曖昧の効用

(「ぶっくれっと巻頭エッセイ」NO.148号 2001 MAY)

米原万里

 文字で書かれたものが、実際にはどう発音されていたのか、録音技術の無かった過去のことになると、正確なことは、曖昧模糊としているものだ。

 今に伝えられるラテン語や古代ギリシャ語の文献を、当時の人々がどういう音のつもりで書き留めていたのかも、万葉集をどんな風に口ずさんでいたのかも、学者たちの類推にまかせるしかない。

 今ではすっかり綴りと無関係になってしまった英語の発音とて、きっと、綴りを決めた当初は、なるべく音の実体を写し取ろうとしていたはず。それを思うと、文字から音が離れていく速度は結構早い。たいそうな歴史的過去ではなく、わたしたちが生きるわずかな時間的流れの中でも、発音は軽々と変わっていく。

 たとえば、「七日」と記される何の変哲もない言葉。つい二十年ほど前の調査では、西日本では「なぬか」と発音する者が多く、逆に、東日本では、「なのか」と発声する者が大勢を占めていた。手元の国語辞典を引くと、両方の発音を認めているし、ワープロで「なぬか」と打ち込んでも、「なのか」と打ち込んでも、「七日」と転換されるようになっている。もっとも、お気づきのように、現在は、「なのか」が西日本でも多数派になりつつあり、万葉集では「なぬか」とされていた発音はどんどん駆逐されつつある。

そういう流れは、放送界では比較的保守的なNHKのアナウンサーの発音にも如実にあらわれていて、とくに若手の中には、「なのか」と発音するものがものすごい勢いで増えてきている。NHK自身も、両方を容認する構えのようだ。

 ところが、食べ物や教育と並んで、言葉については、万人が何かしら言い分を持っていて、しかも、自分こそは正しいという妙な自信も併せ持っていることが多い。というわけで、アナウンサーが「なのか」と発音しようと、「なぬか」と発音しようと、そのたびに、NHKに苦情の電話が鳴る。

「あの誤った発音は、けしからん。最近はアナウンサー教育がなっとらんのではないか!」

 ご苦労様なことである。

 こういう場合は、どちらにも聞こえるような曖昧な発音にしてはどうかと、わたしは思う。「なのか」派には「の」と聞こえ、「なぬか」派には「ぬ」と聞こえるような微妙な中間音にすればいいではないか。

 というのも、同時通訳の最中に、わたしはしじゅうこの手を使って急場を凌いでいるのだ。

 ロシア語の名詞は主に語尾によって男性形、中性形、女性形に別れており、形容詞は、己が修飾する名詞にあわせて語尾変化する。性一致の法則。これは、フランス語でも馴染みがあるだろうが、ロシア語の場合、形容詞は必ず修飾する名詞に先行する。

 以前、まだ通訳稼業に就く前のこと、ブレジネフの演説を聴いていたら、「社会的、政治的、経済的、文化的、教育的」という形容詞の羅列があり、語尾が女性形だったのが、最後に「側面」という男性形の名詞が来ることに直前になって気付いたらしく、あわてて全ての形容詞を最初から男性形に言い直していたのが、可笑しかった。

 同時通訳になってからというもの、可笑しいでは済まなくなる。最後に来るだろう名詞が何か分からないまま、てことは、名詞の性も皆目見当のつかないまま、その前に発せられる形容詞を口にしなくてはならなくなったのだ。最後に来る名詞を聞くまで黙っていたら、第一、聞き手の信用を失ってしまうし、それより何より記憶力が持たない。 それで、苦肉の策として編み出されたのが、形容詞の語尾を極力曖昧に、どうにでも聞こえてしまうように発音するという姑息にして優れもののテクニックなのである。

 発音が変わっていくきっかけは、案外こんなところにあるのかも知れない。

(よねはら・まり エッセイスト)

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