届かない言葉

(「ぶっくれっと巻頭エッセイ」NO.144号 2000 SEPTEMBER)

米原万里

 ここ五、六年というもの、ニュース番組で偉い人が頭を下げて謝罪する場面を数限りなく見ている。最低でも週に二回は見ているような気がする。大臣や中央官庁の高官、警察の幹部、大会社の会長や社長、中には役員一同が揃って土下座までしているのもある。

 そこまでする以上、深く反省し心の底から詫びているのだろうと思いたいのだが、お決まり謝罪ポーズに先立って発せられる彼らの言葉を聞く限り、ひどく嘘っぽくて心が籠もっていない。謝る気なんかさらさらないんだけれど、社会的に謝らなくてはならない立場に追い込まれたものだから、仕方なく謝罪の形式を踏んでいるという感じが見え見え。こんな謝られ方して納得する者がいるんだろうかと思うぐらい空々しい。

 その証拠に、彼らが発した謝罪の言葉で、未だに忘れられないほど印象に残っている言葉が全く見当たらない……と書いたところで、思い出した。

「悪いのは、私です。社員ではありません」

 と言って泣きじゃくった、倒産した山一証券の社長の言葉と、もう一つ、こちらは謝罪ではないが、食中毒事件を起こした雪印乳業の社長が、群がる報道陣を非難して顰蹙を買った一言。

「もう何日も寝ていないんだ」

 両社長とも、今引用した言葉に先立って、正式の謝罪を行っているのだが、そちらの方は聞かなかったも同然ぐらいに印象がないのと好対照なのである。

 何でこんなことを問題にするのかと言うと、通訳を生業とするわたしは、音声として発せられた言葉を耳で聞き取って別の言語の音声に置き換えて伝えるということをやっているのだが、同じ音声ながら聞き取りやすく理解しやすく、従って訳しやすい発言と、非の打ち所のない整った文章がまさに立て板に水のごとくよどみなく流れているのに、恐ろしく意味がつかまえにくく、従って訳しづらい発言があるのに常々悩まされているからだ。この違いは何なのだ!? と。

 そして、山一と雪印両社長の印象に残った言葉、要するに、聞く者の意識に達する浸透力を持つ言葉は、一個人から、つまり一人の人間から発せられた言葉であることに気付かされたのだ。

 個人が発する言葉というものは、その内容の是非正邪に関係なく、次のようなプロセスを経て生成するものと思われる。まず話し手には、何か言いたい感情や考えが芽生え(概念<1>)、それを表現するに相応しい語や言い回しを探し当て(信号化)、発声器官に乗せる(表現)。この音声は聞き手によって聞き取られ(認知)、意味が解読され(信号解読)、話し手の言いたいことはおそらくこうだろう(概念<2>)と推測する。概念<1>が概念<2>に近ければ近いほど、コミュニケーションは成立したということになる。話し手における言葉の生成過程は、聞き手におけるその解読過程と驚くべき対称形を成している。

 ところが、謝罪会見する責任者たちは、揃いも揃って、文章を読み上げる。それも、自分で書き綴った文章ではなく、部下たちの作文を。部下たちは、部下たちで、心の底から反省し、申し訳ない気持ちの中から絞り出すようにして相応しい語を探り当て、文章を組み立てていくというよりも、職務上やむを得ず、こういう場合の紋切り型を寄せ集めてきて謝罪文をでっち上げる。責任者は、この謝罪文を、一語一語、再び己の感情と思考を通過させて、自分の言葉として発する(良き俳優は、このようにして台詞を生きた人間の言葉に変えるのだが)のではなく、これ見よがしに棒読みする。 要するに、彼らが発する言葉は、一人前の言葉がたどる生成過程を経ていない。

 そして、それは、もののみごとに言葉の聞き手における解読過程に反映される。何しろ、両者は対称関係にある。分かりやすく言うと、心から発せられない言葉は心に届かないということなのだが。

(よねはら・まり エッセイスト)

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