許容の範囲

(「ぶっくれっと巻頭エッセイ」NO.126号 1997 SEPTEMBER)

阿川佐和子

 仕事仲間と話をしていて、ふと相手の口から「バッシュ」という言葉が飛び出した。

 「なにそれ」

 私はすかさず低くドスのきいた声で反応する。どうせまた、わけのわからん若者言葉にちがいないと思ったからである。

 「やだなあ、バッシュを知らないんですか?」

 「知るわけないでしょ。若者じゃないんだから」

 「若者じゃなくたって誰だって知ってますよ。バスケットシューズをバッシュと言うなんて、僕が子供の頃から使ってましたよ」

 そう笑うのは、雑誌編集者の青年である。青年といっても三十を過ぎた一児の父親だが、ときどき彼と言葉が噛み合わなくなり、世代のギャップを感じるのである。その前も、「その人、グラサンかけてたんだけど……」と言い出したので、私の頭に突然、拒否ランプが点灯し、「グラサン?」

 知らないわけではない。話の脈絡からおおよそ想像はついた。サングラスのことであろう。でも、サングラスのことをグラサンと言うこと自体に抵抗を感じる。いやしくも言葉を商売とする編集者が使うとはなっとらん。唇尖らせ不機嫌になると、彼は静かな声で、「アガワさんが言葉を大事になさる気持ちはよくわかります。わかりますけどね。今は打ち合わせの時間なんだから、そういちいち話の腰を折らないで、とりあえず最後まで聞いてくださいよ」

 なにやら頑固婆さんが息子に諭されるような格好で、口を封じられた。

 最近どうも、この手の場面が多くなってきた。若いカメラマンに道を聞いたとき、「あのファミマの角を曲がって」と言われ、とたんに腹が立ち、「そんな省略語がありますか」

 しかし考えてみれば私も勝手なのである。ファミリーマーケットをファミマと言われると不快なくせに、ファミコンには慣れてしまっているし、パソコンという言葉も日常的に使う。ファミレスはいただけないが、コンビニは許す。プリクラにはようやく馴染んできて、むしろ正式名のほうが出てこないが、テレカ、ハイカと聞くと虫酸が走る。

 新しい言葉に抵抗があり、古い省略語ならいいかと言えばそうでもなく、学生時代、女友達に、「タマタカ行かない?」と誘われてギョッとしたことがある。彼女は玉川高島屋のことをタマタカと呼ぶが、日本橋高島屋をニチタカとは言わない。東京プリンスホテルをトウプリと言い、品川プリンスホテルをシナプリとは呼ばない。どういう使い分けでそうなるのか知らないが、私としてはその省略名を初めて耳にして二十年経った今もって、タマタカもトウプリも耳慣れない。

 四十代の私がこんなふうだから、年輩諸氏はもっと辛い思いをしておられることだろう。「最近の若者の言葉に腹が立ったりなさいませんか」

 先日、森光子さんにお会いして伺ったところ、

 「いいえ、ぜんぜん。違うなあとは思いますが腹は立ちません。おもしろいと思う」

 言葉だけでなく風俗、流行、考え方に至るまで、新しいことには何でも好奇心が湧き、知りたくなるのだそうである。ははあ、だから森さんは若い男性にもてるのか。だからご自身、いつまでも歳を取られないのか。反省し、私ももう少し心を広く持とうと心に決め、対談終了後、くだんの若者編集者に声をかけた。

 「じゃ、帰りはタクろうか」

 学生時代、友達同士の間でタクシーを拾うことをそう言っていた時期がある。すると、

 「なんですか、それ。下品だなあ。そんな言葉、使いませんよ、気持ち悪い」

(あがわ さわこ・エッセイスト)

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