我慢の限界

(「ぶっくれっと巻頭エッセイ」NO.136号 1999 JMAY)

林 望

 かの『老人力』の筆法に倣っていえば、このごろは著しく「小言力」がついてきたので、どうも耳障りな言葉遣いが気になってしかたがない。

 たとえば、「あげる」という補助動詞の用法などがそれである。本来、「あげる」は、己を低くし相手を高くする謙譲語であった。だから、お年寄に向って、「肩でももんであげましょう」という風に言うのが正しい使用法で、目下の者に向っては原則的に用いないのが当たり前であった。つまり、自分の子供に向って「これ、買ってあげようか」というのは、本来的には、ちょっとおかしい。けれども、それでは、「あげる」を使わないとすると、「これ、買ってやろうか」という風に言わざるを得ず、それだと、お父さんなどが言うのならいいが、お母さんの言葉遣いとしては、ちょっと違和感があるであろう。だからこれはまず良いことにしよう。

 またここに、幼い兄弟がいたとして、その弟に向っていうときは、母親は「お兄ちゃんに代わってあげなさい」といい、兄に向っては「○○ちゃんに代わってやりなさい」というのが正しいのだが、今は万事平等の世の中になったことだし、そこまで厳格に使い分けなくてもよかろうと私自身は思っている。すなわち、兄弟の何れに対しても「代わってあげなさい」というのは、認めてもいいと思うのである。分析的にいえば、「やる」という補助動詞の品位が低くなって下品・乱暴なニュアンスを含むようになり、一方「あげる」の方は、敬語としての感覚が薄れてより中立的な感じになってきたために、すべての場合に「あげる」が用いられるようになった、のであろう。

 が、最近、これはどうにもならぬ、我慢の限界を越えるという用法に遭遇した。それは、さる民放テレビのお料理番組で、まだ年若い女の先生が、シャケのホイル焼きのようなものを作ると言って、説明をしていた。 「このホイルの端のところから、二重にしっかりと『折ってあげてください』」

 私はつくづく情けないと思った。相手が人間であれば、「あげる」を単なる丁寧語として用いて構わないとはいうものの、しかし、この場合その折るという行為の相手は「アルミホイル」である。こうなると、明らかに、言葉としての限界を越えるのであって、これは明らかな「誤用」である。百歩譲って、犬や猫について「抱いててあげて」というような言い方も、これはペットに疑似的人格を与えるということで許容しよう。しかし、アルミホイルだの、シャケの切り身だのに、なにかをして「あげて」はいけない。

 よく注意してみると、この種の誤用はまたほかにもあって、たとえば、「いただく」というのがある。試みに婦人雑誌や料理雑誌などを一読されよ。すると、「出来上がりのあつあつをいただきます」というような言い方がしょっちゅう出てくる。たしかに「いただきまーす!」というのは、神への感謝的な意味で使われる「あいさつ」ではあるけれど、しかし、飲食の動詞としてはどこへ使ってもいいというものではない。むしろ、普通の飲食動作としては「たべる」と言うのが正しいので、それをむやみと「いただく」のは却っていやしい。そこに気づかない軽薄なお料理記者だの雑誌編集者だのが、こういう浅はかな「いただく」を連発して恥ずかしいとも思わないので、それを読んだこちらは、どうにも居心地の悪い感じを我慢しなければならぬ。とはいえ、所詮多勢に無勢、いくら小言力を発揮してもどうにもなるまい、と私は密かに天を仰いで溜め息をつくばかりである。

(はやし・のぞむ 東京芸術大学助教授)

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