壷中庵の主

(「ぶっくれっと巻頭エッセイ」NO.135号 1999 MARCH)

林 望

 ふと思い立って荷風の『断腸亭日乗』を読み始めた。

 ちょっとつまみ食いするつもりで読み始めたところが、ああ、面白い面白い、すっかり夢中になってしまった。

 むかし、先師森武之助先生が、こんなことを言われたことがある。 「昨日、荷風の『断腸亭日乗』をさ、おしまいのほうから逆に読み始めたら、ああ、あれはじつに面白いね。面白くてとうとう頭まで読みきっちまった」

 そのときは、しかし、(ものを知らぬというのは恐ろしいことで)それじゃあ一つ自分も読んでみようかとも思いはしなかった。

 それからはや四半世紀が瞬く間に経って、五十歳も、はや目の前となった。

 それで、さて、荷風散人は、この今の自分くらいの折節にはいったい何をし、何を思いして日を消していたのだろうと気になった。

 すると、荷風は、壮士だか文士だかというような乱暴者に暴行を受けたりすること一再ならず、また、鴎外の墓参に赴けば、そこに与謝野寛が「慶應義塾大学部教授文化学院教授」と麗々しい名刺を付けた花を手向けているのを目撃して「老狐の奸策さても悪むべきなり」と痛罵したり、そうかと思うと、芥川の自殺の報に接した折は、ただ「よくも今日まで無事に生きのびしものよ」などと、ごく暢気な感慨を催したりしている。あるいはまた、漱石未亡人夏目鏡子刀自が『漱石の思い出』を発表したなかに、漱石の「追従狂」の病跡を暴露したことを「実に心得ちがひの甚だしきものなり」と憤慨の極に至る。

 と、かように多端なる昭和の二年、彼また四十九歳の時に、芸者のお歌というものを籍かせて囲い者となし、西之久保八幡町というところに、(正妻も居ないのに)妾宅を構えて、これを「壷中庵」と号した。以後、日乗はしばしば「壷中庵に宿す」と伝える。

 すなわち、『壷中庵記』なる雅文を作って曰く、

 「西窪八幡宮の鳥居前、仙石山のふもとに、壷屋とよびて菓子ひさぐ老舗が土蔵に沿ひし路地のつき当り、無花果の一木門口にさしのべたる小家を借受け、年の頃廿一、二の女一人囲ひ置きたるを、その主人自ら扁して壷中庵とはよびなしけり。朝夕のわかちなく、この年月、主人が身を攻むる詩書のもとめの、さりとては煩しきに堪兼ねてや、親しき友にも、主人はこの庵のある処を深くひめかくして、独り我善坊ヶ谷の細道づたひ、仙石山の石径をたどりて、この庵に忍び来れば、茶の間には鼠樫の三味線あり、二階の窓には桐の机に嗜読の書あり。夜の雨に帰りそびれては、一つ寝の長枕に巫山の夢をむすび、日は物干の三竿に上りても、雨戸一枚、屏風六曲のかげには、不断の宵闇ありて、尽きせぬ戯れのやりつづけも、誰憚らぬこのかくれ家こそ、実に世上の人の窺ひしらざる壷中の天地なれと、独り喜悦の笑みをもらす主人は、そもそも何人ぞや。昭和の卯のとしも秋の末つ方、ここに自らこの記を作る荷風散人なりけらし。

  長らへてわれもこの世を冬の蝿」

 げに、暢気な時代だったのである。そして、私も四十九歳、干支は偶然に兎年。

(はやし・のぞむ 東京芸術大学助教授)

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