豊富な語彙の中から、選び取る作業を大わらわでしているはずなのである。感動が嘘偽り無いものだと、自分と他人を納得させようと必死な感じさえする。極めて緊張した人間関係がかいま見える。恐ろしいことに、こんなときに思わず口走る形容詞の選択肢の豊かさ、使用法の的確さに、感嘆した当人の教養、感受性がかいま見えるものだと、考えられているらしい。

 それで当初、私も、いちいち、「輝かしい」だの「驚嘆すべき」だの「まるで魔法のよう」だのとニュアンスを忠実に伝えるべく日本語に置き換えていたのだが、ひどく気恥ずかしい。不自然な、つまり嘘っぽい表現になってしまう。

 何しろ、『枕草子』の頃から、心を揺さぶられたおりの多様なニュアンスを、「あはれ」の一言で括ってきた伝統が、私たちの言語中枢に息づいている。若いお嬢さんたちが、好ましいモノすべてを、「カワイイ」の一言で片付けているのも、清少納言の延長線上で捉えれば、眉しかめるのも躊躇われてくる。

 というわけで、解決法、いまだに発見できず。日本人スピーカーが「素晴らしい」という語を発する度に、身構える毎日である。

(よねはら・まり エッセイスト)

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